彼方の思い出
「まだ5歳の時だった。あたしがシュンと初めて会ったのは。だからきっと、あの頃の記憶は……何かの夢か思い違いじゃないかって……何度もそう思った。思い込もうとしていたのかも。でも……!」
獣王バルグルの問いに答えてポツリ、ポツリ。カナタが話を始めた。
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「わあ! 何この子。頭に角はえてる。それにこのお目々……!」
「んぱぁ……」
カナタは、母親の腕に抱かれて愛らしい声を上げている奇妙な赤ん坊を驚きの眼差しで覗き込んでいた。
母親のナユタの手の中でショールにくるまれて、不思議そうな顏でカナタを見上げた赤ん坊の目は、まるでエメラルドの様な深みのあるグリーンだった。
赤ん坊の肌は磨き上げられた氷の様な蒼白。そして額からチョコンと生えているのは、小さな氷柱みたいな一本の角だった。
「お、鬼の子……?」
「怖がらないでねカナタ。この子は特別な子なの。でもこの顏。お目々。小さな手。私たちと変わらない……」
おっかなびっくり赤ん坊を眺めるカナタに、ナユタは優しくそう答えた。
まだ学校に上がる前だったカナタの、その頃の昼の遊び場は、母親の職場の一角に構えられた育児室だった。
当時カナタが通っていた、確か都心のどこかだった母親の職場の場所も、もうあまり覚えていないが、ある日、育児室の遊具で友達と遊んでいたカナタの前に母親が連れて来たその子の事は、今でもはっきり思い出せる。
母親は白衣を纏っていた。何人もの大人に檄を飛ばして、何か難しい事を話し合っていた。
今思えばナユタはその職場で、何かの「研究」に携わっていたようだった。
「わかったママ。ねえ、この子……お名前は?」
「うーん……そう言えば……」
カナタもまた笑顔に戻って、不思議な赤ん坊の手を取りながら母を見あげた。
ナユタは少し困り貌で唸っている。
「管理名称 『Scaly・Horned』……じゃアンマリか。S・H・N、S・H・N……」
母親がしきりに、わけのわからない事を小さく呟くと……
「シュンよ。この子の名前はシュン!」
「そっか。はじめましてシュン!」
「んまぁ……」
ナユタが赤ん坊の名を告げると、それを聞いたカナタは彼の名を呼んで赤ん坊に笑いかけた。
赤ん坊も……シュンもまた緑の目を見開いてカナタに笑った。
それからの数日、いつも決まった時間になると、母親はカナタの居る育児室にシュンを連れて来るようになった。
カナタと触れ合って笑い声を上げるシュンの様子を見ながら、カナタの記憶に中の母親は開いたノートにしきりに何かを書きこんだり、ビデオカメラで撮影していた。
母親の仕事はどうやら、シュンの「検査」とカナタと触れ合った時の反応の「観察」みたいだったが、理由は他にもあるようだった。
カナタと一緒の時のシュンは機嫌が良くて、母親や他の職員からは嫌がって飲もうとしない哺乳瓶のミルクを、カナタの手だけからは大人しく飲むのだった。
「可愛いなぁ……」
揺り籠の中で、カナタの手から授乳されたミルクを飲み干して、小さくゲップをするシュンを眺めながら、カナタはなんだか弟が出来たみたいで嬉しかった。
だが、そんなカナタとシュンにも別れの時期が迫って来た。
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「ねえママ。本当に行っちゃうのシュン……?」
「そうよカナタ。来週には飛行機に乗って、滋賀の……別の場所にお引越しするの。だから此処でカナタと遊べるのも、あと三日くらい……」
何かに縋るような目で母親を見あげるカナタに、ナユタもまた残念そうな貌でそう答えた。
「適正検査と経過観測は終了。結果は『安全』か……」
「本当に大丈夫なのか? あれだけ強力な妖気を持ったバケモノを、『お屋敷』に……?」
「ま、検査の対象に上がっただけでも,昔のヒラサカより大分マシさ。内実はボスの独断と、所長の匙加減だったとしてもな……」
カナタの背後では、母親のナユタを待つ彼女の部下たちが、小声で何かよく解らない事を囁き合っている。
「そっか。つまんないの……」
揺り籠の中から、無邪気な顏でカナタを見つめるシュンの頭を撫でながら、カナタは不満げにそう呟いた。
転機は、次の日に訪れた。
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「カナタ! カナタ!」
「ママ!」
猛然と燃え盛る炎と、喉を焼き尽くすような黒煙に巻かれて、カナタとナユタは悲鳴を上げていた。
大規模なビル火災だった。火災報知機も、消化装置も作動しなかったのだろうか?
