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夫が私の名前を呼んだのは、今日が最初で最後だった  作者: 秋月 もみじ


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第8話 二人がかりの術式


 精霊間ネットワーク。理論上は可能で、実例はない。いつもの研究と同じだ。


 大精霊園に戻った翌日から、準備が始まった。アルヴィンさまの理論はこうだ。精霊は個体で存在しているように見えるが、実際には目に見えないネットワークで繋がっている。水精霊のリルとグランハルト領のニルも、微弱だが回路が残っている。この回路を増幅し、精霊力を遠隔で送り込む。

 理論は美しい。本当に美しい。水脈の分岐のように枝分かれする精霊力の流れ図を見た時、思わず「きれい」と口に出してしまった。

 アルヴィンさまが描いた図面は精密で、精霊石のインクで回路の接続点が一つ一つ書き込まれている。全体を見ると、まるで冬の木の枝のような形をしていた。末端が無数に分岐して、一番太い幹がニルに繋がる。この幹を通じて精霊力を送り込む。

 ニルのことを一瞬忘れて純粋に研究に没頭しかけた自分に気づいて、慌てて口を閉じた。


「……今のは、忘れてください」

「精霊力の流れ図を美しいと感じるのは、正しい感性です」


 褒められているのか、論文の査読をされているのかわからない返答だった。


 問題は実行にある。ネットワークの増幅には、二人の精霊術師の精霊力を同調させる必要がある。精霊力の同調とは、平たく言えば、互いの精霊力の波長を合わせることだ。そのためには物理的な接触——手を合わせる——が必要になる。


 理論の説明は午前中に終わった。午後は術式の構築だ。

 精霊園の中央にある大術式場に向かう。私は研究室から大術式場への道を、案の定三回間違えた。一回目は温室の裏手に出た。二回目は食堂の前に出た。三回目は自分の部屋の前に出た。なぜ自分の部屋には辿り着けるのに、目的地には辿り着けないのだろう。

 振り返ると、アルヴィンさまが五歩後ろを歩いていた。何も言わない。ただ、私が間違えるたびに、無言で正しい方向に顎をしゃくる。


「……最初から教えてくださればいいのに」

「自分で覚えないと、いつまでも迷います」

「六年前も同じことを言われました」

「六年前と同じ状況だからです」


 口調は素気ないが、目の端が少し細くなっていた。笑っているのだ、この人は。精霊の生態系の話をしている時以外で、この人が笑うのを見たのは数えるほどしかない。いや——私が迷子になった時だけは、毎回少しだけ笑う。不思議な人だ。


 大術式場は石造りの円形の部屋で、床に精霊石が埋め込まれている。天井は硝子張りで、冬の曇り空が見えた。部屋の中央に水晶球が一つ。観測用ではなく、術式の焦点として使う特大のもので、大人の頭ほどの大きさがある。


 初回の試行。

 アルヴィンさまが向かいに立ち、両手を差し出した。


「手を」


 私は自分の手を見た。爪が少し伸びている。切り忘れていた。まあ、いいのだけれど——いや、よくない。なぜ今、爪のことが気になるのだろう。


 手を合わせた。

 アルヴィンさまの手は私の手より一回り大きくて、指が長い。研究者の手だ。ペンだこがある。紙を扱う仕事をしている人特有の、指先の乾き方。温かくはない。むしろ冷たい。この人は末端が冷えるタイプらしい。六年前もそうだった。研究室で私がお茶を差し出すと、両手でカップを包み込むようにして受け取っていた。あの仕草は、温まりたかったからなのだ。今さら気づいた。

 精霊力を流し始めた。


 ——失敗した。


 精霊力の波長が合わない。私の精霊力は水に近い波長で、流れるように動く。アルヴィンさまの精霊力はもっと硬質で、結晶のように規則的だ。二つが混ざらない。水と氷を同時に掴もうとしているような感覚だ。


「波長の差が大きすぎます。同調率が三割に達しません」


 アルヴィンさまが手を離した。眼鏡を直す。分析モードだ。


「もう一度」


 二回目。今度は私が波長を合わせようとした。硬質な精霊力に合わせて、自分の流れを固くする——できない。不自然だ。精霊力は思考を反映する。無理に変えようとすると、精霊たちが混乱する。リルが足元で不安そうに揺れていた。


「やはり合わせるのではなく、互いの波長を変えずに重ねる方法が必要です」

「どうやって」

「……精霊力を完全に開放する。波長を変えるのではなく、波長の全域を出す。そうすれば重なる帯域が必ずある」


 全域を出す。つまり、精霊力のフィルターを全て外す。

 それは——精霊を通じた感情が、相手に筒抜けになるということだ。精霊力は感情と結びついている。開放すれば、喜びも悲しみも怒りも、全て精霊力の波に乗って相手に伝わる。


「……お互いの感情が、見えてしまうということですか」

「そうなります」


 アルヴィンさまの声は平坦だった。でも、手を合わせた時——二回目の最後の一瞬——この人の手が震えていたことを、私は気づいていた。


「緊張していますか?」


 聞いてしまった。聞くつもりはなかったのに。


「精霊力が安定しないだけです」


 嘘だ。

 精霊力が不安定で手が震える現象は、精霊術の教科書には載っていない。


 でも指摘はしなかった。今はニルのほうが大事だ。


「明日、もう一度試しましょう。精霊力の全域開放で」


 アルヴィンさまが頷いた。

 大術式場を出る時、私はまた道を間違えかけた。アルヴィンさまが無言で正しい廊下を指さす。


 その指先が、まだ少し震えていた。


 夜、研究室で精霊力の全域開放について文献を読んだ。古い精霊学の書物に記述があった。全域開放は「精霊との最も深い対話」であり、同時に「術者の全てを晒す行為」であると。

 灯りの下で、精霊銀のインクが頁の上で青く光っている。この書物自体がかなり古い。紙が黄ばんで、端がほつれている。アルヴィンさまの書架から借りてきた一冊だ。「参考になるかもしれません」と言って、やはり机の上に置いていった。直接渡すのではなく、置いていく。相変わらずだ。

 全てを——晒す。

 明日、この人の前で。この人も、私の前で。

 五年間の怒りも、孤独も、それから——アルヴィンさまの精霊力に触れた時に、ほんの一瞬だけ安心した気持ちも。全部伝わってしまう。

 逆に、この人の五年間も。記録帳に書ききれなかった感情が、精霊力の波に乗って流れ込んでくるかもしれない。


 それは怖い。でも、ニルの命には代えられない。


 水晶球の中で、ニルの光が微かに明滅していた。待っていてくれている。

 待っていてね。もう少しだけ。

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