白竜の上主
「こいつは……魔王バルグル……!」
新宿中央公園の樹林の一角で、カナタは唸った。
カナタとルナの眼前に横たわっているのは、牙蜘蛛マガツに引き裂かれた獣王の上半身だったのだ。
「よう……お前さんは……あの時の嬢ちゃんか……」
バルグルがカナタを見あげながら、苦し気にそう声を漏らした。
先ほどまで目を瞑り、譫言の様に何者かの名前を呟いていた獣王の眼が、今は薄っすらと見開かれてカナタの貌を見据えていた。
牙蜘蛛の残虐極まる処刑も、ビルからの墜落も、この獣王の強靭な肉体を完全に絶命させるには至っていなかったのだ。
「くっ! あんたが学校を……あんたがシュンを……!」
「カナタさん!」
その場から動けぬ様子のバルグルを睨んで、カナタは声を荒げ下段に構えた。
ルナは怯えた貌で、カナタの背後に身を隠している。
カナタは厳しい表情でバルグルに向かって歩を進めた。
今の獣王ならば、カナタの『疾風の手甲』でも容易に斃し得るだろう。
魔王バルグル。こいつが如月家と秋尽家を破壊した。
メイを狙い、ユウコを危険に晒し、シュンの学校を破壊し、弟のシュンを絶命寸前まで追い詰めた。
そして、
「ぐっ!」
カナタの歩みが鈍くなった。
ラーメン屋での一件がまざまざとカナタの脳裏に甦る。
カナタはこの男に救われた。見知らぬ少女を助けようとしてトラックに轢かれそうになった自分の命を……!
「そうか……やっぱりお前さんも……人間の戦士だったか」
カナタが両手に嵌めた鉤爪手甲に気付いたのか、バルグルは少し納得したようにコクリと頷いた。
獣王の灰色の瞳には、耐え難い無念と同時に、全てを受け入れるような諦念の帳が下りていた。
「これも何かの縁か。いいぜ嬢ちゃん。刺しな、とどめを……」
「……覚悟できてるってことね?」
バルグルはカナタの眼をまっすぐ見据える。
ビョオオ……。獣王の言葉に答えるカナタの周囲を、風が巻いた。
『疾風の手甲』への溜めが終わったのだ。
だが……カナタは逡巡していた。
強大な力を持った危険極まる魔物。人間の世界に害をなす存在。メイをあんな目に遭わせた元凶。
でも……それでも、今のバルグルのこの姿には……
「すまねえ、キルシエ……」
「…………!」
観念したように目を瞑り、獣王が再び何者かの名を呼んだ。
カナタは息を飲んだ。
カナタの動きが止まった。カナタは手甲の構えを解いた。
彼女の周囲に巻いていた風が、勢いを弱めて、やがて辺りに四散した、その時だった。
「やめろ……やめろ人間……!」「バルグル様!」
「お前らは……!」
ボオオオオ……。カナタを制する声と共に、バルグルの周囲に真っ赤な炎と黒煙が、弱々しく噴き上がった。
#
「リート。お前どうして……? それに此処は一体……!」
「シュン。間に合ってよかった……」
目を覚ましたシュンを覗き込んでいたのは、輝く様な金髪を靡かせた翼の少女。リートだった。
シュンが起き上がって辺りを見渡せば、そこは手入れされた生垣が規則的に並んだ、何処か大きな建物の中庭のようだった。
時刻は夜らしい。銀色の月の光の降り注いだ壮麗なその庭で一際シュンの目を引いたのは、庭の中央に痛ましい姿を晒した、燃え尽きた古木の残骸だった。
「ここは……『城』?」
振り向いて上方を仰いだシュンの頭上に聳えているのは、継ぎ目一つない壁。艶やかな黒曜石のような光沢を放った巨大な城塞の壁面だった。
「ウゴッ! 小僧、平気か……?」
「ザック……。お前なんでリートと一緒に……」
立ち上がったシュンに不安そうな顏でそう声をかけてきたのは、シュンの背丈の三倍はありそうな全身毛むくじゃらの大男。
トロールのザックだった。
「うう……色々あって、今はリートの姐さんと一緒に居るんだ」
「大丈夫よシュン。谷の村からあなたを此処まで運んできたのも、彼なんだから……」
「じゃあ、此処って……獣の谷の……」
「そう。『黒獅子城』。獣の谷を治める魔王の居城。かつて王妃キルシエ様のために、バルグル様が建てたお城……」
シュンの問いに、リートもまた悲痛な表情で黒い城壁を仰いだ。
「此処がバルグルの城……! でもどうして俺を此処に? そうだ、俺はメイを……メイを助けに行かないと!」
シュンの緑の目に、焦燥の光が宿っていた。
混乱したシュンの頭に、都庁舎屋上での凄絶な光景がまざまざと甦って来た。
「落ちついてシュン。彼からあなたを此処まで連れ戻すよう頼まれたの」
「彼ってなんだよ?」
「来てシュン。あなたに会いたがっている者たちが居る……」
