大ミミズの襲撃
「ようやく『森』を抜けたみたいね。『向こう側』と混ざりあってるのは、まだ此処までってことか……」
「はい、カナタさん……」
人気のない真っ暗な地下道をヘッドライトの明かりで照らしながら、疲労困憊した様子で行進してゆく一団があった。
シュンの姉カナタと、同行するルナ。
そして二人の少女に支えられた獣王バルグルと、彼に付き従う三匹の黒犬だった。
闇夜に紛れて牙蜘蛛の居城を逃れてから、すでに十時間近く経している。そろそろ夜も明けるだろう。
夜目が利かないとはいえ、街中の何処に潜んでいるともわからない牙蜘蛛一族との接触を避けるため、カナタの選んだ逃走経路は地下鉄の路線だった。
もう運航できる状況にない、東京メトロ丸ノ内線の線路を経由して敵地を脱出。
東京港晴海埠頭に停泊したラインハルトの『SOS号』に合流しようというカナタの計画は、だがその開始当初から、思わぬ難関に直面することになった。
『大接界』の始まりと同時に新宿一帯に出現した巨大な森。その鬱蒼とした樹木の根が、地下構内にも黒々とした根を張って、カナタたちの行く手を阻んでいたのだ。
カナタとルナは、もぬけの空になった金物店から持ち出してきた剣鉈を振って根を払い、必死の思いで行路を切り開いた。
犬たちは木の根に食いつき、引きちぎり、二人とバルグルの前進を助けたが、一行の歩みは遅々として進まなかった。
不眠不休で鉈を振り道を開き続け、ようやく『森』の範囲の外に達したのは、すでに夜明けも近いこの時間だったのだ。
「まったく、こんな根っこ、俺たちが焼き払えばすぐなのに、なんでこんな思いをして……」
「こんな場所で火の手を上げたらあいつらに気づかれるでしょ! それに息ができなくなるでしょ! あたしたちはあんたたちと違うの、このバカ犬!」
「クゥーーーン……」
カナタの叱責に、黒犬兄弟の末弟ナーゼが、頭を垂れて鼻を鳴らした。
「まあともかく、此処までくれば後は楽して……」
眼前に開けた暗い路面を頭にかぶったヘッドライトで照らし、眺め回しながら、カナタが少し安堵したように肩で息をした、その時だった。
「カナタ……それとルナ……。世話になったな」
「……え?」
二人に支えられたバルグルが、しみじみした声でそう呟き、カナタは小さく驚きの声を上げた。
「俺と犬たちは此処までだ。お前らは早く仲間の元に戻れ。『境目』はすぐに広がるぜ。此処に奴らが来るのも時間の問題だ……」
「此処までって、だってあなた、その創……!?」
「腐っても俺は魔王。あとは自分でどうにかするさ。それに、あのマガツを殺すのは、俺の仕事だ……」
戸惑いの表情でバルグルを見るカナタに彼はそう答えると、獰猛な顔でニタリと笑った。
新宿一帯に満ちた強烈な魔気ゆえだろうか。
牙蜘蛛マガツに引き裂かれた獣王の下半身は、いまだに失われたままだったが、既にその創は塞がり、獣王の声には力強さが戻っていた。
「バルグル様! 牙蜘蛛と戦うので!?」
「ああ兄弟。そしてさらばだカナタ。次にまみえた時は敵同士だ。一人前の戦士として、お前にもシュンにも、決して手加減はしねえ……!」
「本当に……いいのね? だったら……!」
バルグルの声に揺るがぬ意思を感じ取ったのか、カナタは剣鉈を鞘に納めると、空いた右手で腰に下げたポーチを探り始めた。
「これ、返しとく……」
「それは……!」
カナタがポーチから取り出してバルグルの眼前に突き付けたのは、幾種類もの煌びやかな宝石をあしらった、黄金のネックレスだった。
ラーメン屋の前の路上で、獣王バルグルから彼女の首にかけられたものだった。
「ラーメンの代金にしては高すぎだし、あの時は助けられてばかりだったし、なんだか気分悪いし、それに……」
あの時以来ずっと胸にわだかまっていたモヤモヤした思いを、カナタはバルグルにぶつけた。
「このネックレス、女もの……誰かにプレゼントするためのものだったんじゃないの?」
「……いや。いいんだカナタ。そいつはお前が持っていてくれ……」
しばしの沈黙の後、バルグルはカナタにそう答えた。
獣王の灰色の目が、カナタをジッと見据えていた。
「お前さんは、あの時立派な事をしたし、俺はそれに応えたかった。あいつが生きていたって、いや、生き返ったとしたって、笑って俺を許してくれるさ。『立派な事をしましたね』ってさ……」
「生きていたって……!?」
獣王の返答に、カナタは言葉を詰まらせた。返す言葉が見つからなかった。
