遅れてきたカップの中身
「Trick or Treat(手を出すべきか、介抱すべきか)……それが問題だ」
酔い潰れて眠っていた私を起こしたのは、そんな耳に染み入るような低い声だった。
閉じたままの目を灼く黄色を帯びた蛍光灯の光と、染み付いた男の臭い、そして外国産のタバコの匂い――ゴエちゃんの部屋か。
わざわざ目を開けなくても自分がどこにいるかわかるほど、何度も朝を迎えた場所。
これほど自分の近くにいる人なのに、あと一歩が踏み出せないのだから、人の心というものは不思議なものだ。
「……どっちもダメ」
目を開けることも泣く、私は幼子の寝言のような声で呟いた。
耳のすぐ傍から聞こえる衣擦れの音。
「起きたのか」
「うん」
交わされるのは、他愛も無い上に色気も無い言葉。
漂うには、付き合ってもいないのに、別れを迎えたカップルのような醒めた空気。
痛いほどの沈黙の後で、彼は静かに切り出した。
「なぁ、やっぱり俺じゃダメなのか?」
「わからないの。 でも、今は無理。 ゴメン」
短い言葉のやり取りの後で、また沈黙が二人の間に重く横たわる。
どうしようもなく辛くて、悲しくて、彼の顔を見ることが出来ない。
目も開けることが出来ない。
寒々とした気配に、私は悟る。
……いつまでも彼の気持ちを無視していたツケが今になってやってきたのだ。
恋人になんかならなくても、捨てられるときは捨てられる。
そんな簡単なことを、私は気付かずに――いや、目を反らして逃げ続けていた。
彼は決して聖人でも仏でもないのに。
そう、私は今、彼に見捨てられようとしているのだ。
どうせ別れるなら、もっと早くに決着をつけていればよかった。
だが、彼の口から出てきた台詞は……
「じゃあ、もう少しだけ、お前のこと好きでいていいか?」
ダメよ、ゴエちゃん。
私たちの関係は、たぶんこのまま引きずるほどに傷を深めてゆく。
たぶん、これは彼のワガママ。
ありえない希望に縋って、余計な苦しみを生み出すだけの。
「きっと、私なんかより、他の人選んだほうが良いよ?」
そして、これが私のワガママ。
自分が楽になりたいだけのその場しのぎ。
いや、その後できっと後悔することがわかっていながら、あえて浅薄な選択肢を選ぶ愚かさ。
「それじゃダメなんだ」
「どうして?」
その私の愚かさを、彼の愚かさが否定する。
「それこそ、言わなきゃわからないのか?」
「わからない。 わからないよ。 どうして私なの? 別に美人でもないし、これといった特技も無いし。 私を選ぶ理由解らない」
そう、私は、あのハロウィンのカップみたいに空っぽな女なのよ?
昔付き合った男たちも、私の事を口を揃えてこう言ったのだ。
そう、面白みの無い女。 もしくは、『中身の無い女』と。
それがどれだけ私に深く突き刺さるかを考えもしないで。
……どうせいつかは見捨ててゆくクセに、その場限りの気持ちを語らないで!
男を好きになるたびに、ハロウィンがやってくるたびに、あのカップを裏返した瞬間が脳裏をよぎる。
お前は中身の無い女。
私は中身の無い女。
あのハロウィンの出来事は、今まで私が曖昧なまま心に抱えていたコンプレックスをハッキリとした形にしてしまったのだ。
「そうだな、なぜお前が好きか……それは俺にもわからない。 でも、そんな事はもうどうだっていい。 問題なのはお前の気持ちだ。 俺はお前が好きだ。 お前は俺をどう思ってるんだ?」
そんなの、言えるわけが無いじゃない。
おそらく、私の顔は酒以外の理由で真っ赤になっていただろう。
「今日ははっきりと聞くまで引き下がるつもりは無い」
目を閉じたままの顔に、頬に、彼の痛いまでの視線が突き刺さる。
私の気持ち……そうね、どう思ってるんだろ?
