マルグレーテの帰還
魔神の残骸である大量のバッタたちが打ち払われ、あるいは去った後。
戦場となっていた広場の一角に、仰向けに倒れるマルグレーテの姿があった。
*
「姉さん!!」
糸の切れた操り人形のように地面に横たわっているマルグレーテを見て、アイリスは駆け出す。二、三歩駆け出したところで、アイリスの脚がもつれる。
「ぐッ!!」
全身をバラバラにされたような痛みがアイリスを襲う。体の中に、文字通りいくつもの切断面が出来ているような、骨まで沁みる激痛。
反射的に全身がこわばり、頭の中が真っ白になる。視界までもが白く染まり、よろけて倒れそうになる。
つまずきながらも、アイリスは姉のもとに駆け寄った。
マルグレーテの顔色は白く、血の気がなかったが、人間らしい皮膚の色になっている。
わずかに開いた口からは、魔神が取り憑いていた時のような牙は見られず、また耳の先も尖っていない。暗黒の魔力で変化していた服も元に戻っていた。
アイリスはひざまずき、姉を抱き起す。
「姉さん、姉さん、大丈夫? しっかりして」
マルグレーテの体は完全に力が抜け、頭がかくんかくんと揺れる。
後ろから追いついたコウは、あくまで用心しながら二人に近づく。
「…………」
マルグレーテは目を開く。アイリスとコウは思わず息を呑む。
*
アイリスの腕の中で、マルグレーテは目を開いた。
コウはマルグレーテを見下ろす。
(……これがアイリスの姉、占い師マルグレーテ。数々の新魔法を片手間に生み出し、召喚魔法の制限を取っ払った――)
瞳の色は菫色で、アイリスの琥珀色の瞳とは姉妹で色が違うようだ。
アイリスと同じブロンドの髪かと思っていたが、あらためて見るとマルグレーテは銀髪、いや真っ白に近い。
目を覚ましたマルグレーテは、無表情だったが、魔神が取り憑いていた時のような動物的な不気味さは無くなっている。落ち着いた表情の中に、理性と知性の光が見える。
暗黒の力も感じられない。本当に、魔神は去ったと見ていいらしい。
どうやら魔神の軛を逃れたマルグレーテが、アイリスを見て口を開く。
「……アイリス」
「姉さん、姉さんだ。よかった、無事だったんだ」
涙声で、アイリスは姉を抱きしめる。マルグレーテはそのまま空を見上げていたが、
「そっちの君は、コウ君」
「僕がわかるのか」
アイリスが身を起こし、マルグレーテを見る。マルグレーテはうなずく。
*
コウは姉妹の傍らにひざまずいた。マルグレーテはコウを見る。
「君のことは、妹を通して見ていた」
「私を通して?」
「そう。私たち姉妹の間に存在する、わずかな繋がり。アイリスの魂がギルドの網に組み込まれていることも、アイリスを探すことの手助けになった」
「アイリスがギルドマスター資格を得たせいか」
「そう。世界を覆い尽くす魔力の網、それはこの星の霊的な記録保持の系にも繋がっている」
「……つまりマルグレーテ、君はアイリスの足跡をたどってここまで来たわけだな」
マルグレーテはうなずき、空に視線を向ける。
「ロクストゥスにこの体の主導権を奪われた後、私の意識は現界と魔界を行き来しながら彷徨っていた。アイリスもあのダンジョンに再度潜って調査をしたり、黒幕の存在を感じて、それを追ったりしていたよね」
「姉さん、知ってたの。見てたの」
「うん。断片的にだけど」
アイリスはマルグレーテの手を握った。
マルグレーテの手からは、わずかに魔力が塵のように拡散している。コウはそれを見て眉を顰める。
「黒幕というのは……いや、それは後で改めてアイリスに訊こう。この村にゴーレムが出たのも、君の……いやロクストゥスの仕業か」
マルグレーテはうなずく。
「ロクストゥスはこの体を乗っ取り、力を奪い取ろうとした。私はそれに抵抗したけど、記憶の一部やいくつかの魔法は奪われた」
