禁呪と長杖
通常、魔神ロクストゥスのような、Sランクを大きく上回る、神々とすら称されるほどの闇の魔物が現界に顕現した場合、それだけで現界はただではすまない。
まず地形に大きな変動が起こる。地震や竜巻等の自然災害が発生し、それが町や村だった場合は瞬時に壊滅する。
そこの住人たちも全員、一瞬にして絶命し、生命エネルギーが召喚された魔物へと流れ込む。
悪魔タイプが現出した時の常ではあるが、周囲の広い範囲にわたって、ありとあらゆる悪意や狂気が蔓延する。
人々は憎悪に駆られ、理由なく殺し合い、定命同士が相食む地獄が現出する。そしてそれが国家に拡がり、大陸全土にまで影響を及ぼす。
長期的には、政治は腐敗し民衆は堕落し、神に変わって悪魔が信じられるようになる。
良いものは悪く、悪いものが良いとされるようになる。女性や子供たち、弱者、少数派が犠牲になり、強き者は肥え太り、多数派がそれを称賛する。ありとあらゆる、考えられるすべての悪が実現する。
そして世界には破壊と混沌が渦巻き、最終的に滅亡へと至る。
*
通常はそうなるはずだ。しかし、何も起こらない。
魔神の本体がこの世に顕現しているにもかかわらず、天災は生じず、コウもアイリスも絶命していない。
(これが……マルグレーテ・ツヴァイテンバウム――『天衣無縫』グレートヒェンの生み出した数々の禁呪のうちのひとつ、《悪魔召喚》)
コウは全身が総毛立つのを抑えられなかった。いま、自分が行った悪魔召喚を見ても、目の前の光景が現実であるとは信じられない。
(こんなむき出しの形で、悪魔タイプを現界に喚び出すとは……)
* * *
召喚士……いや、占い師にして魔道士だったマルグレーテは、その天賦の才により、いくつものオリジナル魔法を、冒険と占い業の片手間に生み出していた。
ある時、彼女が興味を持ったのは召喚術。魔界を筆頭にさまざまな異界――冥界や精霊界、異次元や異世界、果ては天上界から、条件つきでかの地の住人を喚び出す魔法。
その対象が強大であればあるほど代償は重くなり、また現界への負担も大きくなる。
だがマルグレーテは思った――
「どうして代償が必要なんだろう。だって、召喚というものは、あるものをある場所から別の場所へと移すだけじゃない?」
そして彼女は、さまざまな召喚魔法の術式を解析し、それらに絡んだ先入観や臆見、恐怖や畏怖、信仰などを取り除いていった。
ある魔法には「悪魔は恐ろしい代償を必要とする」という怖れがあった。
別の魔法には「神は慈悲深いが、時として怒りを発する」という信仰があった。
異世界人を召喚する魔法には「異世界人は独特の価値観を持っており、彼らは思いもよらぬ方法で現界を乱す」という先入観があった。
それらの思いなしは魔法を行使する際、対象に働きかけ、対象そのものの性格や性質を決定する。
つまり、召喚される者は召喚する者の意思を反映する――
それが、マルグレーテが数多の召喚魔法を解析して導き出した結論だった。
召喚魔法を作りし古の魔道士たちは、術式自体にそれらの先入観、思い込みや恐怖、畏怖、信仰などを生贄や祭壇の必要性として組み込んでいた。
彼女はそれを一つ一つ取り除いた。既存の術式を組み替え、多くの行を削除し、また書き加え、何の代償も必要とせず、現界への影響も及ぼさず、魔力と術式のみで召喚する魔法を作り上げた。
その中の一つ、魔界から悪魔タイプを召喚することに特化させたのが《悪魔召喚》だった。
*
完成した後、マルグレーテはすぐに冒険者ギルドと魔法協会に届け出た。
すでに開発者として名を知られていたマルグレーテだったが、その新召喚魔法、とくに《悪魔召喚》の危険性は、すぐに魔法協会に知れ渡ることとなった。
「こんなものを世に出してはならない」
「これを使いこなせる人類はいない。感情の欠落している古代種エルフか、あるいは機械化人間でもなければ無理だ」
かくして新召喚魔法は軒並み禁呪とされ、とくに《悪魔召喚》は最上位クラスの封印を施されることとなった。
そして噂が独り歩きして尾ひれがつき、それまでも知る人ぞ知る存在であったマルグレーテは、好奇心と畏怖と野次馬根性から、主に魔道士たちの間で、ある二つ名で呼ばれることとなった。
召喚士マルグレーテと。
*
マルグレーテの新魔法には新たなデメリットが生じていた。
召喚される者は召喚する者の意思を反映する――
その性質は、新魔法においても何ひとつ変わっていなかったのだ。
《悪魔召喚》は生贄や代償、現世への影響を術式から取り去った代わりに、術者の先入観が直接影響するようになっている。
