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夫が私の名前を呼んだのは、今日が最初で最後だった  作者: 秋月 もみじ


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12/12

第12話 おはよう


 朝、目を覚ますと、枕元に花精霊が座っていた。昨日摘んだ銀木犀を、花瓶に生けてくれたらしい。小さな蝶の姿で、花弁の上にちょこんと乗っている。

 秋の花なのに冬に咲かせるのは相変わらずだが、最近は文句を言う気もなくなった。好きにすればいい。精霊たちが好きなことをしている朝は、いい朝だ。


 窓を開けると、大精霊園の冬の空気が流れ込んできた。冷たいが、澄んでいる。グランハルトの朝とは違う冷たさだ。あちらは石壁を通して這い上がってくるような冷気だったが、ここの冷たさは高い場所の風の冷たさだ。肺の奥まで入ってきて、目が覚める。


 着替えて部屋を出た。食堂への道は——もう覚えた。三週間かかったが、覚えた。温室の角を右、水路沿いをまっすぐ、二つ目の扉を左。リルが先導してくれなくても歩ける。

 ただし、たまにまだ間違える。昨日も一回間違えた。でも誰にも言っていない。


 食堂に入ると、先客がいた。


「おはよう、ユリアーナ」


 アルヴィンが薬草茶のカップを手に、窓際の席に座っていた。眼鏡の向こうの灰色の目が、私を見ている。

 おはよう、ユリアーナ。

 当たり前のように名前を呼ぶ。毎朝。何の気負いもなく。あの夜の月下百合の庭で二度呼んでから、この人は毎朝私の名前を呼ぶようになった。

 五年間一度も呼ばれなかった名前が、今は毎日聞こえる。それだけのことなのに、毎朝少しだけ肩の力が抜ける。


「おはようございます」


 向かいの席に座った。テーブルの上にはすでに朝食が並んでいる。蜂蜜漬けの胡桃パン。山羊乳の温かいスープ。干し林檎の薄切り。パンの表面がこんがりと焼けていて、蜂蜜の甘い匂いが鼻をくすぐる。

 薬草茶が置いてあった。私の分。砂糖が二つ入っているのは、確認しなくてもわかる。


「今日の予定ですが」


 アルヴィンが帳面を開いた。いつもの几帳面な字で、今日のスケジュールが書いてある。精霊間ネットワークの理論を論文にまとめる作業。ニルとの定期通信。午後は新しい精霊との契約試験。


「忙しいですね」

「あなたの精霊親和力があれば——」


 止まった。自分で気づいたのだ。また精霊親和力の話をしかけた。

 眼鏡を直した。一回。


「あなたとなら、効率的に進められます」


 言い直した。少しはましになった。まだ不器用だが、努力は見える。


 パンを齧った。外側がかりっとして、中に蜂蜜が染みている。ほくほくと温かい。この蜂蜜は花精霊が集めてくれたものだろうか。精霊の集めた蜜は少し甘すぎる。でも、嫌ではない。



 午後、研究室に一通の手紙が届いた。

 グランハルト領からだ。封蝋にグランハルト侯爵家の紋章が押してある。あの紋章を見るのは、離縁状を書いた日以来だ。


 開封した。


 ヴィクトルの字だった。武人らしい、角張った筆跡。


『ユリアーナへ。

 領地の現状を報告する。庭園は壊滅した。畑の収穫量は昨年の三割を下回っている。井戸は水質が悪化し、領民は川の水を沸かして使っている。魔獣が領境に出没し始めた。守護精霊の結界が消えたためだと、ようやく理解した。

 精霊のことを何も知らなかった。君が何をしていたかも。知ろうともしなかった。

 これは言い訳ではない。ただの報告だ。

 領地は私が立て直す。それが領主の責務だ。精霊なしで、やれるだけやる。

 エルザは実家に帰った。社交界での風当たりが強くなり、居場所がなくなった。

 最後に——名前を呼ばなかったことを、今さら詫びても遅いことは承知している。

               グランハルト侯爵 ヴィクトル』


 手紙を読み終えた。

 怒りはなかった。もう、この人に対して怒る気力は残っていない。悲しみもない。ただ——「遅い」と思った。五年前に気づいていれば。いや、一年前でも。半年前でも。


 手紙を畳んで、封筒に戻した。

 机の引き出しにしまった。返事は書かない。書く必要がない。この人の後悔はこの人のもので、私の人生はもう別の場所にある。重なっていた五年間は終わった。


「もう、私のことではない」


 声に出した。一人の研究室で。精霊たちだけが聞いている。

 あの朝、書斎を出た時にも同じことを思った。あの時は少しだけ強がりが混じっていた。でも今は違う。本当に、もう私のことではない。

 リルが足元でくるりと回った。同意の合図だ。



 夕刻、ニルとの定期通信。

 水晶球に手を当てると、精霊間ネットワークを通じてニルの声が届いた。以前よりずっと安定している。弱いが、確かな振動。


「元気?」


 心の中で語りかけた。


 ニルの返事は、感情の塊だった。言葉ではない。温かくて、穏やかで、少しだけ寂しさが混じっている。「元気だよ」と「会いたいよ」が同時に届く。精霊の感情は、人間のように一つずつではない。全部同時に来る。


「私も会いたい。でも、こうして話せるから」


 ニルが微かに震えた。喜びの振動だ。水脈の底で、小さな光が強くなった。


 水晶球から手を離した。

 窓の外を見ると、月下百合が咲き始めていた。夕暮れの薄い光の中で、白い花弁がゆっくりと開いていく。精霊園の精霊たちが百合の周りに集まっている。光の粒が花びらの上を滑っていく。

 きれいだ。五年間、見られなかったものが、ここにはある。見たいものを見て、会いたい精霊と話して、名前を呼んでくれる人がいる。


 研究室の扉が控えめにノックされた。


「夕食の時間です」


 アルヴィンの声。


「今日は干し林檎の煮込みがあるそうです。あなたが好きだと、食堂の者に伝えておきました」


 この人は。言わなくても知っている。精霊からの報告で。「ユリアーナが干し林檎を三つ食べた」。あのニルの報告を、ちゃんと覚えていたのだ。


「……ありがとう。行きます」


 立ち上がって、扉を開けた。アルヴィンが廊下に立っていた。紺色の長外套。銀髪。眼鏡。いつもの姿。


「道は覚えましたか」

「覚えました」

「では、先にどうぞ」


 私が先を歩く。アルヴィンが後ろからついてくる。迷っても正しい方向を教えてくれる人が、後ろにいる。

 廊下の窓から、月下百合の光が差し込んでいた。精霊たちが窓辺で光っている。水精霊が青く、土精霊が琥珀色に、花精霊が蝶の姿で。

 二十八体の精霊と、一人の不器用な研究者と、私。


 食堂への道を、今日は間違えなかった。

 廊下の角を曲がる時、後ろからアルヴィンの小さな声が聞こえた。


「……よかった」


 何がよかったのかは聞かなかった。聞かなくても、わかる気がした。

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