魔神ロクストゥス その⑧
(これは……おれだ)
召喚士マルグレーテの肉体に宿った魔神ロクストゥスは、それを目の前にして、言葉を出すことも出来ず震えていた。
(こ、これは、お、お、おれ……)
魔王の杖を握る手の指は力が入りすぎて白くなり、顔は青ざめ、歯が鳴る。汗がこめかみを伝う。魔力は乱れ、瘴気が減衰する。
魔神の脚が後ずさろうとする。しかし、脚は震えて動かない。
ロクストゥスは、自分が感じているものが何かわからなかった。それは彼が発生して以来、一度も感じたことのない感情だった。
*
コウが召喚陣から引きずり出した、忌まわしくおぞましい巨人。
それは、かつて古の王国において崇められていた魔神の姿をしていた。
*
その魔神は、とある王国の王家の血筋に代々宿り、受肉して、何百年にもわたって暴虐のかぎりを尽くしていた。
彼は定命たちをたわむれに虐げ、苦しめ、凄惨な拷問を行った。
国中から女子供を集め、恐怖を与え、血を絞り、肉を喰らう。尊厳を破壊し、傷つけ苦しめ、最後には殺した。
定命同士を戦わせ、それを肴にする宴をたびたび開いた。
猛獣や魔獣、魔物と、定命を戦わせ、それを見物する。定命が喰らわれるのを見ることは、最高の楽しみだった。
定命が勝ちぬいた場合も、多大なる褒美と奴隷身分からの解放、市民の地位を約束し、後にその約束を違える。その時の定命の、怒りと絶望に歪む顔を見るのは、たまらなく愉悦に満ちた快楽だった。
定命の恐怖と怒りは、彼にとって食前酒だった。
苦しみや悲しみはメインディッシュだった。
絶望はデザートだった。
それも、文字通りの。
王として受肉した彼が定命を虐げるたび、魔界にいる本体はより強くなる。彼が現界で行使できる魔力はより強大になっていった。
数百年の時を経て、定命たちはついに決定的な反乱を起こした。
いかに永遠の者、暗黒の神々の一人といえども、受肉し現世に顕現している限り不滅ではない。
定命たちの捨て身の物量作戦、命がけの反乱により、ついに彼は殺された。王家は倒れ、王国は崩壊した。
彼に紐付けられていた王族たちは皆殺しにされ、その遠い遠い親族までもが根絶やしにされた。まかり間違って血の濃い者が生まれて、再び魔神がこの世に受肉したり、顕現したり、復活したりなどしないように。
そうしてその王国は滅びた。
*
だが彼は滅びたわけではなかった。
現界で定命から搾り取った大量の生命力を手土産に魔界へと還り、自分自身の安全な領土で、彼は満足しながら永い眠りに就いた。
再び現界に受肉し、また愉しい時を過ごせるように。誰か自分を喚び出す才能と昏い情熱を秘めた者が現世へと誘い、血の盟約によってその者の一族を自分のものとする日のために。
時おり、彼は現界に喚び出されることはあった。
だがそれはあくまで幽体。邪悪な意図を持った魔道士によって彼の影はしばしば現世に召喚され、その場所にいる定命の生気を喰らいつくして帰る。
たまに客として呼ばれ、ごちそうをいただく程度のものだ。
いつの日か彼は時を得て受肉し、復活する。その時は現界をすべて手中に収める。
そのように夢見ながら、彼は魔界の領土で微睡んでいた。
*
その彼が、今まさに現界に姿を現している。
それも、真の姿を。
*
(ち、違う。これではない、これではない……)
ロクストゥスは一歩、また一歩と後ずさった。彼の意志に関係なく、脚は後退する。
(お、おれは確かに、現界へと顕現することを渇望していた。だが、こういうことではないのだ……)
魔神ロクストゥスの本体は、いまや完全に姿を現していた。
雲を衝かんばかりの巨体。
頭に生えたトサカのような器官に、虚ろな瞳。痩せて手足の長い体躯。背中の羽。
皮膚は不毛の大地のように乾いており、ところどころひび割れがある。
古の神像にあるように、下腹部からは蛇の頭を持つ邪悪な器官が長く伸び、垂れ下がっている。
その厭わしく悍ましい、冒涜的な特徴すら伝承そのままだった。
だが本体は動かない。
片膝をついて迷走するようにやや頭を垂れた格好は、まるで魂でも抜かれたように見える。
まるで神像そのもののように、周囲に瘴気をまき散らすことも、がむしゃらに生気を奪い取ることもなく、ただ本体がむき出しでそこにある。
*
「……ははッ」
乾いた笑いが弾ける。
その方向に、ロクストゥスは弾かれたように顔を向けた。
冒険者アイリスが、右手で固く握りしめられた大剣を引きずり、顕現した魔神を見上げ、一歩踏み出している。
全身が血まみれになり、衣服に染み込み、こびりついた血は茶色く変色している。髪は乱れ、土埃にまみれて薄汚れている。
その目は爛々と輝き、唇は開き、笑みを作っている。
「は、は、ははははは」
アイリスは一歩、また一歩と歩を進める。
「よ、よせ……」
ロクストゥスはアイリスに、懇願するように声をかける。
だがアイリスは一顧だにしない。
「やめろ……それに近づくな……」
初めて感じる感情に圧倒され、ロクストゥスは動くことができなかった。
だが、彼の意識の中の冷静な部分は状況を分析する。
(大丈夫だ、こいつらはおれの弱点など知らない……)
たとえ魔界から本体が引きずり出され、完全に顕現し、物質化したとしても。
魔神の体は巨大だ。傷ついたアイリスと魔力の尽きた木ッ端魔道士には何もできない。少なくとも、傷つけることは容易ではないはずだ。。
(ここでこいつらを殺し、本体の顕現を利用して現界を滅ぼしてやる)
魔神は腹の中で画策した。震える脚を踏み出す。だが足元はおぼつかない。
魔王の杖が手の中で滑った。手元を見ると、べったりと脂汗がにじんでいる。
*
「なんだ、これは?」
彼が発生して以来、初めて感じる感情。
それは恐怖だった。