「それで、金属製の巨人や黒いドラゴンの形をしたものが召喚された」
「……あの時、私の肉体は境界線上にあり、魔神は現界に移動しきれていなかった。制限された力と環境の中で、あいつはアイリスを狙って、私の体で出来る最悪の方法を取り続けた。現界の古い記憶を頼りに、あいつが私の召喚魔法を使ってアイリスにけしかけたのが、あの魔物たち」
「古い記憶」
うなずくマルグレーテを見て、コウは先に戦ったゴーレムとドラゴンのことを思い出す。
*
ドラゴンは「竜の顎」と呼ばれる洞穴に棲んでいた。
あの洞穴は生命の気配がなく、盗賊すら塒にしない、呪われた地とでも言いたくなる場所だった。たしかに、あのようなバケモノがかつて棲んでいたとしたら、長年にわたってその地が呪われ、生物が棲みつかなくなるのもわかる。
ゴーレムはどうだ。まるで空から降ってきたかのように現れた。
ということは、かつて空からゴーレムが降ってくるような出来事が、この地にも起こっていたことになる。
天空の超文明――
伝説上のことだ、とコウはかぶりを振る。
*
「……私は、魔神とやり合うことを予知して、魔法の知識と記憶の一部をその長杖に移しておいた」
コウとアイリスは目を瞠り、顔を見合わせる。
「この長杖にか」
「そう。コウ君、君が『グレートヒェン』って名付けてくれたよね」
「姉さんは、あのダンジョンでの結末が見えていたってこと!?」
アイリスの問いに、マルグレーテは妹を見上げてうなずく。
「どうして、どうして言ってくれなかったの」
「一度見た未来は決して変えられない。それが私の能力の定め」
「でも、あんなことになったんだよ!? 言うべきじゃない!」
「言ったら、アイリスは私を止めようとするでしょう?」
マルグレーテはそれがいけないことだとでも言わんばかりの口ぶりで言う。
「運命を変えることは、世界のすべてに大きな影響を及ぼす。現界だけじゃない、精霊界や魔界、神々の世界、異次元、異世界まで含んだすべてにね。その場合、変えた結果の帳尻を合わせるような力が働く」
「どういうこと!?」
叫ぶアイリスに、コウが補足する。
「つまり、誰かが助かった場合、別の誰かが助からなくなる。そういうことか」
「そう。察しがいいねコウ君」
どこかで聞いたフレーズだ。
たしかアイリスも言っていたか、とコウは思い出す。
「じゃあ姉さん、未来なんか見なきゃよかったじゃない!」
マルグレーテは目をつぶり、首を横に振った。
「私の能力はそんなに便利じゃなくてね。時として勝手に未来を見せてくる。今回もそれ」
「…………ッ」
「しかも、未来を知っている者が未来を変えた場合、さらに残酷な結果が降りかかることとなる」
「そんな……」
目を開け、マルグレーテは空を見た。
「それに、どのみち結末は変えられなかった。あの瞬間、私たちパーティーが――少なくとも私があの場所にいるのは決定していた。私の目の前に閃いた予知は、私が魔神とともに魔界に呑み込まれる場面だけ。そこに至るまでの悲劇は、なんとしても阻止しなければならない」
「……だから君は、魔神に何もかも奪われることを防ぐために、杖に記憶を移して戦いに向かった」
「そう。もし《悪魔召喚》などを奪われたらとんでもないことになるからね」
そう言って、マルグレーテはため息をつく。
「でも結局、アイリスしか助けられなかったけど」
*
「長杖を」
そう言われて、コウはマルグレーテに長杖――グレートヒェンを差し出す。
マルグレーテは長杖に触れ、しばし目を閉じる。双方の輪郭が光り輝き、魔力の交流が行われる。
「……ありがとう。とりあえず知識と記憶を取り戻すことができた」
「姉さん、よかった……これで、これで元通りだね」
「いや……そうはいかない」
マルグレーテはアイリスの肩に手をかけ、ふらつきながら立ち上がる。
