七章「ズィーベン」
麻里は首に狙いを定め、薙刀を振るう。しかし、それがセレーネに届くことはなかった。
彼女の足元に落ちたビー玉が炸裂し、そこから大きな五本の鋏が現れ、麻里目掛けて襲い掛かったのだ。奇襲は成功したが、薙刀はショゴスそのものである。薙刀を大きな盾へと変え、全てを防ぎ切るのは流石だ。
「まったく、物騒じゃないか」
「奉仕種族を酷使し過ぎない方がいいわ。痛い目見た連中もいるのよ」
「反乱されて種が衰退するような連中と僕を、一緒にしないでくれるかな」
素早く盾を投げ、それの影に隠れるような形で麻里は動き出した。互いに姿が見えない状況下だが、セレーネは盾をどうにか対処しなければならない。その一手間がある分、彼女は不利だった。
「中々面倒ね? けど……」
盾は無防備のセレーネに当たることはなく、床に落ちる。その床は彼女中心に紫の紋様が刻まれ、魔術の陣を形成していた。形が維持できなくなる効力でもあるのか、盾は水溜まりのように広がって液体化する。
「そのショゴス、ちょっと太り過ぎじゃないかしら。陣で少しだけ重力を増やしただけよ?」
「まさか。過小評価し過ぎ」
足元からの焦げる臭いに、セレーネは思わず後ろに下がった。靴底は溶け、陣が作られた床は液体化したショゴスに粗食されている。気付くのが少しでも遅ければ、彼女も床と同じ道を辿っていたのは間違いない。
「……悪食ね」
「この子への褒め言葉として、ありがたく受け取っておくよ」
麻里はショゴスを愛おしそうに、目を細めて微笑んだ。セレーネに見せないその表情は、彼女の感情を爆発させるには充分だった。残りのビー玉は四散してショゴスを取り囲むように軌跡を描く。その線は、クトゥグアが部室で見せた旧き印に酷似している。
「お手製の印か。若いのによくやるね」
「わしには何がどうなっているのか、さっぱりわからんぞ」
「それはもしかして、初めからかな?」
「ビー玉が白い壁になる事からじゃよ」
にっと笑うリカンスの表情は清々しい。クトゥグアは目を細め、彼が魔術適性が全くないのを理解した。そんな彼でもわかるよう、クトゥグアは教師の真似事をするのだ。
「純度の高い素材に術式を組み込んで、強い衝撃を受けると作動する仕組みにしてると思うよ」
「術式を組み込むというのは?」
「さっき床に紫の線や文字が見えただろう? ああいう類のやつを書いたり掘ったりするんだ。それと……」
言葉を区切り、白い壁の破片を拾いあげ、リカンスに見せる。断面は厚く、それ相応の重さもあった。
「彼女は魔術の質を上げているね」
「ほほう? 聞かせてくれないかの」
「魔術の質をあげる方法が二つ存在するんだ。一つは必要な式が増える代わりに質をあげる事。これが普通なんだけど、伸びが悪いのが欠点だね」
「あのビー玉に隙間もなく文字を掘るのは……。想像擦るだけでも疲れるわい」
真似出来ないどころか、そうする気すら起きないと彼は息を吐く。クトゥグアは首を横に振り、だがそうじゃないと否定した。
「彼女は別の方法をしている。ビー玉と言ったかな? アレに必要以上の魔力を注ぎ込んでいるよ。それこそ、紛い物の化身と渡り合えるほどの魔力をね」
魔力は言い方を変えれば血だ。垂れ流し続ければ意識を手放してしまうし、なくなった分を補充するには時間がかかる。無論、酷使し続ければ生命活動に問題が起きる。それは魔術に精通している者でも、決して例外ではない。
それくらいの基礎知識はリカンスでも解っており、彼女が異常である事に気付くのもそう遅くはなかった。
「魔力は体内から放出すれば鮮度が落ちる。作り置きなんてすれば粗悪品の塊だ。もし知っているなら聞いてもいいかな?」
「奇遇じゃな。わしも今聞きたい事が増えた所じゃ」
互いに問えば、同じ言葉が返ってくる。それは彼等には知り得ない事だ。セレーネ・テアーが何者かなんて、本人しか解らない。
ビー玉が不気味な輝きを放ち、ショゴスは耳障りな声をあげた。麻里はどうにかして助け出そうと、術者であるセレーネに飛びかかる。
互いに獲物がない状態で、セレーネはショゴスを拘束する印を展開したばかり。麻里自身、肉弾戦が不得手であるが、逆転の余地は十二分にあった。
麻里が自分の髪を一本抜くと、針のように細い槍へと姿を変える。その矛先は言うまでもない。素早く距離を詰め、突き上げる形で心蔵を狙う。
「そんなに近付いたら、我慢出来ないじゃない」
「……え?」
セレーネの唇は弧を描き、皮肉に満ちた嘲笑を浮かべた。彼女は麻里の槍を容易く掴み、槍ごと麻里を放り投げたのだ。
魔力はともかく、人間離れした芸当をしてみせた彼女がおかしいのは、麻里でも解る。彼女から溢れ出す濃厚な魔力は、彼女自身を包みこんで隠す。それはどこかで見覚えがあり、応えるように二人の頭上から声がした。
「まさかこんな所で会えるとは思わなかったよ。隠れるのが上手くなったんじゃないかな? 月に吼えるもの」
麻里と瓜二つの顔を持った少女、ニャルラトホテプは心底楽しそうに笑う。セレーネを包み込んでいた魔力が四散すると、人間だった面影が微塵もない怪物がいた。
円錐型の三本足に頭部から長い触手状の物体を生やしており、肌は鼠色で赤い斑点は時折脈打つ。頭部にある、口のような空洞から怪物は雄叫びをあげた。