怪訝そうに首を傾げるシュンにリートはそう答えると、中庭を横切って黒獅子城の城内に至る入り口に向かって歩き出した。
#
「此処が玉座の間……。バルグル、本当に王様だったんだ……!」
「当たりまえでしょう? 今頃何を言ってるのシュン……」
中庭から長い長い廊下を歩いてシュンとリート、そしてザックの三人が至ったのは、艶やかな黒曜石の円柱が立ち並んだ、黒獅子城の壮麗な玉座の間だった。
「おお。ようやく……ようやくお目覚めになりましたか!」
「あ。その声は!」
広間の奥から響いてきた聞き覚えのある声に、シュンもまた驚きの声。
シュンの足元に駆け寄って来たのは、小さな獣の姿。
玉座の間で待っていたのはタヌキのヤギョウだった。
「こ……シュン様! 御無事で何よりです……!」
「ヤギョウ……なんだよその喋り方? それに、お前がリートに俺の事を……!?」
先日までとはうって変わったような恭しいヤギョウの態度に、シュンは戸惑いの面持ちでそう答える。
気ばかり焦る。一刻も早くメイの元に向かわねばならないのに、何故自分はこんな場所に居るのだろう。
なぜヤギョウは自分をこんな場所まで……シュンが怪訝な顏をしていると、
「いいえ。この私のはからいです……」
広間の奥から、ヤギョウとは異なる声がそう呼び掛けて来た。
玲瓏と透き通るような、子供の声のようだった。
「ヤギョウ将軍が戦士としていくら強くとも、彼の力では獣の谷のこの城まで来ることは出来ないでしょう。だからこの私が直々に力添えをしたのです……」
「お前は……一体?」
広間の奥へと歩みを進めながら、シュンは緑の瞳を見開いた。
部屋の最奥、これまた黒曜石を削り出した壮麗な玉座に座した人影があった。
年恰好はシュンよりも幾つか下に見える。
全身を覆っているのは、純白のゆったりとしたローブ。
露出している手と顏の肌は、艶やかなオリーブ色。
そして腰のあたり伸びたている編み込まれた長い髪は、身に纏ったローブと同様の輝く様な純白だった。
大きな琥珀色の瞳は興味深げにシュンの顏を見据えている。
今、黒曜石の玉座の上から、シュンたちの姿を睥睨しているのは一人の少年。
形の良い口元に秘密めいた笑みを湛えた、オリーブ色の肌をした白髪の美貌の少年だったのだ。
「そこで何をしている、アオレオーレ!」
リートの、怒号が広間の空気を震わせた。
「バルグル様の玉座から、今すぐに下りなさい!」
「まあそうカリカリするな翼人。黒獅子城の立派な玉座も、座る主が居らぬでは、何とも寂しかろう……」
少年が尊大な口調でリートにそう答えると、渋々といった様子で玉座から立ち上がった。
「なるほど。キミがシュン。ヤギョウ将軍がついに探し当てた、吹雪の国の新たな魔王……大接界を止める新たな英雄……」
「吹雪の国? 魔王? 何を言ってるんだ……!」
少年とヤギョウを交互に見回し、苛立たしげにそう訊くシュンに、
「はじめましてシュン。私は『魔王アオレオーレ』。空は『天空城』、地は『吹雪の国』を治める白竜の上主です……」
シュンの問いには答えず、少年は純白のローブを優雅に揺らしながら、玉座の檀上からシュンに向って恭しく一礼をした。
#
「えー御覧頂けますでしょうか。現在、都庁舎を中心としまして副都心一帯は、大変な状況に陥っております!」
都庁舎上空を飛びかう報道ヘリの機上から、状況を伝えるTVT大橋アナの顏がこわばっていた。
テレビカメラが写した都庁舎の屋上には、蠢く薔薇の奇怪な塊。
そして屋上から溢れかえって、次々とビルの壁面を伝い、文字通り蜘蛛の子を散らすように副都心一帯に拡散してゆくのは、毛むくじゃらの、仔牛ほどもある巨大な、無数の黒蜘蛛だった。
「現在、新宿区およびテロップの下記地域一帯には避難勧告が出されています! 警察の係員の指示に従い、落ちついて移動してください。また付近に係の者がいない、または移動の手立てがない方は、しっかり戸締りをして、最寄りの警察まで連絡してください!」
テレビカメラに向かって必死にそう呼びかける大橋アナの声が、恐怖で掠れていた。
「キャー!」「ウワー!」
報道陣の別班が映し出した地上の光景は地獄だった。
辺りは大パニックに陥っていた。
ビルから溢れかえって路上まで零れだした無数の牙蜘蛛が、ギチギチと銀色の牙を鳴らしながら、道を行く都庁職員やサラリーマン、OL、学生、男、女、老人、子供の、見境なく次々に襲い掛かり、鋭い牙を立て、肉を引き千切り喰い殺してゆく!
