参章「ドライ」
結果から言うと、日が昇るまで由利香は目を覚ます事はなかった。彼女が起きるまで、ひたすら精神集中し続けた龍馬は一睡も出来なかった。
「……どこだい、ここは?」
「俺の家。飯作るから待ってろ」
上体を起こした由利香は周囲を見回し、椅子に腰掛けている龍馬と目が合った。その声も黒い炎も昨日のままで、クトゥグアのそれだ。龍馬は起きれば元通りになっているのではと期待していた分、落胆が大きい。
彼は何もするなと手で制し、目に隈を作りながらも、龍馬は二人分の朝食を作り始める。
食パンと、それに付けるマーガリンやジャム、スクランブルエッグを用意し、レトルト食品のコンソメスープも追加する。神様と言えども、肉体は人間なのだから食べられない事はないだろうと、龍馬なりに考えたのだ。そこで彼は、ふとした疑問が浮かび、なんとなくクトゥグアに視線を送る。
「食えないのある?」
問いにクトゥグアは首を傾げたかと思いきや、額に手を当てて唸りだす。龍馬は返事を待つ間に、トースターに自分の分の食パンを放り込んで焼く。しばらくすると、クトゥグアは首を横に振った。
「そういった類はないが、食事とかどうでもいいよ。速く対処しないと、あいつの事だから何をしでかすか」
「俺としてもさっさと終わらせたいが、解らないことだらけだ。無闇に突っ走って、鉄砲玉になったらどうしようもない」
「人間は壊れやすい生き物だから仕方ない、ということかな」
「そういう事だ。あと、腹が減っては戦はできぬってね」
龍馬は狐色に焼きあがった食パンを取り出し、マーガリンを塗って美味そうに頬張る。その様子を見ていたクトゥグアは、ベッドから這い出して向かいの席に座った。そして食パンを一つ取り出し、龍馬に差し出す。
「人間はその箱で物を焼くのかい? 実際にやってみてほしい」
「焼く手段は色々あるが……。炎の神様だから気になるのか。ちょっと待ってろ」
食べていたパンを口に咥え、手渡されたそれをトースターに入れ、時間を設定して焼く。瞬きせず凝視するクトゥグアは、まるで新しい玩具を見つけた子供のようだ。
「おお……うーん? これは炎で焼いているのか?」
「炎じゃなくて電気の熱だと思うぞ」
そう答え、食パンで胃袋を満たす。どうやらクトゥグアは電気という単語を初めて聞いたようだ。目を輝かせた彼女は、知らない物を次々に指差して龍馬に答えを請う。それは二人が大学に着くまで続き、律儀に答える彼の苦労は計り知れない。はたから見れば仲睦まじいカップルで、龍馬の理想なのだが、現実は非情である。
「来たわね。素敵な夜を過ごせた?」
「知らん」
二人が部室に入った瞬間、意味深な言葉をセレーネが龍馬に投げかけた。そんな彼女を一蹴し、彼は自分の椅子に座り込む。珍しい事にリカンスはまだ来てない。普段なら、いの一番で部室に来ている人物がだ。
「爺さんはまだ来てないのか」
「そうなのよ。昨日の今日だから何もないといいけどね」
セレーネも少なからずは心配していた。そんな二人を余所に、クトゥグアは部室の窓から外を見る。彼女にとって人間が一人欠けていようがいまいが、些細なことだ。登校して来る生徒達を眺めながら、とある事に気付く。どこかから視線を感じるのだ。しかしそれがどこから誰に見られているのか、今のクトゥグアには解らない。目を細め、視線を右往左往させる彼女の後ろから、しゃがれた声が耳に届いた。
「東野お嬢ちゃん」
ゆっくりと振り返ると、リカンスがいた。彼はクトゥグアに歩み寄り、白い布に包まれた物を差し出す。四角い形をしたそれは、姿を現していないのにも関わらず、異質な空気を纏っている。
「これは?」
「部長さんと一緒に西川お嬢ちゃんの家へ見舞いに行ったんじゃ。龍馬には、お主のボディーガードになってもらってたからのう」
龍馬は鬼の形相でリカンスを睨むが、クトゥグアから目を離さずにいる。彼は後ろから注がれる視線を感じ取ったが、振り返らない。
