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夫が私の名前を呼んだのは、今日が最初で最後だった  作者: 秋月 もみじ


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第4話 迷子と記録帳


 研究には没頭できるのに、廊下の曲がり角は覚えられない。これは昔からだ。


 大精霊園に来て一週間。精霊の配置図は頭に入った。どの温室にどんな精霊がいて、水路のどこで精霊石の濃度が変わるか。目を閉じても描ける。水精霊のリルは第三温室の水路が気に入ったらしく、毎朝そこで水浴びをしている。土精霊のエルデは精霊園の薬草畑に興味を示して、勝手に土をいじり始めた。花精霊たちは月下百合の群生地で大騒ぎだ。新しい花を見つけると興奮する性質は、どこに行っても変わらない。

 なのに、研究室から食堂までの道を、今日も間違えた。


 三つ目の温室を通過したところで気づいた。この温室、さっきも通った。ガラスの隅に罅が入っている。見覚えがある罅だ。つまり、同じ場所を三度目の周回に入っている。

 精霊の居場所は感覚でわかるのに、人間が作った建物の構造が覚えられない。かつて師匠のもとで修行していた時もそうだった。研究棟から宿舎に帰れなくなって、アルヴィンさまが迎えに来てくれたことが何度かある。


 いや、何度か、ではない。ほぼ毎日だった。


 温室の中に、見たことのない多肉植物があった。葉の縁が紫色に染まっていて、触ると弾力がある。ぷにぷにしている。グランハルトにはなかった品種だ。葉の表面にうっすらと水滴がついていて、指先に冷たい感触が残る。おもしろい。花精霊のフロールなら喜びそうな——。


 で、出口はどこだろう。


「……リル」


 足元の水精霊に助けを求めた。リルはくるりと回って、温室の奥を指し示した。あっちが出口らしい。精霊に道案内を頼む精霊術師は、大陸の歴史を遡っても私くらいだと思う。


 温室を出ると、向こうから見慣れた銀髪が歩いてきた。アルヴィンさまだ。手に何か持っている。パンだ。食堂から持ってきたらしい。


「迷いましたか」

「……少しだけ」

「三つ目の温室を三周していました」

「見ていたのですか」

「精霊が教えてくれました」


 アルヴィンさまが私にパンを差し出した。黒麦のビスケットパンだ。まだ温かい。指先に伝わる熱が、冬の外気で冷えた手に沁みる。


「精霊は居場所がわかるのに、道がわからないのですね」


 少し——ほんの少しだけ、口角が上がっていた。あの頃より柔らかい表情だ。あの頃は、こんな顔をしなかった。していたのかもしれないけれど、あの頃の私には見えていなかったのかもしれない。


「生憎ですが、方角の感覚は精霊に全振りしているので」

「なるほど」


 アルヴィンさまがパンの包みを持ったまま、少し考え込む仕草をした。それから、ぽつりと。


「では精霊に道案内を常駐させましょうか」

「それは……生憎ですが、助かります」


 パンを齧った。ほのかに甘い。蜂蜜が練り込んであるらしい。表面はかりっとしていて、中はほろほろと崩れる。温かい食べ物を手渡されるのは久しぶりだった。グランハルトでは、いつも一人で冷めた食事を取っていた。夫と食卓を共にすることは月に一度あるかないかで、その時も会話はほとんどなかった。



 午後、研究室で精霊の契約記録を整理していると、アルヴィンさまが来訪した。定例の報告書と、もう一通。


「グランハルト領の続報です。庭園に続き、領地の南東部の畑で作物の生育不良が報告されています。土壌の養分が急激に低下しているそうです。加えて、使用人の数名が原因不明の頭痛を訴え始めたと」


 土精霊のエルデたちが去ったから、畑は数ヶ月で痩せる。頭痛は風精霊ツークの不在が原因だろう。瘴気の浄化が止まれば、屋敷の中の空気は少しずつ淀んでいく。目に見えないから、誰も気づかない。


「侯爵閣下の反応は」

「『季節のせいだ』と。男爵令嬢が『奥方のせいではないか』と進言したそうですが、侯爵は一笑に付したとのことです」


 エルザ嬢か。あの人は嫌いだったが、勘は鋭い。庭が枯れ、畑が痩せ、使用人が倒れる。私がいなくなってから始まった。因果関係に気づけるだけ、夫よりは観察力がある。ただ「奥方のせい」という表現は正確ではない。「奥方がいなくなったせい」だ。ニュアンスが違う。


 ……まあ、どうでもいいのだけれど。


 報告書を受け取って机に置いた。ざらついた安い紙だ。グランハルト領の紙は質が落ちている。以前は土精霊が原料の木の繊維を整えていたのだけれど。


 その時、視界の端にアルヴィンさまの鞄がちらりと見えた。革の鞄の口が少し開いていて、中から帳面の角が覗いている。あの帳面。馬車の中で見せてくれた、五年分の記録。

 表紙の革は使い込まれて角が丸くなっていた。毎日のように開いていたのだろう。


「アルヴィンさま」

「はい」

「あの記録帳のこと、もう少し教えていただけますか」


 アルヴィンさまが眼鏡を直した。考える時の癖だ。


「もちろんです。ただ、全てをお話しするには少し——」

「全てでなくて構いません。一つだけ」


 私は鞄の帳面を指さした。


「あの帳面の最初のページ。日付を見ました。私がグランハルトに嫁ぐ半年前です」


 アルヴィンさまの指が、眼鏡のフレームの上で止まった。


「なぜ、結婚前から記録を?」


 沈黙が落ちた。研究室の窓から差し込む夕日が、机の上の精霊石を橙色に染めている。胸元の精霊石のブローチが同じ色に光った。この人からもらったものだ。師弟の最後の日に。「お守りです」とだけ言って渡された。


「それについては……もう少し、調べてからお話しします」


 同じ言葉だ。前にも聞いた。何を調べているのだろう。誰に確認を取っているのだろう。

 アルヴィンさまの声は平坦だったが、眼鏡を直す回数がいつもより多かった。二回。普段は一回で済む。


 部屋を出ていくアルヴィンさまの背中を見送りながら、私は帳面の角が覗いていた方向をしばらく見つめていた。


 六年前の師弟時代。結婚の半年前。あの頃、アルヴィンさまはまだレーヴェン王国に帰る前だった。私の縁談が決まったのは、師匠が帰国する直前。最後の講義の後、何か言いかけて——やめたことがあった気がする。何を言おうとしたのだろう。


 まあ、精霊に人間の事情はわからないだろう。たぶん。きっと。


 黒麦のビスケットパンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。もう冷めていたが、蜂蜜の甘さはまだ舌の上に残っていた。明日もまた迷うのだろう。でも、迎えに来てくれる人がいる。それだけで、この広い精霊園がそれほど怖くない。

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