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夫が私の名前を呼んだのは、今日が最初で最後だった  作者: 秋月 もみじ


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第1話 名前


「——ユリアーナ」


 私の名前。

 この屋敷で初めて聞いた。五年住んで、初めて。


 離縁状を差し出した手は震えていなかった。震えるほどの期待を、もうこの人に持っていなかったから。

 書斎の重い樫の机を挟んで、夫——グランハルト侯爵ヴィクトルが、手にした紙をじっと見つめている。蝋で封をした羊皮紙。なかなか上等なものを使ってしまった。もったいなかったかもしれない。


 まあ、いいのだけれど。最後くらい。


「……本気か」

「ええ」

「理由を聞いても?」

「白い結婚の成立要件は満たしております。三年以上の無子婚による妻側の申請。手続きは昨日、王都の法務官に確認いたしました」


 ヴィクトルの眉が動いた。怒りではない。困惑だ。この人はいつもそうだった。私が何かを申し出るたび、まるで書棚の後ろから聞いたことのない言語の本が落ちてきたような顔をする。

 困惑して、少し考えて、それから興味を失う。いつもの順番。


「考え直す気は」

「ございません」


 短い沈黙。

 暖炉の薪が小さく爆ぜた。この書斎は冬になると底冷えがする。石の壁が外気を通すせいだ。精霊がいなければ、もっと寒かっただろう。土精霊のエルデが、五年間ずっと石壁の隙間を塞いでくれていたことを、この人は知らない。


「——そうか」


 それだけだった。引き止める言葉もなかった。

 まあ、そうだろう。五年間、私の名前すら呼ばなかった人が、突然「行かないでくれ」と言うはずがない。


 五年間、この人は私を「奥方」と呼んだ。

 晩餐の席で「奥方、塩を」。社交の場で「奥方を紹介しよう」。使用人への指示で「奥方の部屋に花を」。

 一度も、名前を呼ばなかった。


 最初の一年は気にしなかった。政略結婚とはそういうものだと思った。

 二年目に、少しだけ寂しくなった。侍女のマルタは毎朝「ユリアーナ様」と呼んでくれるのに。

 三年目に、諦めた。

 四年目には、もう数えるのをやめた。


 代わりに数えていたのは、この領地の精霊の数だ。


 水精霊が七体。土精霊が四体。風精霊が三体。花精霊が十一体。守護精霊が二体。それから、水脈の最深部に棲む古い精霊が一体——ニル。

 全部で二十八。全員と契約している。全員の名前を覚えている。

 夫の誕生日は覚えていないのに。生憎ですが、興味がなかったので。


 精霊たちは私の名前を呼んでくれた。声ではない。胸の奥がふわりと温くなる、あの感覚。水精霊のリルが朝一番に挨拶をくれて、夜は守護精霊のヴォルフが「今日も異常なし」と報告してくれる。

 眠れない夜には、ニルが水脈の奥底から微かな振動を送ってくれた。子守唄のようだった。地下水の流れる音が、枕の下からかすかに聞こえる。それだけで安心して目を閉じられた。


 夫より、精霊たちのほうがずっと私を見ていた。


「ユリアーナ」


 また呼んだ。二度目。

 書斎を出ようとした私の背中に、その名前が当たった。今さら何を、と思ったけれど、足は止まらなかった。


「受理をお願いします」


 それだけ言って、廊下に出た。

 振り返らなかった。振り返ったところで、あの人の目に映るのは「なぜか離縁を言い出した奇妙な妻」でしかない。精霊のことも、水脈のことも、夜中にこっそり庭を歩いて花精霊と契約を更新していたことも。全部、「奥方の散歩癖」で片付けられていた。

 エルザ嬢が侍女を通じて「奥方さまは夜中に庭で独り言を……」と噂を流していたのは知っている。知った上で、放っておいた。否定したところで信じてもらえない相手に、言葉を費やす気力はとうに枯れていた。


 廊下に出た途端、足首に何かが触れた。

 見下ろす。青白い光——水精霊のリルだ。小さな光の球体が、私の足元でくるくると回っている。嬉しそうに。


 次に、膝のあたりに琥珀色の温もり。土精霊のエルデ。

 肩には透明な羽ばたき。風精霊のツーク。


 気がつけば、廊下の薄暗がりに光が満ちていた。精霊たちが集まってきている。一体、二体、五体、十体——壁の隅から、天井の梁から、窓枠の隙間から。

 花精霊たちが蝶の姿で私の頭上を旋回し、守護精霊のヴォルフが銀色の狼の姿で静かに廊下の端に座った。


「……わかっているの」


 声に出した。精霊に声は要らない。でも、言いたかった。


「一緒に行くよ。一緒に帰りましょう」


 リルが私の手のひらの上でくるりと一回転した。承諾の合図。

 廊下の窓から、庭の冬薔薇が見えた。深紅の花弁がまだ夜露に濡れている。朝の光がそこだけ切り取ったように差し込んでいて、きれいだった。この庭を一番最初に世話してくれたのは、花精霊のフロールだ。あの子が冬でも薔薇を咲かせ続けてくれた。


 明日には枯れるだろう。私がいなくなれば、花精霊たちも一緒に去る。この庭を世話する者はいなくなる。


 まあ、いいのだけれど。

 もう、私のことではない。


 自室に戻ると、荷造りを始めた。

 大した荷物はない。五年も住んだのに、自分のものと呼べるものがこれだけかと思うと少し可笑しかった。着替えが数着と、精霊観測用の水晶球。銀のインク壺と羊皮紙の束——五年分の精霊契約の記録。

 それから、一つだけ。胸元の精霊石のブローチ。藍色に澄んだ小さな石で、ずっと昔に師匠からもらったものだ。嫁入りの荷物に紛れ込ませて、ここまで持ってきた。夫には一度も聞かれなかった。妻の装身具に興味がないのだから当然だけれど。

 これだけは持っていく。


 精霊たちが手伝ってくれた。風精霊が衣類を畳み、土精霊が木箱の蓋を押さえ、花精霊が——これは手伝いではないのだけれど——私の髪に小さな銀木犀の花を一輪、飾った。

 秋はとうに過ぎたのに。この子たちは季節を無視する。


 鏡を見た。二十五歳。五年前にこの屋敷に来た時より、少しだけ頬がこけている。でも目は生きていた。精霊たちの光を映して、瞳の奥がほんのり青く光っている。


 木箱の蓋を閉めた。手のひらに樫の木の硬い感触が残る。

 窓の外で、冬薔薇の花弁が一枚、音もなく落ちた。


 ——足元で、ニルが震えた。水脈の底から、微かな振動。「気をつけて」と言っている。


 大丈夫。大丈夫よ、ニル。

 あなたのことだけが、少し心配だけれど。


 花弁がもう一枚、落ちた。

 書斎の方から、何か重いものが机に置かれる音がした。離縁状を置いたのだろう。受理したのか、しなかったのか。

 どちらでもよかった。もう決めたのだから。

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