壱章「アインス」
数時間後、全員が瓶に入った炎の精を囲い、観察を始めていた。周囲から感じる視線が気になるのか、炎の精は瓶の中で回り始める。
「こうして見ると可愛いですね」
「恥ずかしいのかしら? 愛らしいわ......」
由利香とセレーネは、その動きに魅了された。見方によれば可愛らしいのかもしれないが、炎である。龍馬とリカンスからすれば、火が揺らいでいるだけにしか見えず、互いに顔を見合わせた。
「爺さん、俺には炎が揺らいでるようにしか見えないんだが」
「奇遇じゃのう。わしもそう思っていたところじゃよ」
爺さんと呼ばれたリカンスは、にかっと龍馬に笑みを投げた。彼は龍馬にだけ見えるよう、ポケットから透明なスキットルをちらつかせる。中では液体が波打っており、小さな火くらいなら簡単に消せる量はあった。それに気付いた龍馬は、リカンスが炎の精を危険視している事を察した。彼に少しだけ頭を下げ、セレーネに目を向ける。
「それでこの後どうするんだ? ずっと眺めている訳にもいかないだろう」
「この子をどうするかよね。カーター先生は今日来れないんでしょう?」
「少なくとも俺はそう聞いている。もしかしたら長くなるかもしれんがな」
セレーネと龍馬の視線がぶつかり合う。決して目を逸らさない龍馬は、部活動の顧問であるカーターが諸事情で来れない事に肯定する。普段なら喜ぶのだが、今回に限ってはそうにもいかない。課題の内容が内容なだけに、彼らは助けが欲しいのが本音だ。
「ところで東野お嬢ちゃん、奉仕種族について簡単に教えてくれないかの? 度忘れしてしまってのう」
「それなら部長のが……」
「老いぼれは熱く語られると逆に解らなくなってしまうんじゃよ。ふぉっふぉっ。どうじゃ?」
リカンスは部長の目の前だというにも関わらず、由利香に教えを請う。彼女は困ったように視線を泳がせると、隣にいたセレーネと視線が合った。由利香は引き攣った笑みを浮かべ、冷や汗を流す。一方、セレーネは由利香視点での奉仕種族について興味が湧き始める。
「ざっくり教えてあげたら? 実際問題、私だと脱線しちゃうし。それに、他の人が奉仕種族をどう見てるのか気になるわね」
「私でいいのかなぁ……。ごほん、本当にざっくりと教えますよ?」
最後まで渋る由利香だが、観念したようで深い吐息を漏らす。彼女は炎の精が入った小瓶を手に取り、リカンスが見やすい高さまで持ち上げた。中にいる炎の精は赤く燃え、ぐるぐると回っているように見える。由利香は小瓶の蓋を開けて、逆さまにした。
中から炎の精が出て、ふわふわと中空に炎が浮く。それはリカンスの目の前で止まり、炎の色が緑に変化する。
「彼ら奉仕種族は神との関わりが深く、種族全体が神の眷属として働くものを指します。......これが一般的な知識ですね」
「ならば炎の精も、神様とやらの遣いという訳かの?」
「いいえ。大学側が召喚した奉仕種族ですので、使役は可能です。神が介入したらどうなるかは解りませんけど」
「無神教故に神様は信じとらんのだが、とりあえずは安心して良いと思っていいんじゃろうか」
「そう考えて頂いて大丈夫ですよ。何かあっても、部長がなんとかしてくれますし」
言い終えた由利香はセレーネに笑顔を振りまく。その笑みの裏に、信頼と責任感の両方があるように見えたセレーネは苦笑するしかなかった。
リカンスはゆっくりと、炎の精に手を伸ばす。それに驚いた炎の精は、逃げるように龍馬の方へと移動した。緑色だった炎は黄色へと変貌する。
「ところで、ころころと色が変わるのはなんでかのう」
「知らん。そいつの気分なんじゃないか?」
なんとなく呟いたリカンスの言葉に、龍馬は適当に切り捨てた。召喚は出来ても、種族としての研究資料がなさすぎるのは問題だ。それを学生に任せるのは無責任にも見えるが、セレーネのような人物にとっては喜ばしい事になるが。
龍馬は炎の精を手で扇ぎ、全員の中心へと戻した。流れるようにそれが中心に戻ると、先程は見せなかった反応を表す。
「初めて見ました。凄い……」
そう言った由利香は、炎の精から決して視線を逸らさなかった。なんと、炎の精が四色の炎を放っているのだ。
セレーネの方向に青白い炎を、由利香の方向には赤い炎を見せる。そしてリカンスの方向に緑色の炎を、龍馬の方向には黄色い炎を照らす。
それは綺麗で幻想的な光だが、どこか不気味さも感じ取れる。輝きが永遠に続くと思われたが、数分後には墨のような黒い炎へと変化した。
「黒くなったな」
「そうじゃのう」
男性陣はありのままを淡々と語る。女性陣は二人を尻目に、何か理由があるのではないかと考えた。セレーネが炎の精に手を近付けても、色が変わらないどころか微動だにしない。
今度は由利香が小瓶の口を炎の精に向ける。彼女は原因が瓶から出したからではと考えていた。しかし炎の精は小瓶に入らない。無理やり入れようと、彼女が容器を近付けると紙一重で避られる有様だ。
それならばと龍馬は息を吹きかける。けれども、風に煽られる柳の如く炎が揺れるだけだった。
「何がいけなかったのかしら?」
セレーネの疑問に答えられる人物はいない。やがて炎の精は紐のように伸びて、由利香を中心に円を描く。部員達が炎の精を囲んでいたように。それは確かに炎なのだろうが、熱も火傷もしない。黒い炎が不気味ではあるが。
「こやつ!」
いち早く動いたリカンスは、ポケットに忍ばせていた瓶を掴む。彼が瓶の蓋を開けるよりも速く、炎の一部が瓶を包み込もうとした。咄嗟に手放したリカンスは、その場から素早く離れ、龍馬とセレーネを庇うように抱きしめた。液体が入った瓶は爆発を起こし、破片が周囲に飛び散る。
「ぐっ……」
リカンスの背に破片が幾つか刺さり、鈍い声が部室に響く。彼が盾となったおかげで二人は無傷だが、リカンスはそうもいかない。痛みを堪えながらも、口を開く。彼の息は荒い。
「お二人さんは……大丈夫かの?」
その言葉に龍馬は頷くが、セレーネは惚けている。にっかりと笑うリカンスは、由利香と炎の精がいる方へと顔を向けた。視線の先には、黒い炎が由利香を覆っている姿だ。見る限りだと火傷などの外傷はないようだが、意識が保っているようとは思えない。
手を伸ばそうとすれば黒い炎の勢いが増し、手がつけられなかった。そんな時だ、由利香の唇が動く。しかし発せられた声は普段よりも低く、目は真紅に変化している。
「君たちが私の配下を助けてくれたようだね」
「……東野じゃないな?」
返事をしたのはリカンスに庇わられた龍馬だ。ゆっくりと立ち上がり、彼は由利香を睨む。一瞬きょとんと目をぱちくりさせた由利香は、徐々に笑みを浮かべる。その表情は背筋を凍らすようなものだった。
「炎の精の主、とだけ名乗らせて貰おう。ただ、気に入らない奴の気配がしてな。助力をしてやろうと思ったのだよ」
由利香だった存在は黒い炎の精を身に纏わせ、両手を広げて無害であるのを示す。セレーネは未だに惚けながらも、炎の精の主である者の言葉を理解してしまう。彼女はかつて、文献で読んだことがあるのだ。炎の神格であり、炎の精の主である『クトゥグア』の名と存在を。