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夫が私の名前を呼んだのは、今日が最初で最後だった  作者: 秋月 もみじ


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第5話 インクの色が変わる頁


 記録帳の表紙をめくった。最初のページの日付は、私がグランハルトに嫁ぐ半年前だった。


 アルヴィンさまに直接聞いても「もう少し調べてから」と言われる。ならば、自分で調べるしかない。昨日の報告の際、帳面を研究室に置いていった——忘れたのか、意図的なのかはわからない。この人は時々、言葉にしない代わりに物を置いていく癖がある。お茶の砂糖も、外套も、そしてこの帳面も。

 鞄から取り出したわけではない。机の端に、さりげなく置かれていた。私が気づくかどうかを試しているような置き方だった。あるいは、自分から話すのが苦手だから、物に代弁させているのかもしれない。どちらにしても不器用なやり方だ。


 最初の頁。

 鉄インクの黒い文字。几帳面な筆跡。文字の大きさが揃っていて、行間も均一。研究者の書く字だ。


『リンデン伯爵家次女ユリアーナ、グランハルト侯爵家への縁談が成立。王宮精霊局の推薦による。精霊親和力値、歴代最高記録を保持。グランハルト領の精霊密度は王国内第三位。配置の意図は明白。』


 配置。

 私は、配置されたのか。


 頁をめくった。二頁目、三頁目。結婚前の記録が続く。ユリアーナの精霊契約数、精霊親和力の測定値、グランハルト領の精霊分布図。全てアルヴィンさまの筆跡。精霊分布図はかなり精密で、水脈の分岐点まで描き込まれている。この図を描くには、グランハルト領の精霊に直接問い合わせるか、過去の調査記録を入手するしかない。どちらにしても、相当の手間をかけている。

 四頁目で、インクの色が変わった。鉄インクの黒から、精霊銀のインクの青へ。精霊銀のインクは高価だ。通常の研究記録には使わない。公式の精霊契約書にだけ使う特殊なインクで、金貨一枚で小瓶一つ。庶民なら一年は暮らせる額だ。

 切り替わったのは——私がグランハルトに嫁いだ日の頁からだった。


 なぜ、この日からインクを変えたのだろう。何が変わったのだろう。記録の重要度が上がったということか。それとも、この日から、記録が「研究」ではなく別の何かに変わったのか。


 嫁いだ日の記録は短かった。


『ユリアーナ、グランハルト侯爵領に入る。精霊たちの反応良好。水精霊七体、即日契約成立の見込み。——これ以降、本記録は精霊間通信による間接観測に切り替える。直接の接触は困難。』


 精霊間通信。つまり、アルヴィンさまは自分の精霊を通じて、グランハルト領の精霊から情報を受け取っていた。隣国から。六年前に別れてから、五年間ずっと。

 私が精霊と契約するたびに記録し、私が水脈を調整するたびに記録し、私が疲れて眠れない夜にニルが子守唄を送ったことまで——記録していた。


 頁をめくる手が止まった。


 三年目の冬の記録。


『十二月十五日。精霊通信途絶。原因:ユリアーナの精霊力低下。推定要因——過労。グランハルト領の守護精霊との契約更新が三日連続で行われた形跡あり。侯爵からの支援なし。孤立状態。

 ——対処を検討するが、現時点で介入の根拠を持たない。』


 あの冬のことは覚えている。守護精霊のヴォルフが弱って、結界の維持が危うくなった。三日間徹夜して契約を更新し直した。食事も碌に取れなかった。山羊乳のスープだけを啜って、夜明けの庭で震えながら精霊に語りかけ続けた。あの時の地面の冷たさは、今でも足の裏に残っている。

 誰にも助けを求めなかった。求める相手がいなかった。

 でも——見ていた人がいたのだ。隣国から、精霊越しに。


 次の頁。


『十二月十八日。精霊通信回復。ユリアーナの精霊力、正常値に復帰。——今後同様の事態が発生した場合の介入手順を策定する。

 精霊術を教えたのは私だ。彼女がこうなることを予見できなかったとは言わない。』


 最後の一行で、筆跡が乱れていた。それまで定規で引いたように整然としていた文字が、この一行だけ、ほんの少し右に傾いている。力が入りすぎて、羊皮紙の表面が少しだけ毛羽立っている。

 怒っていたのだ。この人は。

 誰に——自分にだ。


「見ましたか」


 振り向くと、研究室の入口にアルヴィンさまが立っていた。いつからいたのだろう。足音がしなかった。紺色の長外套が夕日を受けて暗い紫に見える。


「……見ました」

「どこまで」

「三年目の冬まで」


 アルヴィンさまが部屋に入ってきた。椅子には座らない。窓際に立って、外の月下百合を見ている。横顔に表情はない。でも、声がいつもと違った。半音低い。感情を抑えている時の声だ。


「あなたがグランハルトに嫁ぐことは、私が知る前に決まっていました」

「王宮精霊局の推薦、と書いてありました」

「ええ。精霊密度の高い領地に、精霊親和力の高い術師を配置する。合理的な判断です」

「私は、配置されたのですか」


 アルヴィンさまが眼鏡を直した。


「……そう解釈することもできます」


 言葉を選んでいる。この人が言葉を選ぶのは、相手を傷つけたくない時だ。精霊の話をしている時は選ばない。数値と事実だけを並べる。でも今は違う。

 窓の外から風精霊の羽音が聞こえた。この部屋にいるのは私たち二人と、机の上のリルだけだ。リルは光を弱めて、じっとしている。精霊は空気を読む。


「アルヴィンさま。もう一つだけ」

「はい」

「あなたは——止められなかったのですか」


 アルヴィンさまの肩が動いた。息を吸ったのだ。深く。


「止められませんでした」


 低い声。いつもの平坦な口調が、この一言だけ、剥き出しだった。鎧を外したような声だ。鎧を外したような声だ。


「それ以上は、もう少し調べてからお話しします。確認を取らなければならない相手がいます」


 眼鏡を直した。一回。二回。三回。今日の三回目だ。


 アルヴィンさまが部屋を出ていった後、私は帳面を閉じて机の上に置いた。精霊銀のインクが夕日を反射して、表紙の上で青く光った。

 配置。推薦。精霊密度。合理的な判断。

 私の結婚は、誰かの「合理的な判断」の結果だったのか。


 いや——まだわからない。全容は見えていない。


 ただ、一つだけわかったことがある。

 アルヴィンさまは止められなかったと言った。止めなかったのではなく、止められなかった。

 そしてこの人は、止められなかった代わりに、記録を残した。五年間。精霊銀のインクで。一日も欠かさず。


 それが何を意味するのか——私にはまだ、半分しかわからない。

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