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五章「フュンフ」

 図書室から充分に離れた距離で、リカンスの疾走は緩やかになる。麻里と対面した時の不快感も消え、廊下の壁に背中を預けた。それがきっかけとなったのか、背中の傷が思い出したように痛み出したのだ。しかめっ面を作るリカンスは、吐息を漏らす。


「……市販のショゴス軟膏は駄目じゃな。それにしても、西川お嬢ちゃんも変わったのう。服装といい、感情の起伏といい。さて……」


 ショゴス軟膏とは、奉仕種族の一種であるショゴスを用いて作られた軟膏だ。高い再生能力を持つ、ショゴスの細胞が含まれたそれは、一部の人間から万能薬と謳われるほど。市販品はそれの量産品で、入手が容易になった分、劣化してる部分があるのがネックだ。


 そのまま座り込んだリカンスは、背中の痛みを無視して思考の海に潜り込む。しかし浮かんでくるのは、異様な不快感と艶めかしい体のシルエットだ。彼自身、性欲なんぞ枯れていたと思い込んでいただろう。だが、麻里の姿が浮かんでは消えてを繰り返すのは、一体どうしたことか。


「……考えるのは、止めといた方がいいようじゃな。さて、誰かと合流出来るまで逃げ切らんとのう」

「こんな所で休んでいると捕まるよ」

「追いつくのが速くないかの? 捕まる以前に、若者は若者同士で青春謳歌したらよかろう?」

「恋愛なんて人それぞれだと思う。彼女と君は、少し歳の差があるだけだし」


 気付けば隣でしゃがみ込んでいる麻里が、リカンスを見上げていた。しかし先程のような不快感はない。それ以上に、彼は彼女に対して違和感を覚える。まるで他人のことの様に語る彼女が、別人に見えるのだ。確証がもてないまま、リカンスは慎重に言葉を選ぶ。それはある種の駆け引きに違いない。


「他人事のように言っとるが、おぬしに言っとるんじゃよ」

「ああ、容姿が同じだとわからないんだね。ま、別にいいけどさ。ところで、クトゥグアは元気にしてたかな? 燃え上がっていてくれると、嬉しいんだけども」

「ほう、見た目は同じでも中身が違う。なるほどのう、おぬしがニャルラトホテプという輩か。生憎、奴とは付き合いが短くての。そこら辺はよくわからんぞい」


 その場から身動き一つせず、言葉を返す。リカンスは麻里と同じ姿の、何者かをひたすら見つめ続けた。彼女は口元に弧を描き、目を大きく見開く。充血したように赤い目は、獲物を見つけた獣のそれだ。


「クトゥグアは人を見る目があるようだね。だけど、正解とは言えないよ。本物かと聞かれたら、僕は困ってしまうし」

「ふむ。まぁ、それはまた今度にしようかのう。さて、おぬしは西川お嬢ちゃんに、わしを捕まえるようにと言われたのかな?」

「まさか! 人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえという言葉があるし。ただ、今の君じゃ彼女から逃げ切れるとは思えないかな」

「こんな老いぼれでも、慕ってくれる奴がおってな。彼等がいる限り、わしは大丈夫じゃよ」


 リカンスの揺るがない自信は一体どこからくるのか。ニャルラトホテプにはとても理解できなかった。それがきっかけで彼女がリカンスに興味を持ってしまうのだが、彼は気付くことはない。

 黙ったままの彼女に、リカンスは首を傾げていると、どこかで水滴が滴り落ちる音や、風の音色が耳に届く。しかし他生徒達の喧騒は一切聞こえない。その異変にようやく気付いたリカンスは、焦りを覚え始めた。なんとか相手に焦りを悟られないよう、平静を保つ事に徹する。


 そんな二人の間でしばしの沈黙が流れ始めたが、長くは続かなかった。リカンスの携帯電話が、振動音を響かせ、動き出したのだ。これ幸いと言わんばかりに、彼は内ポケットから取り出して、素早く通話ボタンを押す。