「わー。来るな! 来るなー!」
牙蜘蛛の一匹がカメラクルーを向いて、汚らしい唾液を撒き散らしながら、後ずさるカメラ目がけて飛びかかってきた。
ブチッ! 次の瞬間、映像が途絶えてテレビの画面が暗転した。
「なんてことだ……! なんてことだ……!」
東京港に停泊した超巨大客船『海の交響曲号』、通称『SOS号』の高級ホテルの一室で、シュンの父リュウガが悲痛な呻きを漏らしていた。
「カナタ……! カナタ……! どうして出ないの!?」
母親のナユタもまた焦燥した顔で、何度も自分のスマホを睨んでいる。
都庁舎での戦いで離散して地上に落下したカナタとシュン。
シュンはリュウガの知り合い、翼人のリートに助けられて何処かに消えた。
そしてカナタは……。ナユタの貌が恐怖で竦んでいた。
自身の魔器の技で地上に軟着陸したはずの娘のカナタと、何度電話をかけても連絡がつかないのだ。
そして、いまや都庁舎周辺は牙蜘蛛の跋扈する阿鼻叫喚の地獄と化している。
「カナタ……! シュン……! お願い、どうか無事で!」
ナユタは祈るような気持ちで、スマホのモニターにそう呼びかけていた。
「すぐに! 体勢を立て直して! みんなを助けに行くんや! シュンを! カナタさんを! メイくんを! 襲われてるみんなを!」
部屋中をウロウロしながら、燃え立つ炎の様な紅髪を震わせて、シーナが矢も楯も堪らない様子でそう声を上げる。
「ぐ……! 駄目よシーナちゃん。今は警察と自衛隊に任せるしかない……!」
苦渋の表情でナユタが呻いた。
牙蜘蛛たちの数に比して、戦力が足りなさ過ぎた。
ラインハルトの魔甲レギオンはバルグルに破壊されて全機修理中。
肝心のラインハルトからして、バルグルとの戦いで傷を負い、いまだ集中治療室の中で意識不明のまま。
何のプランも無く次の戦いに出ても、全滅するのは目に見えていた。
「自衛隊なんて! ……『軍隊』なんて、警察よりもあてにならへんやん。こんな『戦争』みたいな状況が……本当に起こったら……!」
ウロ覚えの世界史や近現代史の記憶を必死で辿りながら、シーナが悲痛な声を上げた。
日本で……いや、全世界で『戦争』なる存在が、完全に抽象的な概念になり果ててから何世紀が経過しているだろう。
今や、各国の擁する儀礼用の『軍隊』なるものの役割は、国の記念日にヒラサカ・インダストリーをはじめとした『兵器メーカー』の提供する式典用の巨大戦車で空砲を撃ったり、布製の巨大な飛行艇を空に飛ばして人々を喜ばせるのが主な仕事。
こと『治安維持』の面では警察組織などより、遥かに鈍重で役に立たない存在だった。
シーナの金色の目が恐怖に曇っていた。
『戦争』……人間と魔物との組織的な殺し合い。
そんな漫画やアニメの中でしか起こり得ないと思っていた事が、今、自分の住む、慣れ親しんだこの国で起きようとしているのだ!
「西と東……! 今動ける『夜見の衆』全員を束ねても、せいぜいが百人……数が足りなすぎる。何か、何か次の策を講じなければ……!」
ナユタが唇を噛みながら、厳しい表情でブツブツそう呟いている、その時だった。
「シーナ様!」
ホテルの扉を開け放ち、シーナたちの居る部屋に転がり込むように入ってきた人影。
手や顔の底かしこを包帯と絆創膏で覆った、紫紺の髪をした少女の姿だった。
「ホタルちゃん! 動けるようになったんか!」
「はい、シーナ様!」
涙目のシーナが、少女をヒシと抱きしめた。
入って来たのは、比良坂の屋敷で黒犬たちとの戦いに敗れ、傷付き入院していた忍者。箕面森ホタルだった。
「よかった! 無事で何よりやで!」
「そんなことよりシーナ様!」
金色の瞳を潤ませながらホタルの髪を撫でるシーナだったが、答えるホタルの声には、何か切羽詰まったものがあった。
「御屋方様の……ラインハルトさまのご様子が……なにかおかしいんです!」
「祖父ちゃんが!」
「ボスが!」
「ハルさんが!」
ホタルの言葉に、室内の一同に一斉に緊張が走った。
#
『SOS号』に備わった巨大総合病院の一室。
点滴のチューブに繋がれた赤髭の老人が、白いリネンのベッドに横たわって、微動だにしていない。
と、突然。老人のベッドの周囲に配された医療機器が、カタカタと小刻みに震え始めた。
ピッ……ピッ……老人の心電図を写したモニターの画像が不規則に乱れ始める。
「ハル……。すっかり齢を取ってしまって……!」
そして、一体いつの間に其処に居たのだろう。先程まで無人だった老人の横たわるベッドの傍らに、奇妙な人影があった。
華奢な全身を真っ黒な花柄のレース地でピッチリと覆った、まるで真珠の様な肌の、あどけない貌をした眼鏡の少女の姿だった。




