第9話 五年間の声
「始めます」とアルヴィンさまが言い、私は目を閉じた。
手を合わせる。三度目。今日は精霊力の全域開放で挑む。
大術式場の精霊石が足元で淡く光っている。天井の硝子から差し込む冬の光が、水晶球の表面で虹色に散った。リルが水晶球の傍で待機している。リルを経由して、ニルにエネルギーを届ける。
精霊力のフィルターを外す。一枚、また一枚。普段は無意識に抑えている感情の層が剥がれていく。怒り。孤独。寂しさ。誰にも見てもらえなかった五年間の、積もりに積もった——。
全部出す。出さなければ、波長の全域は開かない。
アルヴィンさまの精霊力が、手のひらから流れ込んできた。
硬質で規則的。結晶のようだと思っていたが、違った。全域を開放した精霊力は、結晶の内側に光を閉じ込めたような——どの角度から見ても違う色が見える。
そしてその光の中に、記憶が混じっていた。
映像が流れ込む。
——研究室。夜。アルヴィンさまが机に向かっている。手元に帳面。精霊銀のインクで何かを書き込んでいる。窓の外は暗い。レーヴェン王国の冬の夜だ。
精霊が一体、窓辺に浮かんでいる。小さな水精霊。グランハルト領のリルとは別の個体だが、同じ種族だ。その精霊がアルヴィンさまに何かを伝えている。
『ユリアーナが今日も水脈を護った』
アルヴィンさまのペンが動く。記録する。日付を書く。
映像が変わる。
——同じ研究室。季節は違う。夏だ。窓が開いている。夜蛾が灯りに寄ってきて、アルヴィンさまがそれを手で払った。精霊が報告する。
『ユリアーナが笑った。花精霊が新しい花を咲かせたのを見て』
アルヴィンさまのペンが止まった。一瞬。それから、また動き出した。記録の横に、小さく——本当に小さく——丸い印が付いている。笑顔の報告にだけ付く印だった。帳面を遡ると、丸い印はそう多くない。五年分の記録の中で、数えられるくらいしかない。
『ユリアーナが干し林檎を三つ食べた』
この報告にも律儀にペンが動いていた。……ニル、そこまで報告しなくていい。
映像が変わる。
——冬。三年目の冬だ。精霊通信が途絶した時。アルヴィンさまが椅子から立ち上がっている。水晶球に手を当てて、何度も何度も通信を試みている。繋がらない。精霊が弱々しく報告する。
『ユリアーナの精霊力が消えかけている』
アルヴィンさまの手が水晶球を掴んだ。強く。指が白くなるほどに。
そして——眼鏡を外した。額に手を当てて、長い間そのままだった。この人が眼鏡を外すところを、私は見たことがなかった。
映像が変わる。
——三日後。通信が回復した夜。アルヴィンさまが帳面に書いている。『精霊術を教えたのは私だ。彼女がこうなることを予見できなかったとは言わない。』筆跡が乱れている。あの一行だ。
書き終えた後、アルヴィンさまは帳面を閉じて、しばらく天井を見ていた。精霊が問いかける。
『大丈夫ですか』
アルヴィンさまは答えなかった。精霊の問いかけに答えない精霊術師を、私は見たことがない。
映像が途切れた。
目を開けると、大術式場の天井が見えた。寝転がっている。いつ倒れたのだろう。手はまだアルヴィンさまと繋がっていた。
アルヴィンさまも膝をついていた。全域開放の反動だ。精霊力を大量に消費する。
「……ニルは」
「エネルギー供給、成功しています」
アルヴィンさまの声が掠れている。水晶球を見た。ニルの光が——明滅していたニルの光が、安定していた。弱いけれど、消えていない。消えずに、ゆっくりと脈動している。生きている。
「ニル」
精霊越しに呼びかけた。今度は届いた。距離を飛び越えて、精霊間ネットワークを通じて、私の声がニルに届いた。
ニルが返した。さようなら、ではなかった。
おかえり。
涙は出なかった。その代わり、鼻の奥がつんとして、まばたきが何度も何度も繰り返された。手の甲で目を拭ったが、涙ではない。ただ、まばたきが止まらない。
五年間、私は一人だと思っていた。名前を呼ばれず、功績を認められず、精霊と二人きりで領地を守っていると思っていた。
でもニルは「おかえり」と言った。行ってらっしゃいではなく、おかえりと。ずっとここにいたよ、と。
そしてアルヴィンさまは——五年間、一晩も欠かさず記録を取っていた。私が笑った日に丸い印をつけて、私が泣いた夜に眠れなくなって、私が倒れかけた冬に額を押さえて動けなくなって。
一人だと思っていたのは、私だけだった。
「名前を呼ばれなかったのは慣れました」
声が出た。アルヴィンさまに向けたのか、ニルに向けたのか、自分でもわからない。
「でも——精霊はずっと、呼んでくれていた」
アルヴィンさまが何か言おうとした。口が動いて、止まった。眼鏡を直す代わりに、繋いだままの手を少しだけ強く握った。
この人の精霊力がまだ手の中に残っている。温かい。結晶のような硬質さの奥に、こんなに温かいものがあったのだ。
ゆっくりと体を起こした。大術式場の精霊石が、さっきよりも明るく光っている。術が成功した証だ。精霊園の精霊たちも喜んでいるのかもしれない。天井の硝子を通して見える空が、少しだけ青みがかっていた。朝から曇っていたのに。
と——精霊力の残響の中に、もう一つ、映像が見えた。
ほんの一瞬。断片的な映像。アルヴィンさまの記憶の欠片。
若いアルヴィンさまが、誰かの前に立っている。王宮のような場所だ。声を荒らげている——この人が声を荒らげるのを、私は初めて見た。
『彼女を送り込むのか。精霊の管理者として。あの領地に。本人に知らせもせずに。』
相手は見えなかった。でも、言葉は聞こえた。
——あの結婚は、やはり仕組まれていた。
手を離した。
アルヴィンさまと目が合った。この人も、私が見たものに気づいている。精霊力の全域開放中は、何が伝わるかを制御できない。
「……あの映像は」
「全てをお話しします。今度は『もう少し調べてから』とは言いません」
アルヴィンさまの声は、静かだったが、確かだった。覚悟を決めた人の声だ。
窓の外で精霊園の精霊たちが光っている。術の成功を祝っているのだろう。月下百合が昼間なのに薄く発光していた。精霊力の余波を受けて、園全体が輝いている。
手のひらにまだ温もりが残っている。結晶のような精霊力の残響。この人の五年間が、まだ指先に触れている。