育児室に足を運んだナユタとカナタが異変に気付いた時には、既にフロア全体に火の手が回っていた。
「カナタ。これで、口を押えていて。此処から、出るよ!」
「ママ……!」
ナユタが水を含ませたハンカチをナユタに手渡して、悲壮な貌で部屋の出口を向いた。
「うんんま?」
揺り籠の中では、シュンが不思議そうな顏で辺りを見回している。
「行くよ……!」
両腕でカナタとシュンを抱き上げて、母親が育児室の扉を開く。だが……!
「ううあ」
「きゃああ!」
火の勢いは既に脱出が絶望的なまでに強まっていた。
強烈な熱気が三人の身体を叩く。火の粉が親子を取りまく。
カナタとナユタの身体を、真っ赤な炎が焼き尽くす!
……かに思われた。だが、その時だった。
キシキシキシキシ……
軋んだ音が辺りを渡った。カナタとナユタの周囲から、火の手が遠ざかっていく。
「これは……!?」
ナユタは茫然として辺りを見回した。
周囲の気温が、急速に下がって行く。叩きつけるようだった熱気が、今はまるで冷房の効いた室内の様な涼しさに、やがて悴むような雪原の寒さに……。
フロアを覆っていた火の手は、凍り付いていた。
半透明の黒光りする、奇怪な氷の姿へと……!
「まんまぁ……」
「シュン……あなたが!」
炎を凍らせた者の正体に気付いて、ナユタは愕然とした表情で腕の中のシュンを見た。
異様な冷気は、ナユタの抱いたシュンからもまた漂っていた。
シュンをくるんだショールから、チロチロと黒い炎が立ち上っているのだ。
「シュンが……助けてくれた? ……あ!」
続いてシュンに生じた異変にカナタもまた驚きの声。
シュンの姿が、変化して行くのだ。
磨き上げられた氷の様だった肌が、温かくて柔らかな薄桃に。
エメラルドのようだった緑の瞳が、シュンが覗き込んだカナタのものと同じ黒瞳に。
小さな氷柱の様な額の角は、徐々に短くなって頭の柔毛の奥に……!