『おい、爺さん。まだ生きてるか?』

「イェンスか、開口一番失礼な奴じゃのう。どうしたんじゃ」

『さっきの調べ物なんだが、今すぐにでも手を引いた方がいい。これは友人としての忠告だ』

「……おぬしがそこまで言うとは珍しいのう。ちょいと待っておくれ」


 ゆっくりとその場から立ち上がり、リカンスは通話を続けながら部室の方へと歩き出した。決して振り向かず、片手を上げて別れを告げる。彼女に話の内容を聞かれてはいけないと、何故かそう思ってしまったのだ。歩幅を広げ、徐々に歩く速度を上げていく。そこでようやく、イェンスに話の続きを促した。


「待たせたのう。もういいぞい」

『なんだか既に色々大変なことになってるようだなぁ……。それでも、早々死ぬんじゃねーぞ? 爺さんに死なれたら、困る連中が多過ぎる。まだ借りを返せてないからな』

「すまんのう。穏便に済ませられるなら、それに越したことはないんじゃがな」

『それで済むんなら、俺も楽でいいけどな。それで、だ。猫ポテトについてなんだが、こいつは神様らしいな。実在するかは別だが』


 無神教な彼は鼻で笑いつつも、リカンスの頼み事はしっかりこなしていた。電話越しに紙を捲る音が聞こえ、それだけでも相当の情報量があると想像できる。しかし、彼は言いにくそうに声を絞り出した。


『調べられる事は調べたんだが、あれなんだよ。ざっと調べてみても、関連性が本当にあるのかすら怪しい情報までリストアップされちまってなぁ……例えば、化身だけでも相当な数だ。グラマラスな女性の姿だったり、宗教団体の指導者だったりな。本当かは知らんがな』

「グラマラスな女性か、なるほど。それで、それ以外に何か役立つもんはないかの? 知り合いの話によれば、火が関連してるとかどうとかって事なんじゃが」

『んん? 火か、ちょっと待ってろ』


 それを合図に物を漁る音が聞こえ、騒がしくなる。その間に、リカンスは周囲の様子を伺う。ニャルラトホテプと出会った場所を見れば、既に彼女はいなくなっていた。代わりに、先ほどまでなかった三つの赤い炎が小さく揺らいでいるのが目に映る。目を凝らして見ようとすると、イェンスが先程よりも騒がしい音を立てて声を上げた。


『おい、爺さん! こいつは灯りや火がだめらしいぞ! ……といってもまぁ小説の物語に書いてあった程度の情報だから胡散臭いが』

「ふーむ、灯りや火か。なるほどのう、助かるわい」

『はいよー。んじゃ、俺もちょっと野暮用が出来たからまたな。次会うまでに死ぬんじゃねーぞ?』


 イェンスはその言葉を最後に電話を切った。それを知らせる電子音が虚しく響く。時刻的にはまだ明るいのにも関わらず、なぜか廊下は暗い。備え付けられた蛍光灯も、電球が切れてしまっている。

 携帯電話をしまい、三つの赤い炎を探そうと見回せど、そんなものは影も形もない。あるのは不気味なほどの静けさだけだ。


「よくない感じじゃな。イェンス達と出会った頃を思い出すわい。こっちで引きつけてる間に、龍馬が上手くやってくれると信じるしかないのう」


 足音が徐々に近付いて来るのに気付き、そちらに視線を動かせば麻里がいた。外見だけでは区別の付かないリカンスだが、どちらであってもやる事は変わらないだろう。彼女は広げた黒い扇子を閉じて、微笑んだ。それが合図だったのだろう、形容し難い不快感がリカンスを襲う。距離がまだ遠いおかげか、図書室の時ほど酷いものではなかった。


「やれやれ、困ったもんじゃな。西川お嬢ちゃん、しばらく鬼ごっこしようかね?」

「……へへ」


 麻里が黒い扇子を投擲し、彼の足元に落ちた。それは扇子の形から水たまりのように変化していく。なんとかそこから距離を取り、全力で逃げ出す。後ろから人間のものとは思えない声や音が聞こえる。テケリ・リという鳴き声が耳に届く。その鳴き声に反応するかのように、ショゴス軟膏が震えた。

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