第2話 砂糖二つ
朝の光は、この屋敷のどこにいても同じように冷たかった。
荷物を抱えて玄関広間を通り抜ける。使用人たちが遠巻きにこちらを見ていた。誰も声をかけてこない。昨晩のうちに「奥方さまが出ていかれる」と知れ渡ったのだろう。噂の伝わる速さだけは、この屋敷の長所だった。
「ユリアーナ様」
一人だけ、駆け寄ってきた人がいる。マルタだ。
五十を過ぎた侍女は、皺の刻まれた手で私の腕を掴んだ。指先がかさついている。冬場はいつもこうだった。私が調合した蜜蝋の塗り薬を、毎晩塗ってあげていたのに——もう渡す人がいなくなる。
「お身体に気をつけて。どうか」
「マルタ、あなたも」
言葉が詰まった。この人の前でだけは、取り繕うのが難しい。
マルタの孫が高熱を出した冬のことを思い出した。領内の医師では手に負えず、私が水精霊のリルと薬草を組み合わせて熱を下げた。あの晩、マルタは私の手を握って「ユリアーナ様は神様です」と言った。
神様ではない。ただの精霊術師だ。でも、この屋敷で「ユリアーナ」と名前を呼び、私の手を握ってくれたのは、結局この人だけだった。
「……薬の作り方は、棚の二段目の羊皮紙に書いてあります。読めなかったら、町の薬師に見せてください」
マルタが頷いた。目が赤い。
私は頷き返して、門を出た。
門を一歩越えた瞬間、背後で何かが変わった。
振り返ってはいない。振り返らなくてもわかる。足の裏から伝わる振動が変わった。土精霊のエルデが地面から離れた感触。続いて、頭上の空気が薄くなる。風精霊のツークが屋敷の上空を離れたのだ。
精霊が去っている。一体、また一体。
この感覚は私にしかわからない。屋敷の中の人々は、ただ「今日は冷えるな」と思うだけだろう。ツークがいなくなれば、瘴気の浄化が止まる。来週あたりから、使用人の何人かが原因不明の頭痛を訴え始めるはずだ。
数歩進んだところで、庭の方角からかすかに甘い匂いが漂ってきた。冬薔薇の——いや、違う。枯れ始めた花の匂いだ。甘さの中に、乾いた苦みが混じっている。
花精霊のフロールが去ったのだろう。
まあ、いいのだけれど。
街道を歩いた。十五分ほど。冬の朝の空気が頬に刺さる。街道沿いの木々は葉を落としきっていて、灰色の枝が空に骨のように伸びていた。
街道脇の草むらに霜が降りている。踏むと、しゃりしゃりと小気味いい音がした。精霊がいない場所の霜は、こんなにも硬い。グランハルト領の中では、土精霊が地表の温度を調節していたから、霜柱ひとつ見たことがなかった。これからは見慣れることになるのだろう。
足元でリルがくるくる回っている。「大丈夫?」と聞いてくるので、「大丈夫」と心で答えた。
街道の曲がり角に、馬車が一台停まっていた。
黒塗りに銀の装飾。レーヴェン王国の紋章が側面に小さく刻まれている。見覚えがある馬車ではないが、見覚えのある紋章だった。
馬車の傍らに、男が立っていた。
銀髪。眼鏡。長身で、背筋がまっすぐに伸びている。紺色の長外套の下にレーヴェン王国の宮廷服が見える。
六年ぶりに見る顔のはずなのに、全然変わっていなかった。
「——アルヴィンさま」
「お久しぶりです」
アルヴィン・エーレンフェスト。レーヴェン王国の宮廷精霊術顧問。そして、私に精霊術の手ほどきをしてくれた元師匠。
私がまだリンデン伯爵家の次女だった頃。父の知人の紹介で、隣国から来た若い精霊術師に師事した。一年間だけの短い師弟関係だったが、私の人生を変えた一年だった。
あの頃のアルヴィンさまは、もう少し表情があった気がする。いや、なかったかもしれない。精霊の話をしている時だけ目が輝くのは、今も昔も変わらない。
「なぜここに」
「迎えに参りました」
抑揚のない声。感情が読めない。昔からそうだった。精霊との対話は得意なのに、人間との会話ではいつも一拍遅れる。
「迎え……?」
「五年分の記録があります」
アルヴィンが外套の内側から、分厚い帳面を取り出した。革の表紙が年月で色褪せている。
「すべて、あなたの功績として」
記録。功績。
言葉の意味を飲み込むのに数秒かかった。
アルヴィンが馬車の扉を開けた。「寒いでしょう。中で話しましょう」と言いながら、先に乗り込んで座席にかけてあった毛布を払い、私が座る場所を作った。
相変わらず、説明より行動が先の人だ。
馬車の中は温かかった。小さな精霊灯が天井から下がっていて、橙色の柔らかい光が座席を照らしている。レーヴェン王国の精霊灯は、こちらのものより明るい。技術の差だろうか。こんなところで国力の違いを実感するとは。
アルヴィンが向かいの座席に座り、鞄から何かを取り出した。茶器だ。小さな携帯用のもの。
精霊灯で湯を沸かし、手際よく茶を淹れ始めた。
「薬草茶でよろしいですか」
「ええ」
差し出されたカップに口をつけた。温かい。喉を通る薬草の苦みと、その奥にある甘み。
——砂糖が二つ入っている。
私は薬草茶に砂糖を二つ入れる。他の人は入れない。六年前の師弟時代に、研究室で何度も茶を淹れてもらったことがある。あの頃から、この人は何も聞かずに砂糖を二つ入れた。
六年。六年経って、まだ覚えている。
「……アルヴィンさま」
「はい」
「この記録のこと、詳しく聞かせてください」
アルヴィンは眼鏡を指先で押し上げた。この人の癖だ。何かを考える時、まず眼鏡を直す。
「レーヴェン王国までの道中で。長い話になります」
馬車が動き出した。
窓の外に、グランハルト領の景色が流れていく。見慣れた平野。冬枯れの畑。遠くに見える屋敷の尖塔。
リルが窓ガラスの内側にぴたりと張りついて、流れる景色を見ていた。精霊が感傷的になることはない。ただ、最後にこの土地を見ておきたかったのかもしれない。精霊にも、慣れた場所というものはある。
アルヴィンさまは向かいの席で帳面をめくっていた。何かを確認しているらしい。指先が頁の端をなぞる動きが規則的で、この人らしいと思った。
私は窓から目を逸らした。
代わりに、向かいの席の分厚い帳面を見た。五年分の記録。
五年間、この人は何を記録していたのだろう。そもそも、なぜ私が今日この場所を通ると知っていたのか。
聞きたいことが多すぎて、どこから手をつけていいのかわからない。
まあ、いいのだけれど。道中は長い。急ぐ理由はもうどこにもない。
砂糖二つの薬草茶が、舌の上でじんわりと甘かった。




