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夫が私の名前を呼んだのは、今日が最初で最後だった  作者: 秋月 もみじ


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第3話 水が甘い理由


 精霊園の門をくぐった途端、足首に何かが触れた。水精霊だ。

 ただし、リルではない。もっと大きい。子犬くらいの青い光の塊が、門の脇の水路からぬるりと現れて、私の靴を濡らした。


「……こんにちは」


 心の中で挨拶すると、その水精霊は嬉しそうにぶるぶると震えた。初対面の精霊がこんなに懐くのは珍しい。リルが何か吹き込んだのかもしれない。精霊同士のネットワークは、人間が思っている以上に速い。


 レーヴェン王国の大精霊園は、噂には聞いていたが実物を見るのは初めてだった。

 石造りの温室が何棟も並び、その合間を水路が縫っている。水路の底には精霊石が敷き詰められていて、日光を受けると青白く発光する。温室のガラスは曇り一つなく磨かれていて、中では見たこともない植物が——あれは夜光苔だろうか。昼間なのにうっすらと光っている。

 グランハルト領の温室は一棟だけで、しかも雨漏りしていた。比べるのも馬鹿馬鹿しい。


「こちらがあなたの研究室になります」


 アルヴィンさまが立ち止まった場所は、温室群の端にある小さな石造りの建物だった。扉を開けると、磨いたオーク材の机と、壁一面の書架が目に入った。書架にはぎっしりと羊皮紙の束と革綴じの書物が並んでいる。

 インク壺が三つ。それぞれ色が違う。黒、青、金。金のインクは精霊石を溶かした特殊なもので、精霊契約の記録にしか使わない。値段を考えたくない。


「設備は足りないものがあれば言ってください。手配します」

「……十分すぎます」


 正直に言えば、グランハルト領での五年間が嘘のようだった。あちらでは精霊の研究のことを話しても、夫は「そうか」の一言で終わりだった。ここには、精霊と向き合うための場所がある。


 三日後に、レーヴェン王国の第二王子エミール殿下との面会が設けられた。


 殿下は若かった。二十二歳。栗色の髪に緑の目。にこにこしている。王族なのに妙に気さくで、面会の場所が玉座の間ではなく精霊園の東屋だったのも、この人の性格なのだろう。


「ユリアーナ殿、グランハルト領での功績について、詳しく聞かせていただけますか」

「功績、と申しますと」

「アルヴィンから報告は受けています。ただ、ご本人の口から聞きたい」


 アルヴィンさまが殿下の斜め後ろに立っている。いつもの無表情。何を報告したのかは知らないが、殿下がわざわざ時間を取るくらいだから、相当のことを伝えたのだろう。


 私は少し迷った。

 五年間、誰にも言わなかったことだ。言う必要がなかったから——というより、言っても誰も聞いてくれないと思っていたから。


「グランハルト侯爵領の水脈は、七体の水精霊との契約によって維持されていました」


 口に出してみると、意外と声は平坦だった。


「水精霊が地下水脈の流れを調節し、井戸の水位を一定に保ち、農地への灌漑を管理していました。土精霊四体が土壌の養分を循環させ、風精霊三体が瘴気を浄化し、花精霊十一体が薬草園と庭園を管理していました。守護精霊二体が領地の境界に結界を張り、魔獣の侵入を防いでいました」


 エミール殿下の目が少しずつ大きくなっていく。


「それを、あなた一人で?」

「精霊との契約は個人に帰属しますので」

「五年間?」

「ええ。毎朝の巡回と、月に一度の契約更新。季節の変わり目には水脈の調整があるので、三日ほど徹夜することもありました」

「領主はご存じだったのですか」

「いいえ。精霊術師にしか精霊は見えません。私が夜中に庭を歩いているのは『散歩癖』で通っていました」


 殿下が口を開きかけて、閉じた。何か言いたそうだったが、飲み込んだらしい。王族の教育の賜物だろう。


「この領地の水が甘いのは、私のおかげです」


 言ってしまった。

 五年間、一度も口にしなかった言葉。自分の耳で聞いて、少し驚いた。こんなにはっきり言えるとは思わなかった。喉の奥が少し熱い。泣きたいのではない。怒りでもない。ただ、ずっと飲み込んでいたものが、やっと外に出た。

 でも、事実だ。グランハルトの井戸水が甘くて評判だったのは、水精霊のリルたちが水脈の中の不純物を取り除いていたからだ。それ以上でも以下でもない。


 アルヴィンさまの口角が、ほんの少しだけ上がった。

 笑ったのだ。この人が。ほとんど見たことがない。


「……ユリアーナ殿。レーヴェン王国として、あなたの能力を正当に評価いたします」


 殿下がそう言った時、東屋の屋根の上で風精霊が一羽、翼を広げた。この国の精霊は、人間の会話を聞いているらしい。まあ、精霊はどこでも聞いているのだけれど。


 その夜。

 研究室で資料を整理していると、アルヴィンさまが夕刻の報告を持ってきた。レーヴェン王国の定例報告書の他に、もう一通。グランハルト領の状況だ。


「庭園の冬薔薇が全滅したそうです。使用人たちの間で、奥方がいなくなってから庭がおかしいと噂になり始めていると。井戸の水も、以前より味が変わったと言う者がいるようです」


 私は報告書の紙を指先でなぞった。ざらついた安い紙だ。グランハルト領の紙は質が落ちている。以前は土精霊が原料の木の繊維を整えていたのだけれど。


「侯爵は何と?」

「『季節のせいだ』と」


 ……そう。

 まあ、そうだろう。精霊の存在を知らない人には、そう見えるだろう。冬だから花が枯れた。当然の結論だ。

 冬でも咲く薔薇があったことを、不思議に思ったこともなかったのだろう。


「報告は以上です。何かご質問は」

「いえ」

「では、おやすみなさい」


 アルヴィンさまが部屋を出ていく。

 ……ところでこの人、私の研究室の場所をどうやって覚えたのだろう。私なんて三日経ってもまだ食堂から研究室までの道を間違えるのに。この精霊園、どの温室も同じ形をしていて厄介なのだ。


 干し林檎の煮込みの残りを口に運びながら、報告書をもう一度読み返した。甘さが控えめで、これは好きだ。グランハルトでは出なかった味。


 庭が枯れた。次に何が起きるかは、私にはわかる。

 でも、もう私のことではない。


 窓の外で、月下百合が白く光っていた。この花は夜にだけ咲く。精霊園にしか群生しない、珍しい花だ。きれいだった。五年間見られなかったものが、ここにはある。


 リルが机の上でくるくる回った。「ここ、好き」と言っている。


 うん。私も、少し好きかもしれない。この場所が。

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