「人の姿に……!」
「シュン!」
ナユタとカナタが、同時に声を上げる。
今、ナユタの手の中で無邪気に笑っているのは、ナユタとカナタにそっくりな顏立ちをして、人間の赤ん坊だったのだ。
「まさか……私たちを守るために、妖気を使い果たしたというの……!? いやむしろこれは……『擬態』……!?」
「ママ!」
しきりに首を振りながら、ブツブツそう呟くナユタに、カナタは両の目から涙を流しながら叫んだ。
「この子は……シュンは、あたしたちを守ってくれた! お願い。シュンを他所に上げないで! お家に置いて! あたし……この子の、シュンのお姉さんになる!」
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そしてその事件から数週間後、カナタの家に新しい家族がやって来た。
如月家に迎えられて、カナタの弟になった男の子はシュン。名前は瞬。
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「なるほどな。お前さんたちとシュンには、そんな因縁が……!」
「まったく、いざ一緒に暮らし始めたら、ホントしょうもない弟だったけどね。あたしと違って引っ込み思案で、勉強も運動もまるで冴えないし、空手の道場で稽古をつけ始めたって、三日で泣きながら逃げ出すし。でもね……」
カナタに支えられながら、彼女の話に驚きの声を上げるバルグルに、彼女はポツリとそう答えた。
「そんな夢みたいな思い出があるから、どうも馬鹿にできないってゆうか、頭が上がらないってゆうか……。それにしても」
心なしか頬を赤らめながら、カナタは周囲を見回す。
「妙に……静かね。屋上の蜘蛛たちは何処に行ったのかしら……?」
「ああ。この辺の人間をあらかた殺し尽くして、今は自分らの巣作りだ。見ろ……」
バルグルが忌々し気に空を仰ぐ。
ビシュン……
ビシュン……
ビシュン……
公園の樹々の枝葉の合間から覗いた夜の空を、奇妙な音が渡ってゆく。
「あれは……!」
カナタは目を凝らして息を飲む。
頭上に聳えた高層ビルの間を、幾筋もの、白い糸が走ってゆく。
糸がビルの壁面と壁面を繋いで、徐々に徐々に、規則正しい幾何学模様を描いていき……
「蜘蛛の糸! あいつら新宿に巣を張るつもり……!」
愕然としてカナタは呻く。
「ああ……牙蜘蛛の長マガツは此処を根城にして仲間を増やし、いずれこの世界の全てを自分の一族で埋め尽くすつもりだ……! ゾッとしねえ話だが……」
バルグルもまた厳しい形相で唸った。
「このあたりの人間……! 殺し尽くした……!」
バルグルの言葉の意味の恐ろしさをかみしめながら、ルナの貌が再び色を失った。
「でもおかしいわね。連中はなんで足元のこの辺りを……あたしたちを襲って来ないの?」
「ふん。連中は夜目が利かねえからな。それに……」
カナタの疑問に、獣王はそう答えると、自分を支えるルナの方を向いて凄絶に笑った。
「この娘に注がれた牙蜘蛛の精髄の強烈な残り香が、連中の嗅覚から、俺たちの気配を覆い隠してるのさ……」
「わ……私の身体が……!」
バルグルの言葉に、ルナは貌を真っ赤にしてライダースジャケットに覆われた自身の身体を検める。
「まあ、不幸中の幸いって奴か……。カナタ、身を隠す場所を探せ。夜の内にこの街を出ることが出来れば、お前さんたちにも、まだ助かる目はある……」
「……わかった。行くわよ、ルナちゃん、犬たちも!」
「は、はい!」
何処か行く当てが付いたのだろうか、カナタはルナと犬たちを見回してそう告げると、上空から寒風の叩きつける夜の新宿中央公園を歩き始めた。
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「14年前に、そんな事が……!」
SOS号の高級ホテルの一室で、ナユタから14年前のシュンの話を聞いたユウコは、震えながら床に目を落としていた。
ホテルの部屋には目を覚ましたラインハルト、ナユタ、リュウガ、シーナ、ホタルが集っていた。
「あの時は済まなかった、ナユタ女史。全てはわしの思慮の浅さが招いた事故じゃった……」
「いいえボス。済んだことよ。カナタもシュンも、ヒラサカビルの職員全員無事だったんだし。それに……」
頭を下げるラインハルトに、ナユタはサバサバとそう答えた。
「まさかボスが、あんな無理を聞いてくれるなんて。おかげで新しい家族を……シュンを私たちに。一年前に悲しい思いをしたばかりだったから……」
ラインハルトを向いたナユタの目に、微かだが悲痛な影がさしていた。
14年前にカナタが務めていた職場、ヒラサカインダストリー超常生物対策研究室を襲った大規模な火災にははっきりとした理由があった。
あの日の朝から、突如首都圏全域を襲ったシステム障害は、比良坂ビル全体の火災報知システムを麻痺させたことのみならず、ラインハルトが生物対策研究室に導入していた幾つかの魔甲製造システムを暴走させ、発火や爆発を引き起こしていたのだ。
「そう、全てはわしの未熟さ故。自身の魔器開発のために導入した一部の素材に、魔影世界の魔王が干渉してきたために起きた事故じゃった」
「あの事故の原因? 『魔甲システム』って、一体どうゆうことや、祖父ちゃん!?」
済まなそうに肩を落とすラインハルトに、シーナは訝しげな貌でそう尋ねた。
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「『魔王』と遠距離恋愛してたぁ!? 『夜見の衆』の西の統領が!」
「15年に一度の逢瀬……! 凄いですぅ。織姫と彦星も真っ青ですぅ!」
ラインハルトの告白に、シーナは愕然として金色の目を見開き、ホタルは紫の瞳をキラキラさせた。
ラインハルトもまた少年の頃、接界点を潜って魔影世界の魔王の居城を訪ねたことがあるというのだ。
そして、その地を治めていた魔王と道ならぬアレコレに……!
