第6話 さようなら
夜中に目が覚めた。手首の内側で、何かが弱く震えている。
最初は夢の続きかと思った。グランハルトにいた頃の夢をよく見る。長い廊下を一人で歩く夢。誰も名前を呼んでくれない夢。もう慣れた。
でも、これは夢ではなかった。震えが止まらない。胸の奥というより、もっと深い場所——精霊力の通る回路のどこかが、ぷつぷつと断線していく感覚。
ニルだ。
跳ね起きた。窓の外は真っ暗で、月下百合の白い光だけが庭を照らしている。足元でリルが不安そうに揺れていた。リルにもわかるのだ。精霊同士は繋がっている。遠くにいても、仲間の異変は伝わる。
枕元の水晶球に触れた。冷たい。いつもなら精霊力で薄く温まっているはずの表面が、氷のように冷えている。ニルからの信号が弱すぎて、水晶球を維持する精霊力すら受け取れていないのだ。
寝台の横に置いてあった上着を掴んで慌てて羽織った。裸足のまま廊下に出て、三つ曲がり角を間違えてから——今はそれどころではない——アルヴィンさまの研究室に辿り着いた。
灯りが点いている。まだ起きていたのか。
扉を叩くと、すぐに開いた。アルヴィンさまは眼鏡をかけたまま、書き物をしていたらしい。手にペンを持っている。
「ニルが——」
「わかっています。こちらの精霊も感知しました」
やはり気づいていた。それなら話が早い。
「状態を見ます」
アルヴィンさまの研究室には、大型の精霊観測用水晶球がある。私のものよりずっと精度が高い。球体の表面に手を当てると、精霊間のネットワークを通じて遠方の精霊の状態を読み取れる。
水晶球が青白く発光した。映し出されたのは、グランハルト領の地下水脈。暗い。以前は精霊石が青白く光って、水脈の底まで見通せたのに——今は闇だ。水の流れも弱い。
その闇の中に、小さな光が一つ。
ニル。
魚のような姿の古い水精霊。目だけが人間に近い。その目が、今は半分閉じていた。光が弱い。弱すぎる。
「衰弱しています」
アルヴィンさまの声が低い。分析する声だ。
「ニルは土地精霊です。グランハルト領の水脈の最深部に数百年棲んでいる。他の精霊と違い、契約者が去っても土地に残る。ですが——」
「私の精霊力を媒介にして生命を維持していた」
「……ご存じでしたか」
「いいえ。今わかりました」
今わかった、というのは嘘ではない。頭ではわかっていなかった。でも身体の奥では——精霊力の回路の断線という形で、ずっと前から信号を受け取っていたのかもしれない。見ないふりをしていたのかもしれない。もう関わらないと決めたから。
ニルが声を送ってきた。精霊の声は言葉ではない。感情の塊が、胸の中に直接落ちてくる。
さようなら。
そう言っている。別れの声だ。怒りでも恨みでもない。静かな諦め。水脈の底で一人、光が消えていくのを待っている。
手が震えた。水晶球の表面が曇った。
「……ニル」
声に出した。届かない。遠すぎる。精霊通信は精霊力の強さに依存する。こんな距離では、私の声はニルに届かない。
「グランハルトに戻れば、ニルを助けられます」
アルヴィンさまの声。事実の提示だ。感情は含まれていない——と思ったが、違った。いつもより半音低い。
「戻れば、精霊力を直接供給できます。ニルの生命維持に十分な量を」
「それは——」
戻る。あの領地に。あの屋敷に。名前を一度も呼ばなかった夫のいる場所に。
嫌だ、と思った。嫌だ。もう決めたのだ。もう関わらないと。
でもニルは何も悪くない。あの子は私が来る前からあの水脈にいて、私が去った後も残った。残るしかなかった。土地に縛られた精霊だから。私のように足で歩いて出ていくことができない。
「戻る以外の方法は」
「現時点では確認できていません」
水晶球の中で、ニルの光がまた一段弱くなった。時間がない。
椅子に座った。膝が笑っている。自分でも驚いた。怒りなのか、悲しみなのか、罪悪感なのか。たぶん全部だ。
五年間、あの領地を守ったのは私だ。精霊たちと一緒に。ニルとも毎晩のように話した。水脈の底から送ってくれる子守唄で、何度も眠れない夜を越えた。あの子は家族のようなものだった。精霊に家族という概念があるのかはわからないが、少なくとも私にとっては——唯一、暗闇の中で名前を呼んでくれた存在だった。
ニルの声は他の精霊と少し違う。もっと深くて、もっと古い。何百年もの間、水脈の底で聞き続けた地下水の音が、そのまま声になったような響きだ。あの声が聞こえなくなるのか。
「戻る必要はありません」
アルヴィンさまが言った。今度は声が違った。半音低いのではなく、はっきりと強い。
「あなたが戻る必要はありません。別の方法を探します」
「でも、時間が」
「あります。ニルは数百年生きた精霊です。急激には衰弱しない。完全に力が尽きるまで——最低でも数週間の猶予はある」
数週間。短い。でもゼロではない。
「方法があるのですか」
「理論上は。精霊間ネットワークを使った遠隔の精霊力供給。前例はありません。ですが——」
アルヴィンさまが眼鏡を直した。一回だけ。
「二人でやれば、可能かもしれません」
二人。私とアルヴィンさまで。
水晶球の中で、ニルが微かに震えた。さっきの「さようなら」とは違う震え方だった。何と言っているのだろう。遠すぎて、うまく読み取れない。
窓の外が白み始めていた。夜明けだ。月下百合の光が薄れて、代わりに朝の光が庭に差し込んでくる。
リルが私の裸足の足元に張りついて、冷えた指先を温めてくれた。この子なりの励ましだ。
「……やりましょう」
声が掠れていた。泣いていたわけではない。ただ、喉の奥が乾いていた。
「遠隔で。戻らずに。ニルを助ける方法を」
アルヴィンさまが頷いた。無表情だったが、肩の力が抜けたのがわかった。
この人は——私が「戻る」と言うことを、怖がっていたのだ。
なぜだろう。
水晶球の中のニルを見た。光は弱いが、まだ消えてはいない。消えていない。まだ間に合う。
リルが足元から離れて、水晶球の傍に浮かんだ。ニルに向かって、小さく震えた。精霊の言葉で何か伝えているのだろう。「待って」と言っているのかもしれない。「もう少しだけ」と。
私も同じことを思った。もう少しだけ、待っていて。
その答えは、まだ見えない。