通常の召喚魔法は、召喚に際する生贄や代償が、術式自体にあらかじめ組み込まれている。それにより、術者の精神性や心理状態、思想信条、信仰の対象、その時々の個人的な感情に左右されず、手順を踏めば同じように召喚できるようになっている。
《悪魔召喚》にはそれが無い。
つまり、術者が恐れているならばより恐ろしい存在として、術者が破滅を願っているならばより破壊的な存在として、対象を召喚することになる。
もちろん、召喚される者のもともとの能力というものがあるため、「魔鼠を召喚しようとしたら大魔王が出てきた」などといったようなことは起こらない。
だが今回のように、魔神を召喚するなどといった場合は話が別だ。定命の負の感情を喰らう魔神は、とりわけ召喚者の意思や感情の影響を強く受け、より禍々しい形で現界に現れる。
それだけではない。
術者が召喚の代償として何かを失うことを恐れている場合、《悪魔召喚》はその恐れをも現実化する。
本来ならば動物を捧げることで支払われていた代償が、術者の最も愛する者を奪いかねない。
マルグレーテは召喚魔法から安全弁を取り払ったのだ。
魔神や破壊神などと呼ばれる、暗黒の世界に住まうほとんど神に等しい存在を喚び出す際は、非現実的な生贄を要求されることが多い。それは召喚魔法に要求される代償を肩代わりするものだ。
《悪魔召喚》にはそれがない。いわば術者が自己責任で悪魔を喚び出す魔法――
* * *
(そこで、長杖による召喚か……)
コウは長杖から手を離す。長杖はコウの手を離れた後も、地面からほんのわずかに浮いて直立し、召喚陣との間に魔力のやり取りをしている。
先ほど、戦いのさ中に行われた長杖との会話を、コウは思い出す――
* * *
――魔神の本体を現世に引きずり出すだとッ!?
長杖が《念話》で語りかけてきた内容に、コウは思わず叫びそうになる。
――あり得ない。それだけは絶対にできない。そんなことをしたら世界は文字通り滅ぶ。
――普通はそう。でも、今はそんなことにならないし、それしか選択肢がない。
――なぜだ? 理由を言え。
一瞬の空白の後、長杖は《念話》で語り出す。
――……魔神ロクストゥスの意識は、ほぼすべてが現界に、あのマルグレーテの体に移動している。魔界に存在する本体は抜け殻。
――たとえそうだとしても、現界に喚び出した本体に意識が移動したらどうする?
――魔神の意識は、あの体に縛り付けられている。それはない。
――……しかし、僕は召喚魔法は使えない。それに属性も違う。僕の信仰はどちらかといえばフィレオン側に傾いている。最近は微妙だが。
――…………
――君が提示した禁呪《悪魔召喚》。術式を見たが、たしかに恐るべき魔法だ。だが、あの術式は危険だ。召喚魔法が生贄や祭壇を必要とするのは、召喚の代償をあらかじめ固定するためだ。もしその設定が無い場合、とくに悪魔なんてものを召喚した日には、術者の最も恐れるものが代償として要求される。
――心配ない。
――何故だ!?
――私が召喚する。
コウは目を見開いた。
*
――君がだと?
――そう。私が禁呪《悪魔召喚》を詠唱・行使する。私には感情がない。喜びや悲しみもなければ、恐れも苛立ちもない。大事なものもないから何も奪われない。私は禁呪《悪魔召喚》のデメリットを受けることがない。
コウはあらためて、自分が握りしめている長杖を見る。
古い樹で作られた、先端のねじれた、いかにも魔法使いの杖といった風情の長杖。冒険譚の賢者が持っていそうな形をしている。
――君は、君はいったい何だ?
――私はこの長杖に宿った疑似人格。マルグレーテ・ツヴィテンバウムが、自身の人格をもとに構成した。
――君は、マルグレーテの……
――でも、これだけの召喚魔法を行使するには名前が必要。魔神と呼ばれるほどのものを召喚するのだから、大魔法になる。私は私の名において大魔法を行使しなければならない。
――名前は無いのか?
――ない。だから、あなたがつけて。
名前、とコウは思う。
この長杖は、アイリスの姉、マルグレーテ・ツヴァイテンバウムの第一の杖。
そして、マルグレーテの別名は……
*
――君の名は……
――私の名は、
――グレートヒェン。君はグレートヒェンだ。
*
――グレートヒェン。私の名はグレートヒェン。
長杖に流入する魔力が増し、組み込まれた疑似人格の構造が変化していく。
――感謝する、コルネリウス・イネンフルス。これで私は、私の持つ力のすべてを使うことができる。
――できるのか!?
「然り」、という手ごたえが、長杖を通して《念話》で伝わってくる。
――コルネリウス、私が《悪魔召喚》を行使する。その後のことは、あなたたちのやるべきこと。