その手から、いや体から発散される、霧のような魔力の粒子は、先ほどまでよりもさらに濃く発散されている。
「えっ……?」
「私は長く魔界にい過ぎた。もう現界では暮らせない」
目を細め、笑みのような表情をつくるマルグレーテ。輪郭はぼんやりと光り、周囲との境目が見えづらくなっている。体全体の色が薄れていく。
「そんな……どういうことなの。魔神から、体を取り戻したし、杖に移していた記憶も戻ったんでしょ?」
「言葉通りだよ。この体は魔界に馴染みすぎた。魔界の瘴気の中で生きていくためにやむなく順応したせいで、もはや私は現界の生き物ではない」
「……ッッ!!」
アイリスは体をこわばらせ、絶句する。彼女自身に自覚のないまま、涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「そんな……!!」
「悲しまないで、アイリス。あなたは私を助けた。私は助かったんだよ、アイリス。死ぬわけじゃない」
「でも……でも、こんなのもう二度と会えないってことじゃない」
「そう、もう二度と会えない」
「姉さん!!」
アイリスは涙声で叫び、姉に縋りついた。
妹の願いが届くこともなく、マルグレーテの体は霧のような魔力の粒子と化し、宙に霧散していく。
泣きじゃくるアイリスをなだめるように頭を撫で、マルグレーテはコウを見やる。
「ありがとう、コウ君。妹に再び会えたのは、君のおかげだ」
「いや、」
コウは一瞬言葉に詰まるが、
「……こちらこそ。あいつを斃せたのは君のおかげだ」
マルグレーテはふっと笑った。
「すべては運命だよ」
運命か、とコウは思う。
果たしてそれは、定命の味方なのだろうか?
運命は気まぐれに人々をもてあそび、残酷な結末をもたらす。『忌々しき阿婆擦れ女』と憎々しげに呼ぶ者もいるくらいだ。
運命などといったようなものが定命をもてあそんでいるなら、我々はいったいどうすればいい?
*
コウは長杖――グレートヒェンをマルグレーテに差し出す。マルグレーテは手を挙げ、かぶりを振る。
「それは現界に残しておく。今、私の知識をあらためて全部転写しておいた」
「そんなことができるのか」
驚いて、コウは長杖を見やる。
「私はこっちでいい」
マルグレーテは妹に抱きつかれたまま片手を伸ばす。すると、少し離れたところに転がっていた、魔神が使っていた予備の杖が地面から浮き上がり、マルグレーテの手に収まる。
「アイリス、」
マルグレーテは妹をやんわりと引き離す。アイリスの顔は涙でぐしゃぐちゃになっている。
「泣かないで。大丈夫、私は死ぬわけじゃない」
「……ッ、でも、魔界へ行ったとして、どうするの?」
アイリスは鼻声で訊ねる。マルグレーテはふっと笑った。
「魔界には、人間界から移動した人々の集まりがある。そこを目指す」
「人間界から」
「そう。魔界に順応して、魔物にも魔人にもなれなかった、魔界人たちが住む場所がね」
「……君の実力なら、きっと現界に戻れる魔法なり手筈なりを見つけられると思う」
「ありがとう、コウ君」
マルグレーテはアイリスを押し離す。体はすっかり薄くなり、背後の景色が透けて見えるほどになっている。
「さよなら、アイリス。最後にちゃんと話せてよかった」
その言葉を最後に、アイリスが止める間もなく、マルグレーテの体は魔力の粒子として拡散していく。
わずかな魔力の痕跡と、慈愛に満ちた笑みを残して、マルグレーテは現界から姿を消した。
*
ちゃりん、と金属製の軽い何かが地面に落ちる音がする。
マルグレーテのいた場所に、冒険者タグが一個落ちている。
「姉さん……」
すっかり薄暗くなった薄暮の空気の中、マルグレーテの冒険者タグを拾い、アイリスは膝立ちのまま俯いて、持ち主のいなくなったタグを握りしめている。
コウは長杖を手に、傍らでそれを見守り続けた。




