第7話 枯れた花畑
境界の丘に立つと、見慣れたはずの風景が別の土地のように見えた。
ニルの状態を精霊越しに確認するため、アルヴィンさまと共にグランハルト領の近くまで来た。国境ではない。両国の間に正式な国境線はなく、領地の境界が入り組んでいるだけだ。丘の上からなら、グランハルト領を一望できる。
冬枯れの平野——のはずだった。
違う。枯れ方が違う。冬の枯野には冬の枯野の色がある。土の茶色、枯れ草の黄色、空の灰色。それぞれに温度がある。でも今、目の前に広がっている景色には温度がなかった。灰一色だ。土も草も木も、同じ乾いた灰色をしている。
水精霊がいなくなった土地の色だ。
畑は全滅していた。冬麦の芽が出るはずの畑に、何もない。土が白く乾いて、ひび割れている。遠くに見える井戸の周りに人だかりができていた。水を汲みに来た人たちだろう。並んでいる。以前なら並ぶ必要はなかった。水精霊が水位を常に十分に保っていたから。
そして——庭園。
私が五年間、花精霊のフロールたちと一緒に育てた庭園。冬でも薔薇が咲き、春告げ草が季節を先取りし、銀木犀が秋の終わりまで香っていた庭。
砂礫になっていた。
文字通りの砂礫だ。花の残骸すらない。
花の残骸すらない。乾いた砂と、折れた枝と、色を失った葉の欠片が風に転がっている。あの庭は土壌から空気まで、精霊の力で維持されていた。全てが抜けたら、こうなる。こうなるのだとわかっていた。わかっていたが、見るのは別だ。
「ユリアーナ様……」
声がした。丘の下、境界の柵の向こう側から。
白髪の女性が水筒を手に立っていた。マルタだ。偶然ではないだろう。境界の近くに私が来ていることを、精霊の噂で聞いたのかもしれない。精霊は見えなくても、精霊の噂は人づてに広がる。
マルタは柵の手前で立ち止まった。越えてこない。境界を越えれば、グランハルト領から出ることになる。使用人がそれをすれば問題になる。
「花が、全部」
マルタの声が震えていた。
「井戸の水が……味が変わって。子供たちがお腹を壊して。薬師が来てくれたけれど、原因がわからないと」
水精霊がいなくなれば、水の浄化が止まる。不純物が混ざる。子供は体が小さいから、最初に影響が出る。予想通りだ。全て予想通りだ。
「侯爵さまは……季節のせいだと。でも使用人の間では、もうみんな気づいています。奥方さまがいなくなってから、全部おかしくなったと」
マルタが袖で目を拭った。皺だらけの頬を涙が伝って、顎の先から落ちた。
水筒を見た。中身は川の水だろう。あの甘い井戸水は、もうない。マルタの手が震えている。蜜蝋の塗り薬も切れているのだろう。指先がひび割れて、血が滲んでいた。
「エルザ様が——あの方が『奥方のせいではないか』と仰ったそうですが、侯爵さまは取り合わなくて。でも領民たちは……奥方さまが戻ってきてくださるのを待っている者もおります」
戻る。あの言葉がまた来た。
——何かが割れた。
私の中の、何かが。
五年間。五年間、私は。夜中に庭を歩いて花精霊と契約を更新し、水脈の底に潜って水精霊に語りかけ、守護精霊の結界を三日徹夜で修復した。誰にも気づかれず。誰にも感謝されず。「奥方の散歩癖」と嗤われながら。
それなのに——
思考が途切れた。文にならない。
私がどれだけ——いや。違う。怒りではない。怒りだけではない。悔しさだ。報われなかったことへの。いや、それも違う。報われたくてやっていたわけではない。精霊たちが好きだったから。この土地の水が好きだったから。でも、だからといって——名前の一つくらい、呼んでくれても良かったではないか。
マルタが泣いている。マルタは私の味方だった。ずっと。でもマルタもあの屋敷に残った。残るしかなかった。使用人だから。ニルと同じだ。自分の足では出ていけない人たちが、取り残されている。
私のせいではない。
私のせいではないのだ。
でも——
「ユリアーナ殿」
背後からアルヴィンさまの声。振り向かなかった。振り向いたら、何か崩れそうだった。
肩に、重みが触れた。
外套だ。アルヴィンさまの紺色の長外套が、私の肩にかけられていた。温かい。この人の体温が残っている。手で渡されたのではない。肩に直接かけられた。六年前にはなかった距離の近さだ。
「戻る必要はありません」
同じ言葉。でも今日は、声が少し震えていた。
「ニルを救う方法は、ここにもあります。精霊間ネットワークを使った遠隔補助術。理論の骨格は昨夜まとめました。あなたの精霊親和力と、私のネットワーク理論を組み合わせれば——前例はありませんが、不可能ではない」
私は外套の縁を掴んだ。指先が白い。冬の風が頬を刺す。
「……前例がないのに、可能だと」
「前例がないことは、不可能であることの証明にはなりません」
研究者の言い方だ。いつもの落ち着いた、論理的な。
でも今は、その素っ気ない声がありがたかった。感情で寄り添われるより、事実と論理を積んでくれるほうが、今の私には必要だった。
丘の下で、マルタが水筒を抱えて立ち尽くしていた。
私は柵越しに声をかけた。
「マルタ。子供たちの水は、一度沸かしてから飲ませてください。それだけで不純物はかなり減ります」
マルタが大きく頷いた。
それだけしか、今は言えない。
でも。
外套の温もりが肩から背中に広がっていく。この温もりは、自分一人のものではない。隣に——いや、後ろに立っている人のものだ。
振り返った。アルヴィンさまは外套なしのシャツ姿で、寒そうに腕を組んでいた。渡した本人のほうが寒がっている。
不器用な人だ。
「帰りましょう。理論を詰めます」
アルヴィンさまが頷いた。今度は、表情が少しだけ——ほんの少しだけ——柔らかかった。
丘を下りながら、風が後ろから吹いた。グランハルト領の方角からだ。かつて風精霊のツークが浄化していた風。今は少し埃っぽい。喉の奥がざらつく。
もう二度と、この丘には来ないかもしれない。でもニルだけは——ニルだけは、助ける。
外套の裾が風にはためいた。アルヴィンさまの匂いがした。羊皮紙と、精霊銀のインクと、薬草茶の匂い。研究者の匂いだ。嫌ではなかった。むしろ少し安心する。この匂いのそばにいれば、大丈夫な気がした。




