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夫が私の名前を呼んだのは、今日が最初で最後だった  作者: 秋月 もみじ


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第11話 呼んでほしい


 式典の朝、鏡の前で髪を整えていたら、花精霊が銀木犀を一輪、耳の横に飾った。


 秋の花だ。冬のさなかに咲かせるのは、この子たちの得意技だ。グランハルトでもそうだった。何度やめてと言っても、勝手に髪に花を挿す。困った子たちだ。

 でも今日は——まあ、いいのだけれど。式典だし。


 レーヴェン王国がユリアーナ・フォン・リンデンを正式に宮廷精霊術師として迎える式典。大精霊園の大広間で行われる。参列者はエミール殿下をはじめとする王族と、精霊局の幹部たち。小さな式典だが、私にとっては大きい。

 初めて、自分の名前と能力で、正式に迎えられる。「侯爵夫人」でも「奥方」でもない。ユリアーナ・フォン・リンデン。精霊術師。それだけで十分だ。肩書きではなく、自分の力で立っている。


 胸元の精霊石のブローチを留めた。藍色の小さな石。六年前にアルヴィンさまからもらったもの。「お守りです」と言って渡されたブローチ。嫁入りの荷物に忍ばせて、五年間ずっと持っていた。

 今日つけるのは——正直に言えば少し気恥ずかしい。でもつける。これは私の一部だ。


 式典は粛々と進んだ。

 エミール殿下が宣言した。


「ユリアーナ・フォン・リンデン殿。レーヴェン王国は、あなたの精霊術の卓越した能力と、五年間にわたるグランハルト領への貢献に敬意を表し、宮廷精霊術師の位を授与いたします」


 拍手。精霊局の幹部たちの。温かい拍手だった。形式的なものではなく、実感のこもった——この人たちは精霊術師の仕事を知っている。五年間一人で領地を支えることがどれほどのものか、わかっている。

 隣で精霊たちも騒いでいた。リルが私の足元でくるくる回り、エルデが床の精霊石を琥珀色に輝かせ、ツークが大広間の天井近くを旋回している。参列者には見えていないが、私には見える。精霊たちなりの祝福だ。この子たちにとっても、自分たちの契約者が認められることは嬉しいのだろう。


「今後はレーヴェン王国の精霊術の発展と、精霊間ネットワーク技術の実用化に尽力していただきたい」


 精霊間ネットワーク。ニルを救った、あの術式。前例のなかった理論が、これから国の技術になる。私とアルヴィンさまが一緒に作った術が。


「謹んでお受けいたします」


 頭を下げた。銀木犀の花が揺れた。

 立ち上がって参列者を見渡した時、アルヴィンさまと目が合った。大広間の奥、柱の陰に立っていた。拍手はしていない。両手は背中で組んでいる。でも目が——いつもの無表情の奥が、少しだけ潤んでいた。

 眼鏡のレンズが光を反射しているだけかもしれない。でも、そうではないと思いたかった。



 式典が終わった後、一人で精霊園を歩いた。

 道は間違えなかった。今日は不思議と足が迷わない。月下百合の庭に向かっている。この庭が好きだ。夜にだけ咲く花が群生している場所。でも今は冬の夕刻で、百合はまだ閉じている。


 庭の入口に、銀髪の影があった。


 アルヴィンさまが、月下百合の蕾を見つめて立っていた。紺色の長外套。背筋がまっすぐ。この人は立ち姿がきれいだ。いつも思っていたが、口に出したことはない。手に何か持っている。薬草茶のカップが二つ。温かい湯気が冬の空気に白く立ち上っている。一つを黙って差し出された。砂糖は、聞かなくてもわかる。二つだ。


「おめでとうございます」

「ありがとうございます」


 しばらく、二人で黙って蕾を見ていた。

 精霊たちが庭のあちこちで光っている。式典の余韻で興奮しているのか、いつもより光が強い。月下百合の蕾が、薄く——まだ夜ではないのに——光り始めた。精霊力の残響が、花を早く咲かせようとしている。


「アルヴィンさま」

「はい」

「一つ、聞いてもいいですか」


 アルヴィンさまが眼鏡を直した。


「精霊力の全域開放の時に、あなたの記憶を見ました。笑顔の報告に丸い印をつけていたこと。病の日にも記録を書いていたこと。精霊の問いかけに答えなかった夜のこと」


 一つ一つ言葉にすると、重い。でも言わなければ、先に進めない。


「あれは——師弟の記録だったのですか」


 アルヴィンさまの肩が微かに動いた。息を吸ったのだ。


「最初は、そのつもりでした」

「最初は」

「途中から——変わりました。いつからかは、正確にはわかりません。気づいた時にはもう、精霊の報告を待つのが日課になっていました」


 アルヴィンさまが私を見た。眼鏡の奥の目。いつもの素っ気ない灰色ではなく、何か——光が射すような色をしていた。


「あなたの精霊親和力は——」


 始まった。いつもの。能力を褒めようとしている。この人はいつもそうだ。好きだと言いたい時に、精霊親和力の話を始める。


「——いえ」


 止まった。

 アルヴィンさまが自分で止めた。口を閉じて、眼鏡を直して、もう一度口を開いた。


「あなたが、必要です」


 精霊親和力ではなく。精霊術師としてではなく。ユリアーナという人間が。


 月下百合がいっせいに咲いた。まだ夜ではないのに。花弁が開いて、白い光が庭に溢れた。精霊たちが一斉に光度を上げている。祝福しているのだ。花精霊たちが蝶の姿で私たちの頭上を旋回し、水精霊のリルが足元で狂ったように回転している。


 不器用な人だ。六年間かかって、やっと言えた。六年間ずっと「精霊親和力」で誤魔化し続けて、やっと。

 でも——十分だ。十分すぎる。


「アルヴィン、さま」

「はい」

「——名前で呼んでください」


 五年間、呼ばれなかった名前。あの人に呼ばれたのは、離縁状を渡した日の一度だけ。それも遅すぎた。

 でも今は——今は、自分から「呼んでほしい」と言える。


「ユリアーナ」


 アルヴィンさまの声で。アルヴィンの声で。

 静かで、低くて、少しだけ震えていて。でも温かい。結晶の奥の光のような、あの温かさ。


「……ユリアーナ」


 二度呼んだ。

 二度目は、もう震えていなかった。


 月下百合の光に照らされて、アルヴィンの銀髪が白く輝いている。眼鏡のレンズに百合の光が映り込んで、灰色の目が少し青く見えた。

 手の中の薬草茶はもうぬるくなっていた。砂糖二つ分の甘さだけが、舌の上に残っている。六年前から変わらない甘さだ。この人が覚えていてくれた甘さだ。


 花精霊が、もう一輪、銀木犀を私の髪に飾った。

 今度は——やめてとは言わなかった。

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