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夫が私の名前を呼んだのは、今日が最初で最後だった  作者: 秋月 もみじ


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第10話 精霊の声の日記


「お時間をいただけますか」。アルヴィンさまの声は、いつもより半音低かった。


 ニルの救出から三日が経った。精霊間ネットワークは安定稼働を続けていて、ニルの生命力は少しずつ回復している。もう「さようなら」ではなく「おはよう」と言ってくれるようになった。

 研究室にアルヴィンさまが来たのは夕刻だった。手には、あの帳面ではなく、封蝋のついた書簡を二通と、古い書類の束を持っていた。


「確認が取れました。全てをお話しします」


 椅子を勧めたが、アルヴィンさまは立ったままだった。窓際ではなく、机の正面。私と向かい合う形で。逃げない姿勢だ。


「あなたの結婚は、王宮精霊局と、あなたの父君——リンデン伯爵の合意により決定されました」


 書類の一枚目。精霊局の内部文書のようだ。


「グランハルト領は精霊密度が王国内で第三位でしたが、管理する精霊術師がいなかった。精霊が野生のまま放置されており、その力を領地運営に活用できていなかった。精霊局は、精霊親和力の最も高い術師を配置することで、領地の生産力を飛躍的に高められると試算していました」

「……それが、私」

「ええ。あなたの精霊親和力は歴代最高記録です。精霊局にとって、あなたは最高の人材でした」


 人材。配置。試算。私の五年間は、誰かの表計算の上に載っていたということだ。


「父は——知っていたのですね」

「伯爵家の財政は苦しかった。精霊局からの協力金と引き換えに、あなたの縁談を承諾しました」


 協力金。つまり、売られたのだ。私の精霊親和力ごと、丸ごと。

 奥歯の裏側が痺れた。怒りとは少し違う。もっと冷たくて、もっと重い。


「アルヴィンさまは、いつ知ったのですか」

「あなたの縁談が発表される一週間前です。精霊局の知人から、偶然聞きました」


 一週間前。師弟関係の最後の一週間。あの時、アルヴィンさまは何か言いかけて——やめた。あれは。


「止めようとしました」


 アルヴィンさまの声が変わった。平坦な報告口調ではなかった。あの、精霊力の全域開放の時に聞いた——剥き出しの声だ。


「精霊局に掛け合いました。リンデン伯爵にも書簡を送りました。『彼女の意思を確認したのか』と。返答は——」


 二通目の書簡を開いた。王宮精霊局の印が押してある。


「『精霊術師の配置は国策であり、個人の意思を優先する事案ではない』」


 沈黙。

 精霊灯の炎が揺れた。風精霊が動いたのではない。私が息を吐いたからだ。長い、長い息だった。


「止められなかった。だから——」

「記録を残しました。あなたの五年間の全てを、公式に証明できる形で。精霊銀のインクは公文書と同等の法的効力を持ちます。いつかあなたが離縁を選んだ時、功績を証明する武器になるように」


 精霊銀のインク。金貨一枚の小瓶。五年分。どれだけの金額になるのだろう。計算したくない。


「そしてもう一つ」


 アルヴィンさまが帳面を取り出した。あの帳面。精霊銀のインクで書かれた五年分の記録帳。


「これは公式記録です。ですが、もう一冊あります」


 もう一冊。

 アルヴィンさまが鞄から、もう一冊の帳面を取り出した。こちらは表紙が擦り切れていて、角が丸くなっている。もっと頻繁に開かれていた帳面だ。


 開いた。


 中身は——精霊たちの声だった。


『ユリアーナが今日も水脈を護った。三時間。疲れている様子。でも笑っていた』

『ユリアーナが庭で花精霊と話していた。嬉しそうだった。花精霊も嬉しそうだった』

『ユリアーナが泣いた。理由はわからない。夫の書斎から出てきた後だった』

『ユリアーナが眠れない。ニルが子守唄を送った。少しして、寝息が聞こえた』

『ユリアーナが干し林檎を三つ食べた。美味しそうだった』


 精霊が報告し、アルヴィンさまが書き取った。五年間の日記。

 公式記録ではない。法的効力はない。ただの——ただの、日記だ。


 頁をめくった。どの頁にも精霊の声が並んでいる。ユリアーナが笑った。ユリアーナが怒った。ユリアーナが疲れた。ユリアーナが頑張った。ユリアーナが、ユリアーナが、ユリアーナが——。


 名前。

 五年間呼ばれなかった私の名前が、この帳面の中では毎日呼ばれていた。精霊たちが呼び、アルヴィンさまが書き留めた。一日も欠かさず。五年間。千八百日以上。雨の日も、雪の日も、アルヴィンさま自身が病に伏せた日も——ところどころ筆跡が乱れている頁がある。熱を出しながら書いたのだろう。それでも書いた。


 帳面を持つ手が震えた。文字が滲んだ。滲んだのは——インクではなく、私の視界のほうだった。


「……なぜ」


 声が出ない。出ないのに、口は動いている。


「なぜ、ここまで」

「精霊術を教えたのは私です」


 アルヴィンさまの声も震えていた。


「あなたを守る手段を持たせたかった。精霊がいれば、一人でも生きていける。そう思って術を教えました。でも——一人で生きていけることと、一人で生きるべきことは、違う」


 六年前。師弟の最後の日。アルヴィンさまが言いかけて、やめた言葉。あの時は何も言えなかった。国策に一介の精霊術師が逆らう手段がなかった。だから、記録を残した。武器を準備した。迎えに行く日のために。


「あなたは六年間、私を待っていたんですか」


 聞いた。聞かずにはいられなかった。


 アルヴィンさまは眼鏡を直した。一回。答えなかった。

 でも眼鏡を直す手が、震えていた。それが全ての答えだった。


 同時刻——グランハルト領にて。

 王宮精霊術顧問アルヴィン・エーレンフェストの名で、公式回答書がグランハルト侯爵と王宮に届いた。


『グランハルト侯爵領における精霊契約は、全てユリアーナ・フォン・リンデン個人との契約であり、領地に帰属するものではない。当該精霊の恩恵——水脈管理、土壌維持、気候調整、魔獣防衛——は全て同人の功績である。』


 公式文書。精霊銀のインク。王宮の印。覆しようのない事実。


 グランハルト領の「自然の恵み」が、一人の女性の五年間の仕事だったことが、社交界に知れ渡るのは時間の問題だった。

 「精霊術師の妻を追い出した愚かな侯爵」。その言葉が囁かれ始める頃、ヴィクトルはようやく理解するだろう。「奥方」と呼び続けた女が、何をしていたのかを。

 遅い。何もかも、遅すぎる。でも私はもう、あの場所にはいない。

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