白竜の追撃
「ハアハアハア……」
荒れ果てた新宿の車道だった。
拉げた街灯や潰れた自動車の散乱した穴だらけのアスファルトの路面の上で、獣王バルグルが苦し気な息を漏らしていた。
半身の失われた獣王が今その身を預けているのは、ファング、クラーレ、ナーゼの三兄弟が合体した、馬車馬のような体格の三つの頭を持つ、巨大な黒犬だった。
獣王と黒犬兄弟の正面に転がっているのは、バルグルの蓬髪から放たれた刃に円環上の身体を貫かれ路面に転がった動かぬ大ミミズ。そしてミミズの巨体に押しつぶされて絶命した牙蜘蛛の御者の姿だった。
「どうにか……斃せたか。だがこれは……きついな……!」
カナタとルナを大ミミズの突撃から逃がすために、犬たちの力を借りてミミズをまいた獣王だった。
銀色の蓬髪から放った刃で巨大な長虫とその御者をどうにか斃したバルグルだったが、半身を失ったまま戦いに身を投じた獣王は、予想以上に疲弊していた。
「ご苦労だったな兄弟。お前たちもキツイだろうが、あと少しだけ、この俺に付き合ってくれ。さあ、マガツの巣まで俺を……!」
「バルグル様!」「バルグル様!」
バルグルの半身を覆った鎧は砕け、むき出しになった逞しい上体のそこかしこには、痛ましい切り傷と刺し傷が刻まれていた。
それでもなお、獣王の闘志は潰えていなかった。
犬たちもバルグルの鼓舞に答えて、一斉に声を上げた。
「感じる。この魔気はシュラ……シュン! 戻ってきたのか……!」
黒い森に覆われた市街に聳えた都庁舎の方を仰いで、獣王はそう呟いた。
バルグルの鼻が、辺りの空気を嗅いでいた。
「人間どもと一緒に、牙蜘蛛どもと戦っているな……!」
バルグルは、少し嬉しそうに獰猛な顔に不敵な笑みを浮かべた。
「人間ども……面白いな。だがマガツを斃すのはこのバルグルだ。それに……」
獣王の形相に険しさが帰ってくる。
「連中に……大接界を止めさせるわけにはいかねえ……」
バルグルがそう呻いて、犬たちと共に都庁舎の方角に歩みを進めようとした、その時だった。
「そんな事にはならないよ。獣王バルグル!」
「……その声は!」
辺りを渡った嘲るような少年の声に、バルグルは訝しげに周囲を伺う。
次の瞬間、ユラン。獣王の正面の光景がグニャリと歪み。路上に真っ白な霧が降る。
「これは『虚空の霧』……!? お前は……!」
「その通りだ。久しいな獣王よ……」
驚愕の声を漏らすバルグルに、霧の向こうから立ち現われた人影が、澄み切った声でそう答える。
風になびいた純白の髪、オリーブ色の肌、琥珀色の瞳。
今、獣王と犬たちの前に立っているのは、小柄な全身を覆ったゆったりとしたローブに包んだ、一人の美貌の少年だった。
魔王アオレオーレだ。
「ああ、なんてざまだ獣王。魔影世界最強格を誇った獣の谷の王が、今では犬たちに頼らねば動くこともできないなんて……。牙蜘蛛マガツ。また随分と大胆な賭けに出たものだ……!」
「ふん、アオレオーレか。何しに来やがった……」
形の良い眉を寄せて大仰に声を上げるアオレオーレに、獣王は唇の片端を歪めて忌々しげにそう尋ねる。
バルグルの銀色の蓬髪が再びざわめき、より合わさり銀色の刃を形成すると、アオレオーレに照準を定めていた。
「だが安心しろバルグル。もう妃の敵、魔王マガツの誅滅に心を砕く必要はない。吹雪の国の新たな魔王と彼の軍団が蜘蛛たちを退けるだろう。だから君は……」
美貌の魔王はバルグルを見据えて、優雅に微笑んだ。
「思い残すことなく、私に滅ぼされるがいい。『大接界』など、このアオレオーレが許さないよ……」
「ふん。やっぱりそういうハラか。お前は絶対に勝てると踏んだ相手の前にしか出向いてこないからな。14年前、魔王マシーネを焚き付けてリーリエを襲わせたのもお前だな……?」
「まあね。あの引きこもりは何故だか人間とも縁が深いし、微細な接界点を通じてこちらの世界に干渉することも出来るからね。出来ればあの時、君の始末もつけておきたかったんだが……シュライエだけではなく!」
アオレオーレの貌から笑みが消えていた。
琥珀色の瞳が冷たく輝いた。
ローブの内から露わになった少年の掌底が、獣王の方を向いていた。
「兄弟、跳べ!」
次の瞬間、バルグルの号令とともに獣王と黒犬の身体がアオレオーレの正面から飛び退った、と同時に、ズドン!
轟音が空気を震わせる。
アオレオーレの放った見えない衝撃波が、今しがた黒犬の立っていた路面のアスファルトを砕き、飛礫を周囲にまき散らした。
「『ブリントの衝壁』か! だが当たらなければ……」
「ふん、逃がさん!」
ズドン! ズドン! ズドン!
