六章「ゼクス」
恐るべき事に、軟膏と化したショゴスの細胞が声に反応を示したのだ。リカンスはそれに気付き、今以上に速度を上げる。後ろから迫る声は、ショゴス特有の声だ。それは耳に纏わりついて離れず、恐怖から後ろを振り返る事が出来ない。
「製造段階で手抜きしているようじゃな……。まったく!」
悪態を漏らしつつも、彼は懸命に走る。それでも相手は化け物で、リカンスは人間だ。追いつかれる前にどうにかして、現状を打破出来る策を考えねば彼の生命はない。
そこに見覚えがある頼もしい救世主が現れた。部室に置いていったセレーネと、クトゥグアに取り憑かれている由利香が、反対側から走って来ている。あとは彼等で対処出来るか、それだけが不安要素だ。
「どこ行ってたのよ! 探すのに時間かかったじゃない!」
「そんな事は後で話すわい! それよりも、後ろの連中をなんとかしてくれんかの! 今のわしじゃ手に負えん!」
「相手が誰だか知らないけど、私がやるわ。全力で避けなさい!」
コピシュをクトゥグアに渡したセレーネは、上着の内ポケットに手を突っ込む。そこから取り出すのは青色の模様が入ったビー玉だ。クトゥグアは初めて見る物体を指さして問い掛けた。知らない事を学ぼうとする子供のように。
「一体何をするんだい? 何か魔術の類らしき物が刻まれているように見えるけど」
「こんなのでも魔装の一つよ。あくまで私が作った趣味の範囲だから、お察しだけれど。しっかり見てなさい、神様もきっと驚くわ」
青いビー玉を投げる動きに合わせて、リカンスはスライディングするように飛んだ。彼の後ろを追っていたショゴスは、それを好機と判断し、体を波のように大きくして飲み込もうとする。けれどもそれが叶うことはない。
ビー玉がリカンスとすれ違った瞬間に砕け散り、棘が付いた白い壁が通路を塞いだのだ。勢いを殺しきれないショゴスは、そのまま壁へと直撃する。
「面白い事が出来るもんだね。魔術に必要な物が組み込まれているのかな」
「大体そんな所かしら。リカンス、大丈夫かしら?」
滑走を止めてゆっくりと立ち上がるリカンスに、セレーネは手を差し伸べた。それに応えた彼は、顔を青白くさせながらも礼を述べる。視線をちらりと、クトゥグアの方へ動かせば、コピシュの剣先を白い壁へと向けていた。
不敵に微笑むクトゥグアの顔は、由利香と同じだとは到底思えない。その感情に反応するかのように、炎の精は全身を包み込む様にとぐろを巻く。
「新しい化身候補か。また私に壊されたくないから、といったところかな? ま、なんだっていいさ。奪われた物は取り返さないとね」
「壁越しだから判りづらいけど、あれってショゴスじゃないの? 化身には見えないけど」
「そっちはただの下僕だよ。その向こうさ。君の友達も、殺すべき奴も。どうするんだい、部長さん」
クトゥグアはコピシュを差し出す。高ぶる感情を表に出しても、自分から挑むつもりはない事を示した。セレーネはそれを手にし、眼前を睨む。作り出した白い壁の向こうでショゴスがのた打ち回り、その度に暴力的な一撃が振るわれ、壁を崩壊させようとする。徐々に亀裂が入り込み、もう長く持たないのは一目瞭然だ。
その奥に彼女の恋焦がれる人がいる。たったそれだけでスイッチが入り、障害となる敵を排除していく事だけを頭に入れた。
「泥棒したらどうなるか教えてあげるわよ! 部長の本気見せてあげるわ!」
「なんじゃ、わしは休んでてええのかの?」
「無理しすぎなのよ、貴方は。いいから黙ってて」
「言葉はきついが優しい娘じゃな」
「一言余計なのよ!」
リカンスの言い方に不満を覚えるセレーネだが、苛立っている訳ではない。彼女は赤い模様が刻まれたビー玉を一つ、白い壁に投げる。それはぶつかると同時に爆発を起こし、亀裂の入っていた壁は容易に砕け散った。彼女は二人の前に立ち、飛び交う破片をコピシュで斬り払う。突然の爆発に不気味な声をあげるショゴスは反撃とばかりに、セレーネを包み込んだ。
「ああ、かわいそうに」
「わしはそうは思わんぞ。ほれ、あんなに楽しそうじゃないか。あの娘は」
ショゴスのタール状の体は熱を帯びて赤くなり、逃げるようにセレーネから距離を取った。彼女は炎を纏うコピシュを両手に持って、それを追いかける。その方向には、セレーネが探し続けていた麻里が、誰かを探すように周囲を見回しながら、こちらに向かって歩いてきていた。一歩足を動かす度に、足音が大きく響く。
主の来訪に、ショゴスは野球ボールサイズの大きさまで縮小を始める。麻里が右手を差し出すと、器用にその上に乗り、球体は扇子へと姿を変えた。満足そうに頷き、ショゴスだった扇子を大事に撫で始める。
「麻里……」
「部長じゃないか。僕の子をあんまり苛めないでね」
「だだだ、誰の子よ! 返答次第じゃ麻里でも許さないわよ?」
「それは比喩表現だから」
「……そう。でも、部員を苛めるのは頂けないわね。ちょっと軽く教育が必要かしら」
教育という不穏な単語をこぼしたセレーネは、コピシュを床に突き刺して、五つのビー玉を麻里に見せた。どれもカラフルだが、不気味な光を放つ。彼女はそれらを握りしめ、人差し指だけを数回動かして煽る仕草を取る。麻里は扇子を撫でる手を止めて目を細めた。ゆっくりと広げられる扇子は彼女の口元を隠す。
背筋が凍るような眼光をセレーネに浴びせ、麻里は手に力を込める。そうすると扇子は黒い薙刀へと徐々に変貌していく。鈍く輝く刀身は、切れぬものなどないと錯覚させてしまうほどに。
「麻里にも見せてあげるわ。私の魔装が、神様の力よりも強い事を!」
「僕だって、リカンスさんの前で負けるつもりはないよ」
彼女の言葉にセレーネは何度か目を瞬きさせ、石のように動かなくなる。ようやく動いたかと思えば、握りしめていたビー玉を一つ落とした。弾まないそれはどこへ行く訳でもなく、彼女の足元を彷徨う。
「リカンス、麻里となんかあったの?」
「わしが知ってる限りじゃ特に何もないはずなんじゃがのう……。西川お嬢ちゃんの方に聞いてみてくれい」
「ふーん……。という事だけれど、麻里とリカンスはどういう関係なのかしら?」
両手で持った薙刀の切っ先を下にして、麻里は眉間にしわを寄せた。頬を膨らませて、不満を見せる。それはリカンスに対してなのか、セレーネに対してなのか、二人には解らない。
彼女は返事の代わりに、床を蹴ってセレーネとの距離を詰めた。