自分を見つめなおすために深呼吸をして、彼のことを頭に浮かべながら、一番最初のイメージを言葉にする。
「たぶん、私もゴエちゃんが好き。 でも、私の中には……ゴエちゃんにずっと好きでいてもらえるだけの理由が無いの」
酔いの力を借りてようやく口にした言葉に、なぜか心がストンと落ちた気がした。
そっか、私ゴエちゃんの事ほんとに好きだったんだ。
たぶん、今まで付き合ってきたどんな男よりも。
臆病な私は、誰かに幻滅されるのが怖かった。
だから、いつも誰かの理想になりたくて、背伸びをして失敗ばかり。
自分に似合いもしないキャラを演じてしくじる様は、きっと売れないピエロのように無様で嫌悪をかき立てる。
そんな自分を見せるのが嫌で、彼に幻滅されるのが怖すぎて、それでいつも逃げてばかり。
どうやら私の心に抱えていたのは、最初から友情なんかではなかったようだ。
もしかしたら、男女の友情と言うのは、恋になれない慕情のことかもしれない。
――少なくとも、私に限っては。
「だったら、これから一緒に理由を作ればいいじゃないか。 お前が空のカップを引いた話だが、俺だったらカップの中身は花やコインや指輪じゃなくて……そうだな、今なら酔い覚ましのコーヒーが入っていて欲しい」
「ぷっ……なによ、それ」
口説き文句の途中のはずが、いつの間にかジョークに変わる。
実に彼らしい語り口だ。
思わず目を開けた私を、彼の優しい顔が見下ろしていた。
「だから、空っぽのお前がいいんだ。 先に何か入っているカップには、コーヒーを入れる事はできないだろ?」
「私、誰かの好みに合わせられるような、そんな都合のいい女じゃないよ?」
「だったら、お前が空っぽじゃないってことだろ? 勝手に自分の事決め付けるなよ。 いいか、俺はな……」
彼はそこでそこで言葉を区切り、
「お前のぷっくりした唇が好きだ。 大きな胸よりも、お前の掌にちょうど納まる胸が好きだ。 細くて折れそうな腰よりも、柔らかくて抱き心地のいいその体が好きだ」
「ちょっ、や、やめてよ! 何言ってるのこの変態っ!」
あまりにも品の無い、それでいて欠片ほどの飾りも無い彼の口説き文句。
怒っていいのか、恥ずかしがっていいのかわからない。
でも、いかにも彼らしい台詞に、漏れ出したのは苦笑い。
これが恋なら、一瞬で醒めていた事だろう。
だけどこみ上げるのは愛おしさ。
……たぶんこんな彼のしまらない部分も含めて自分は愛しているのだと思う。
「変態でわるかったな。 けど、言いたいのはそこじゃないんだ。 聞いてくれ。 お前と一緒にいる時が一番楽しい。 ずっとお前と話しをしたい。 お前の笑っている時の顔が一番好きだ。 ほら、お前は空っぽじゃない。 ほら、こんなにもお前には俺の好きな要素が詰まってる」
「で、でも……」
「くどい。 甘い言葉が貰えないなら、その唇に悪戯してやる」
今まで絶対に手を出してこなかった彼からの、一方的な侵略の意思。
私の体はその腕に抱き寄せられ、酔いの回った身ではあがらう術も無い。
唇を割って、ハロウィンの悪魔が酒精の香と共にわたしの中を蹂躙する。
猫の舌で下腹部をなぞられたような、今まで味わったことも無いような心地よいざわめきに縛られた私は、その悪戯を止める事はできず、ただされるがままに彼を受け入れた。
「なぁ、いいだろ?」
拒まない私を了承とみなしたのか、彼は耳元で甘えるような声を上げる。
「……ダメ」
けど、私が返したのは拒絶の言葉。
「なんで!」
「だって、私、そんな軽い女じゃないもん。 私を口説き落としたいなら、もっとおいしい言葉を用意してね。 というわけで、私からの報酬はお菓子じゃなくて、寸止め放置プレイの悪戯でした」
「馬鹿なぁっ!?」
この世の終わりのような声を上げ、彼は頭を抱えて私の横にドサッと倒れる。
「――頑張ったんだけどなぁ」
「頑張り方を間違えてましたから。 そんな力づくで迫ったら、フられて当然です」
「じゃあ、どんな攻め方すればよかったんだよ。 お前、難攻不落すぎるぞ」
ふてくされた彼の声を無視して、私はその胸にそっと頭を寄せる。
「じゃあ、このまま一晩傍にいて。 女はエッチなことなんてしなくても、優しく抱きしめられるだけでも、気持ちよくなるものなのよ?」
「そいつは知らなかったよ。 むしろお前だけじゃないのか? それ」
呆れたような声を頭の上に聞きながら、私はもう一度目を閉じる。
心地よい睡魔がたちまち私の体を包み、意識が眠りへと落ちてゆく。
「それが何か? ゴエちゃんは黙って抱き枕しててくれればいいの!」
「それ以上の役目は?」
「……考えとく」
……その夜の事は、これ以上語ることも無いだろう。
その日を境に、友達の境界線を越えてしまった私たちは、ちょうど一年後にめでたく結婚をした。
理由は私がママになってしまったから。
ええ、彼には責任を取っていただきましたとも。
その後、実は私が「手を出しにくい高嶺の花」と周囲に思われていたことや、ゴエちゃんが必死に他の男を私から遠ざけていたことを知ったり、その一途さに惚れ直したり……出産予定日が8/31と聞いたときは、二人で目を合わせた後に大笑い。
ええ、ほんとに色々ありましたとも。
そして、10/31の今日。
私は春日と言う自分の慣れ親しんだ苗字を捨てて、ヴァージンロードを歩き始めます。
旦那というワガママな悪魔の手を取って。
空っぽだった私のカップ。
その中に入っていたのは、蜜月という最高に甘いお菓子でした。
はい、この話の作者は卯堂でした!
まぁ、他愛も無い出来ちゃった結婚の舞台裏って感じですね。
ちなみに、この話の元になった占いは実在します。
来年のハロウィンにお試しいただくのもよいかもしれませんが、一人は空のカップを引き当てるので、ご注意を!