「そこまでは良かったんだが、西川お嬢ちゃんは留守で鍵も空いてたんじゃよ。心配で勝手にお邪魔したんだが、部屋にこれがあってのう」
「私は西川の部屋でこんな物騒なの見た時ないわ。貴方なら知ってるんじゃない?」
横からセレーネが顔を出してクトゥグアに目を走らせ、包みを解く。姿を見せたのは金属製の小箱だ。その箱は不均整な形状をしており、非地球的な生命体を象った奇怪な装飾が施されている。よほど変わった趣味がない限り、女性が持つとは思えない。
「もしや……」
クトゥグアは恐る恐るそれを手に取り、中身を誰にも見えないようにして開けた。すると彼女の顔は引き攣り、そして吐息を漏らす。
「その西川って人物がこれの中身を持ちだしたのかな」
中身を全員に見せ、言葉を続ける。箱の中には、金属製の帯と奇妙な形をした七つの支柱があった。クトゥグアは帯の中心を指差す。
「本来ならここに黒い多面体があるんだ。それがないという事は……あいつに魅了されていると見ていい」
苛立ちすら隠さないセレーネはクトゥグアの頭を掴み、声を荒らげた。その目はどこか狂気じみている。
「どうやったらそれは助けられるのかしら? そのあいつって奴を殺せば元に戻るの? ねぇ?」
「ニャルラトホテプを殺すだって? ふふふ、面白い事を言うね。殺さなくても、黒い多面体であるトラペゾヘドロンを壊すなり処分なりすればいいよ」
クトゥグアは嬉しそうに唇を歪ませ、手の平を見せた。そこから黒い炎が迸ったかと思いきや、炎の中から一本の剣が姿を現す。
「これはコピシュと呼ばれる剣の一種だけど、私の炎を宿したから対峙する時に役立つさ」
コピシュは小振りな片刃の武器である。その刃先は弧を描くように湾曲しており、柄は木でできていた。刀身は黒く、そこを蠢くように炎が行き来する。セレーネはそれを受け取り、落とさないように両手で柄を握った。
「魔装とはまた違ったものなのかしら……? ま、ありがたく使わせてもらうわ。銃刀法違反なんて、とっくの昔になくなってるし」
「とりあえず、当分の目的は西川捜索だな。インドアのあいつが自宅以外で行く場所なんて数えるくらいだが」
リカンスの後ろにいる龍馬は今後の話を提示しつつ、部室に配置されたロッカーを漁っていた。そこから取り出したのは、どこにでもあるような双眼鏡だ。
「行くぞ。相手の居場所を把握するだけでも違うからな」
「そうじゃのう。顧問も来ないようじゃ、どうしようもないしの」
彼の言葉に頷いたリカンスは、部室から出て行く彼の後を追った。それを見送ったセレーネとクトゥグアは、互いの視線が絡みあう。
「彼等と一緒に行かないのかい?」
「もちろん、行くわよ。でも、一つ聞きたい事があるわ」
「答えられる範囲でなら構わないよ」
微笑を浮かべるクトゥグアはどこか薄気味悪い。セレーネはゆっくりと、両手に持ったコピシュの剣先を彼女に向けた。
「残念だけど、信用できないわ。手助けしてくれるのは嬉しいけれども、敵対している相手の邪魔が出来る以上のメリットが、貴方にはないじゃない。本当の目的を教えてちょうだい」
「なるほど。協力者からの信用が得られないのは、こちらとしても困るね。君が一番優秀のようだし、教えてあげようか」
向けられたコピシュに決して動じず、クトゥグアを包む黒い炎は静まり返る。本人は笑うのを止め、クトゥグアの瞳は復讐の炎に燃えていた。それが静まることはないだろうと、セレーネは無意識に理解する。
「あいつは私が眠っている事をいい事に、身体の一部を剥いでいったんだ。おかげで、人間の手を借りなければいけないという酷い有り様さ。取り戻そうと躍起になるのは普通じゃないかい?」
包まれていた黒い炎は右手に集まり、赤く染まる。色が変化した炎は再び主の身体を這う。
「それだけさ。当分の間、体の持ち主には休んでもらうことになるけどね」
人懐っこい笑みを浮かべたクトゥグアは、先行した二人を見失う前に合流しようと、セレーネの腕を掴んで部室から飛び出した。