Act 31
ぞくり、と体が跳ねる。
「――ッ、」
その声の方向にシバは瞬時に杖を突きだし、呪文を唱えようとして――しかし、彼女はただ目を見開くだけだった。
「あは。人を追いこむと状態異常はよくかかる」
沈黙か。シバはようやくその事実に思い当たり、愕然とする。
悠々と姿を見せたのは背を曲げた人影。ただし、仮面のようなもので顔を隠している。
背格好からなんとなく男性だろう、と想像はつくが、それ以外は何一つわからない。
立ち居振る舞いはどことなく気だるそうな若者のそれに見えるが、放つ気配はあまりにも人間離れした異質なもので、それが彼の正体を判別させない要因となっていた。
プレイヤーキラーか。もし運営が機能していないならばそれが跋扈する可能性も当然考えられる。
じわりと背に寒気が走る。魔法は使えない、人通りは少ない。これは、まずいかもしれないな。
脳内が最大級の警鐘を発する。生命に危機が訪れている、と。
シバは急いでフレンドリストからメールを立ち上げ、仲間たちに危機を知らせようとする。しかし、それを見て仮面の男は、愉快そうに首を傾げて悠々とこう言い放った。
「あれぇ、いいの、この子死んじゃうよ」
シバはそれを聞いて硬直した。
いつ、何をどうしたというのか。今までそこにいなかったはずの存在が突如現出していた。
すらりとした風体の女性だ。目立つ水色の髪をポニーテールにして、しかし今はその体を力なく地面に横たえている。
間違いなくこの子がガルファの求めていた相方、ミナカタだろう。
だが、傷一つないというのに目を見開き、全身が弛緩しきっている様は、余りにも異常だった。
一体何があったというのだろう。シバは再び、得体のしれない恐怖に背筋がぞっとするのを感じた。
「この子、きれいな子だよねえ。とてもたくさん遊んだよー。でも、もう飽きたので、壊してもいいかも」
仮面の男は何が楽しいのか、さも愉快で仕方ない、と言ったような調子でのたまう。
何をした、と問いたい。しかし、物理的に問いただせない。
怒りと、恐怖と、混乱と、逡巡。それらが混ざり合って、結局シバは無防備にも動きを止めてしまった。
その隙をついて、突然仮面の男は勢い良く地面を蹴ってシバの懐に入り込む。
そしていつの間にか取り出していた短いナイフで、首筋を撫でるように切った。
「あは」
しまった。そう思うがもう遅い。嬉しそうな声を聞きながら、シバは崩れ落ちるように膝をつく。
しかし、HPバーはほとんど動かない。切られたのは薄皮一枚だったようだ。だが、何故――
「そんなもったいないことしないよぉ。おもちゃは多いほうがいい――その分じゃ、麻痺毒は初体験かな。いいね、新鮮だ」
男が悠々と近寄り、顔のそばにしゃがみ込む。そしてまるで内緒話をするようにそっとシバに語り掛けた。
「良いこと教えてあげる。この世界って、HPバーが0にならない限り死なないんだよ」
あとね。
人を切り刻むのは、とても気持ちがいいんだ。
極上の美酒を目にした人のように恍惚とした調子で男は語る。
歯の根が震え、力が入らない。シバは、ゆっくりと目を伏せた。その表情は、すでに絶望一色に染め上げられていた。
そうか、私は。もう。
「死ぬよりひどい目に合わせてあげる」
男はそうして、振り上げた刃物をシバに向けて突き立てた。
制御されているはずの痛みを強引にこじ開けて、刃物が体を通り抜けていく。
右から左へ、上から下へ。時に素早く。時にゆっくりと。
HPがほぼ失われ、意識を手放すのが許されるか、という位になると無理矢理全身にポーションがぶちまけられ、急激に覚醒させられる。
熱い、と言うただそれがけが延々とシバの脳裏を埋めた。身をよじって逃れようとしても、たやすくその手に絡め取られ、時に蹴り飛ばされて、シバは結局何も抗うすべを得ることが出来ないままにその暴虐にさらされ続けた。
そして、何度目かももうわからなくなった刺突に固く目を瞑ったシバに、仮面の男は酷薄な言葉を投げつける。
「目を開けて。さもないとあの子に同じことをする」
は、と一瞬シバは我に返り、薄く目を開ける。
其処には同じように一瞬正気に返ったのだろう、倒れていた彼女が震えながら涙目でシバを見つめていた。
ああ、と鈍った頭でシバは呆けたようにそれを見て、そして、急激に呼び戻された現実感に再び震えた。
ごめんなさい、と。
声も、体の自由も奪われた彼女は唇だけでそう言った。
「‥‥‥っぐ」
無力だ。あふれる涙を押しとどめるすべなんて、シバはもはや知りようがない。
嗚咽すら音になってくれない中で、狂気のような感情の奔流ばかりが胸の中で暴れ回る。
「あは。あははは。うふ、あははっははははは!」
おかしくてしょうがない、と言ったように男は禍々しく哄笑した。
「おもちゃは多いと、面白いね!」
そうして再び、シバに向かって凶刃を躊躇なく振り下ろしたのだった。
体が跳ね、呼吸を忘れ、どこまでも自分が砕かれていく無間地獄の中で。
シバは、なるほどこうして自分は死ぬのだな、と思った。
悲しそうな、苦しそうな、もう一つの声にならない悲鳴を耳にとらえながら。
こんなことをされているのに、何故だろう、他人の身を案じてしまう私は、意外とお人好しだったのかもしれない。
ミナカタさんと言うあの子が、気に病まないでいてくれるといい、だなんて。
そんなこと――
何度目かのポーションが、全身を濡らした。
シリアルキラー、襲来。