「それに……これは俺の身勝手だが、もしも俺が敗れて俺が消えた時、お前みたいな人間の戦士に……俺の事を覚えておいて欲しいのさ。このバルグルは戦士として、最後まで背中を見せずに戦ったって事をよ……!」
「……なっ……!!」
次に発したバルグルの言葉に、カナタの両目は見開かれ、その肩は戦慄いた。
「そんな事にはならない! そんな事させない! あたしは敗けない! シュンも敗けない! でもあなたも敗けない! あなたは死なない! ……な、何を言っているか、わかんないかもしれないけど、とにかくそうなる! あたしがそうするから! それまでは……!」
カナタは貌を真っ赤にして途中で小声になりながら、言葉を継いだ。
「これは預かっておくから。あとラーメン代は別途請求します。次に会った時は日本円で2750円、耳を揃えて返すこと……!」
「……ハハ! ああ、わかった覚えておくぜ!」
路面に貌を伏せ、モジモジしながらラーメン代を請求するカナタに、獣王が吹き出しながらそう答えた、その時だった。
「ん……?」
いぶかしげに辺りを見回す獣王の顔から、笑みが消えていた。
目には厳しい光が戻っていた。
「何か……来る!」
「え? 電車? そんな馬鹿な!」
バルグルの言葉に一同が驚きの声を上げた、数瞬おいて、
ゴゴゴゴゴゴゴ……
地鳴りが響いた。一同の踏みしめた路面がユサユサと揺れる。壁面がひび割れ剥離してゆく。
「牙蜘蛛の追手だ! デカイぞ!」
「こっちに……向かってきている?」
「いかん! 走れ、お前ら!」
犬たちもまた次々に警戒の唸り声を上げた。
カナタたちの来し方、地下鉄のトンネルの闇の向こうから、猛烈なスピードで巨大な何かが迫ってくるのだ。
カナタとルナが、次いで犬たちが、全速力で路面を走り出した。
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「地上に……地上に出ないと!」
「次のホームは……? ああ!」
このままでは背後から迫る何かに、全員ひき殺される。
バルグルを支え、必死の思いで全力疾走しながら、カナタは地上への出口を探す。
ヘッドライトの照らす先に次のホームが見えてきた。
東京メトロ丸ノ内線「新宿御苑前」。
どうにかホームによじ登った一同が、バルグルとともに階段を駆け上がり、地上に転がりだした、その時だった。
ドカン!
叩きつけるような轟音とともに、カナタたちの目の前で、車道が陥没した。
「キキキ……逃ガスカア!」
地上に現れたのは、銀色の牙をカチカチと鳴らしながら雄叫びを上げる毛むくじゃらの一匹の牙蜘蛛。
そして、その体の下、たずな手綱を引いた蜘蛛がまたがっているのは……
「ブゴオオオオ!」
飴色にテラテラと輝いた円環状の体。目のない頭部の真ん中にぽっかりと開いたすり鉢のような口内にビッシリと生えそろった鋭い牙。
現れたのは、地上に露出している部分だけでも10メートルは超えているだろう、その径は大人でも三抱えほどもありそうな、手も足もない巨大な怪物だった。
「あれは……隠の洞の大ミミズ! マガツめ、あんなものまで……!」
バルグルが怪物を見上げると、いまいましげにそう呻いた。
「そんな……せっかく此処まで来たのに……」
カナタもまた絶望の声を上げる。
手負いの犬たち。ルナは無力。バルグルも動けぬ状態。
カナタの空手だけで、皆を守りながらこの巨大な怪物に太刀打ちできるだろうか。
「カナタ……。行け! 奴の狙いは俺だ。此処から離れろ!」
バルグルが厳しい声でカナタにそう言い放つ。
「だめよ! だってそんな状態で……」
「ゲブリュル兄弟! あいつをまくぞ……すまんがこの俺の……足になってくれ!」
カナタの制止が耳に入った様子もなく、獣王は黒犬兄弟を見回して言葉を続けた。
「え、じゃあアレをやるんで?」
「でも今の俺たちじゃ、どれだけ耐つか……」
「いやナーゼ。やるしかない!」
「ああ、そうだな……バルグル様のためならば!」
一瞬戸惑いの声を上げた犬たちだったが、すぐに顔を見合わせ、力強く頷くと、
ボオオオオ……
黒犬兄弟の体が、炎と黒煙に変じた。
そして三つの炎と煙とが、互いに混ざり合い一つになって、その大きさを増してゆくと……
「ガアウ!」
次の瞬間カナタとルナ、バルグルの眼前に立っていたのは、まるで馬車馬のような体格をした三つの頭を持つ、巨大な一頭の黒犬だった!