接界の起きるその度にその魔王の元を訪れたラインハルトは、彼女から授かった様々な素材や機械を人間世界の自社製品に応用していた。
14年前に起きたコダマを見舞った悲劇も、首都圏全域で発生したシステム障害は、全てその魔王の暴走が原因だったというのだ。
「アイツもあの件で、相当堪えたらしい。再び接界が始まったあとも、人間世界に姿を現す様子がなかったからな。そう思っていたら……」
「まったく何やってるんや、祖父ちゃん。お祖母ちゃんに言いつけんで!」
「そう咎めるなシーナ。わしは気取らない性格じゃから、若い頃は……日本に来て那美と出会う前は、その、色々あったんじゃ。それに……」
ラインハルトの顔と、首から下げた「遺骨ペンダント」を交互に見ながら、呆れ貌で老人をつっつくシーナに、ラインハルトはモジモジしながらそう答えた。
「アイツとの……からくり街の魔王との交流は決して私心のみにて行ったわけでは無かった。アイツの作り上げる機械や素材には、人間の技術がまだ及ばぬものも多くあったからな。それらを学び取り、人間の世に持ち出せば、ヒラサカインダストリー。ひいては人間社会全般の発展にもつながると……そう思ったワケなんじゃが……」
少しは引け目もあったのか、ラインハルトの声が徐々に小さくなる。
「そういうワケだったのね。道理であの時……」
ナユタは、何かが納得いったかのように、しきりに肯いていた。
ナユタの脳裏には今から三日前、ニクトピア御珠で起きた戦いの光景が甦っていた。
あの夜、シーナを人質に取った赤猿のシュタンゲが、ラインハルトの開発した魔器を容易く使いこなしてみせた不思議も、魔甲システムの由来そのものが魔影世界に在ったというならば納得がいく。
魔甲軍団と至高鎧に……比良坂の技術に魔影世界の業が用いられていたからこそ、それらを奪った赤猿は、易々と鎧を操りレギオンを制御してみせたのだ。
「いずれにしても、気に掛るのはシュン君とカナタくんの行方。早急に全国の夜見の衆に緊急招集をかけ、戦いに備えねば。それに魔甲レギオンの量産も……」
ラインハルトが厳しい声でそう呟き顏を上げた。
「接界期のピーク……次の満月の夜まであと4日。それまでに何としても、新宿に巣食った蜘蛛どもを一掃して、そして……」
燃え立つ炎のような紅髪を震わせながら、シーナが語気を強めた。
「大接界を食い止めるんや!」
「待って、シーナさん……」
猛り立つシーナを、ユウコが制した。
「食い止める……大接界を……一体、どうやって?」
「それは……その……」
シーナがユウコから目を逸らして、言葉を濁した。
「そんな……まさか!」
一同の集った部屋を重苦しい沈黙が多い、耐え切れずユウコは、絶望の呻きを漏らした。