アオレオーレの掌底から矢継ぎ早に放たれる衝撃波。
だが獣王にも犬にも、その波は達さない。
アオレオーレが技を放つその直前、間一髪で飛び退る黒犬のスピードに、少年の放つ技は追いついていないようだった。
「戦下手のアオレオーレ! 技そのものは見えなくとも、お前の殺意の向かう先は、手に取るように分かるぞ!」
犬たちの背で、獣王は凄絶に笑った。
「今度は俺の技が読めるか、試してみろアオレオーレ!」
「……くっ! 話が違うぞ翼人!」
ザワザワザワ……。
獣王の蓬髪から形成された銀色の刃が、再びその照準をアオレオーレに定める。
美貌の魔王が初めて狼狽の声を上げる。
半身を奪われ動けぬバルグルと傷ついた黒犬三匹、斃すのは容易と踏んでいたのに、目算が狂ったようだった。
オリーブ色をした少年の美しい貌が、忌々しげに歪んだ。
ギン! ギン! ギン!
獣王の蓬髪からアオレオーレ向かって、たて続けに放たれる銀色の刃。
「侮るな! バルグル!」
アオレオーレが叫ぶ。
自身に迫る刃を前に少年は再び掌底をかざした。
途端、ユラリ。
少年の正面に発生した濃密な白い霧。
獣王の刃が霧に飲まれてそのまま何処かに消失する。
バルグルの技もまたアオレオーレに通じなかった……かに思われた、だが、その時だ!
「とったぞ、アオレオーレ!」
「……なっ!」
自身の頭上を覆った影を、アオレオーレは愕然として仰いだ。
少年が刃に気を取られた一瞬をついて、バルグルと黒犬は、大きく跳躍していた。
獣王の振り上げた図太い腕が、少年の頭上に今まさに叩きつけられる……だがその刹那、
「フ……!」
アオレオーレは唇の片端を歪めて嗤った。次の瞬間!
「ガアアアアア!」
「バルグル様!」
獣王の咆哮と黒犬たちの狼狽の声。
バルグルの上体が、黒犬の背を離れて空中に吹き飛ばされていた。
虚空に生じた幾本もの鋭利な「何か」が獣王の半身を刺し貫いていた。
「ぐうう!」
苦悶の声を上げ、路上に転がる獣王の身体。
彼を貫いていたのは、獣王自身が放った、銀色の刃だった。
「私を舐めるなよ、獣王。『虚空の霧』はこういう使い方もできるのだ!」
獣王を見下ろし、アオレオーレは勝ち誇った。
美貌の少年が発生させた『虚空の霧』に吸い込まれた獣王の刃は、次の瞬間には少年の背後に漂っていた霧の中から飛び出し、ベクトルを変えて獣王自身を刺し貫いたのだ!
「バルグル様!」
「これで、終わりだ!」
ズドン! ズドン! ズドン!
獣王の元に駆け付けようとする黒犬の身体に、アオレオーレは間髪入れずに『ブリントの衝壁』を放つ。
「うわああああ!」
衝撃波が黒犬の身体を叩く。
馬車馬ほどもある黒犬の巨体が、再び元の三兄弟の姿に分かれて、路上に転がった。
「ハハハ! 一瞬ヒヤリとしたが、野蛮な獣どもなど、やはりこの白竜の上主の敵ではない。死ね、獣王……!」
アオレオーレが高笑いしながら、バルグルと犬たちに再び掌底を向けた、その時だった。
「待ちなさい、アオレオーレ!」
アオレオーレの作った霧の中から、彼を制する鈴を振るような声が聞こえた。
「フン。翼人か……」
声の主の正体を知っているのか、アオレオーレは鼻を鳴らした。
「約束したはずよ。バルグルにとどめを刺すのは、あなたの役目じゃない……」
霧の向こうから、声の主が姿を現す。
純白の翼、身にまとった鎖鎧、輝くような黄金の髪、青い瞳。
翼の少女、リートの姿だった。
「お前……リート!」
突如現れた、かつての自分の臣下の姿に、バルグルは灰色の瞳を見開く。
「獣の谷を捨てた裏切者。流れ者のバルグルは、谷の戦士の手で……この私の手で直接処断する……」
ブツブツとそう呟きながら、リートはバルグルの方に向かって、ゆっくりと歩みを進めていった。
リートの青い瞳が、冷たい光を湛えてバルグルを見下ろしていた。
そして少女の右手には、黒曜石の刀身を艶めかしく輝かせた、一振りの短刀が握られていた。
「リート? 嘘だろ?」
「やめろ!」「やめろリート!」
地に伏し動けぬ黒犬たちが、リートの姿を認めて次々に狼狽の呻きを上げた。
「そいつは……『マーデの短刀』……! なぜだリート。なぜそれを、お前が……!」
少女の握った短刀を見据えて、獣王は苦悶の唸りを上げた。