「が、合体した!」
「地獄の番犬!?」
驚愕の声を上げるカナタとルナ。
「乗ってください、バルグル様! 時間がない!」
「すまねえ兄弟。勝ち目の薄い戦だが、お前らとなら……!」
三つの頭から次々発せられる黒犬の声に、バルグルは頭を垂れて例をいうと、ザザア!
獣王の銀色の蓬髪がざわめいた。うごめく銀髪が地上に垂れて獣王の体を支えると、カナタとルナの手を離れて、バルグルの体を巨大な黒犬の背に運んだ。
「どうした。俺は此処だぞ蜘蛛ども! 殺せるものなら殺しに来い!」
今や犬たちと一心同体、地獄の番犬にまたがる騎士のような姿となったバルグルが、大ミミズに向かって雄叫びを上げた。
タッ! カナタとルナを背に、犬が駆け出す。
咄嗟のことに身動きが取れない蜘蛛とミミズを尻目に、車道を駆け、ミミズの傍らを抜け、再び新宿市街へ向かって!
「逃ガスカ獣王!」
慌てた蜘蛛が手綱を引いた。
グン。ミミズの頭部がバルグルの去った方角向く。
ズルリ。ズルリ。地上に這い出して30メートルは超えていそうなその全貌を路上に晒した大ミミズが、路上の車を押しつぶしながらバルグルを追って凄まじいスピードで車道を走りはじめた。
「バルグル! そんな!」
カナタが悲痛な声を上げて、バルグルの消えた先を見つめる。
だがカナタにも、悲嘆に暮れる暇は与えられなかった。
「カナタさん……! あれ……!」
震える声で、ルナが街の一角を指さした。
ザワザワザワ……。黒い影が路面を覆ってゆく。
「肉……肉……肉……!」
「女……女……女……!」
見る間に路面に溢れてゆく、蠢き、重なりあった毛むくじゃらのおぞましい塊。
魔王マガツの命を受けて地上に放たれた何百匹もの牙蜘蛛の軍団が、その『狩猟』の範囲をこの場所まで拡げてきたのだ。
「ぐうう! やるしか……ないか!」
せめてルナだけでも、なんとしても守り抜かねば。
バルグルとの約束を果たすために……!
悲壮な貌を上げて、だがカナタの声は決然。
ビョオオオオ……。疾風の手甲を構えたカナタの周囲に、風が巻いた。
「ルナちゃん、走って!」
カナタはルナに叫ぶ。
「そんな、だって、カナタさんは!」
ルナも悲痛な声を上げる。
「イタゾ、女ガ二匹!」
「捕マエロ!」
蜘蛛たちが二人に気づいた。
キチキチと銀色の牙を鳴らしながら、歓喜の声を上げた二匹の蜘蛛の先兵が、二人に飛びかかってくる。
「行くぞ、旋風一文字……」
眦を決したカナタが、蜘蛛の軍団に最初の一撃を見舞おうと手刀を振り上げた、だがその時!
「メララちゃん、バースト! ウルルちゃん、スラッシュ!」
カナタの背後から聞き覚えのある声。
「「ギシャー!」」
と同時に、二匹の蜘蛛が一斉に断末魔を上げた。
蜘蛛の一匹を、炎の鞭が引き裂いていた。一匹を、鋭利な水流が両断していた。
汚らしい体液をまき散らしながら、カナタの足元に蜘蛛の躯が転がった。
「あんたは!」
声の主の正体に気づいたカナタが、嬉しい驚きの声を上げた。
「なんとか……間に合ったみたいやね、カナタさん!」
「シーナ!」
カナタの背後に立っていたのは、燃え立つ炎のような紅髪を揺らした、金色の瞳の少女。
比良坂シーナが、カナタを見上げてニヘッと笑った。
「カナタ殿。ホタルも此処に!」
そのシーナの足元で、紫の瞳を輝かせて片膝で跪いているのは、紫紺の髪を揺らした黒装束の少女。
忍者箕面森ホタルだった。
「カナタさん。よくぞ無事で……!」
「さ。ルナ殿は安全な場所まで……」
「え、あ、はい……」
カナタを見上げたシーナの金色の目に、涙が滲んでいた。
ホタルはルナの手を引き、彼女を何処かへと誘導してゆく。
「あ……当たり前でしょ! あたしを誰だと思ってるのシーナ! あんたとシュンをもう一発殴るまで、死ねるかっつーの!」
シーナに悪態をつきながら、カナタの目にもまた安堵の涙が流れていた。
「さあカナタさん。決戦の時や。本日この場で、あのバケモンどもを、まとめて束ねて、全部祓ったる!!」
目前に迫る牙蜘蛛の軍団を見据えて、シーナは不敵に笑った。




