魔神ロクストゥス その⑦
「全員、避難すたが?」
ケネル村の山側、森と村の境目。
結界を越え、魔物がうろつき始めるあたりの場所に、村人たちが集まっていた。いずれも着の身着のままだが、中には武器を持った者もいる。
「向うの山さも避難すたで話だ! 村の中さは誰も居ねはずだ」
「こっちもだべ! 三箇所さ分がれで、全員避難すたみでだな」
「犬や猫も避難すろず話だったばで」
「大丈夫だ、村の中さ生ぎ物はまんず居ねぐなったはずだね」
村の若者や大人が集まって話している。女性と子供は少し離れた場所に固まり、老人たちもまた集まって話している。
そこへ馬のいななきと、蹄が草を踏む音が聞こえてくる。
「リサ! 無事だったが!」
村人の一人が叫ぶ。宿の厩舎に繋がれていた葦毛の馬、アイリスの馬車の馬に乗って、リサがやって来たのだ。
リサは馬から飛び降り、村人たちに話しかける。
「今まで何しでだ! お前が最後だぞ!」
「ごめんなさい。アイリスさんにお願いされて、あの人を連れて行った後、馬を頼むって。みんな避難したんですか?」
「んだ。三方さ分がれでな!」
「旦那様とアイリスさんは? ここから見えます?」
「あそごだ! 広場さいる!」
村人が指さす。リサは村の中心、広場のあたりを見た。
コウとアイリスが、村を訪れた冒険者――マルグレーテと対峙している。マルグレーテは黒紫色の、禍々しい魔力に覆われ、ねじれた杖を持って二人を圧倒していた。
二人は追い詰められているように見える。アイリスは血まみれで倒れ、そこにマルグレーテが迫っている。片やコウは、長杖に縋って何かの魔法を発動させている。
リサは息を呑み、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
*
コウの眼前に召喚陣が展開される。
古代文字で書かれた呪文が何周も円を描き、中央には複雑な幾何学模様のある、黒く光る魔力の線で描かれた魔法陣。一つの大きな召喚陣の周囲に、四つの補助的な魔法円が描かれ、土地や空中から魔力を集める。
「……召喚陣」
ロクストゥスはコウの大魔法を見やり、つぶやく。そしてアイリスに向き直る。
「なるほど、さっきの《暗黒回帰》は目隠しだったわけか。この召喚魔法が発動するまでの擬態。そういうわけだな?」
「……ふふふ、」
血まみれで地に這いつくばったまま、アイリスは魔神を見上げ、笑う。
「そうじゃない。さっきのもあくまで本気だよ。あんまり効かなかったみたいだけどね」
「本気だと? あのションベンのような神聖魔法がか?」
「あんたみたいな、現界に顕現した邪悪を滅ぼす方法はおおよそ三つ」
アイリスはコウの展開する召喚陣を見やり、話し続ける。
「『封印』か『送還』、最後に『討伐』。どれも難しいが、『封印』が上策、『送還』が中策、『討伐』が下策ということになる」
「それがどうした? 定命どもが、我々に対して足掻く時のいつもの手段だ。もっとも『討伐』が成功した例など聞いたこともないが」
「そう。『討伐』はめったに成功しない。だから、私たちもそれは選びたくなかった」
ロクストゥスはあごに指を当て、アイリスを傲岸に見下げる。
「……なるほどな、さっきお前が、その面白い剣で打ちかかってきた。むしろそっちのほうがおとりだったわけだ」
「私だって、本気で魔神を殺せるなんて思っちゃいないさ。でも、ワンチャン殺せるかもしれないしね」
アイリスはふらふらと立ち上がる。右手と一体化したように、大剣が引きずられる。
「そして、お前たちの最後の望みがあの召喚陣か?」
「ずいぶん余裕ぶってるじゃないのさ、魔神。あんたの命が握られてるっていうのに」
「くはッ」
魔神は唇を歪めて嗤う。
「呆れているだけだ。お前たちはあの召喚陣で何者かを召喚しようとしている。このおれに対抗できるほど強力な何ものかをな。だが、それは不可能だ」
「不可能とは?」
「わからないか? 魔神クラスの存在を召喚するためには、もっと大掛かりな祭壇と、なによりも生贄が必要。おれがあのダンジョンで召喚された時も、思い出してみるがいい、あの召喚陣を描いた人間どもの命を吸って、ようやく現界に半分ばかり顕現できた」
「…………」
アイリスは、かつて「地下狂皇庁」の最下層で自分たちのパーティー・疾風怒濤が半壊した時のことを思い出し、唇を嚙む。
「もし、おれに匹敵する魔神クラスの存在を召喚するなら、この村の村人全員くらいの数は生贄が必要だ。だが、お前たちにそれは出来まい」
「……よく見てんじゃん。やけっぱちになった私ならともかく、コウ君は絶対にそんなことはしないだろうね」
ロクストゥスは嗤い、コウの召喚陣を見やる。
「だが、あの魔法は面白い。確かに見たこともない魔法だ。どんな手品を使ったのか、フィレオン側であるはずの木ッ端魔道士が暗黒系の大魔法を行使しているのも興味深いしな」
「……だから、高みの見物を決め込んでいるわけ?」
「そうだ。どうせあそこからは、このおれに匹敵する存在は絶対に出てこないからな」
「ふ、ふ、ふふふ……」
(そうだロクストゥス、あそこからはおまえを倒せる存在など出てこない……)
アイリスは大剣の柄に寄り縋り、召喚陣を見やる。
*
召喚陣から、暗黒の魔力が噴き出す。そして、黄色から橙色の範囲の光が、その縁から斜め上に何条も迸り出た。
コウは歯を食いしばって長杖に縋る。油断すると、魂までも持っていかれそうな吸引力が働く。
オ…… オ…… オオオ…… オオオオオ…………
禍々しい詠唱音がいよいよ高まる。魔力が渦を巻いて噴出し、巨大な何ものかが姿を現す。
その影は、やや俯いて、瞑想している巨人のように見える。
*
上半身ほどが引きずり出された巨人の姿を見て、アイリスは目を輝かせ、唇の端を吊り上げた。
全身が文字通り総毛立つ。今すぐに逃げ出したくなるような恐怖心も感じるが、興奮と高揚がそれを塗りつぶす。
召喚された巨人の、毛髪のない頭部には、正中線に沿って高く生えたトサカのような器官が見て取れる。
憎しみのこもった表情の刻まれた、仮面のような顔貌。両目は真円に近く、瞼が存在しておらず瞳も無い。昆虫類のような複眼の構造を持っているのかもしれない。
鼻の部分には二つの穴が開いているだけだ。耳のあたりまで裂けた口には唇がなく、獰猛な牙がそのまま見て取れる。耳は薄く尖っている。
土色の身体は痩せて干乾びており、皮膚のところどころがひび割れている。
垂らされた腕は長く、二の腕よりも前腕、手首に行くにつれてわずかに太くなっている。指の先には禍々しい爪。
背中に生えているのは、鳥のものとお昆虫のものともつかぬ、四枚の羽。それが今は折りたたまれ、地面に向けて垂れ下がっている。
その本体から流れ出す、禍々しく寒々しい瘴気。直視すら憚られる忌まわしさ。
あきらかに高位の悪魔。魔王クラスか、もしかしたらそれ以上の――
*
(……なんだ、これは?)
ロクストゥスは、召喚された存在を見つめ、石のように硬直していた。
(これは……高位の魔神。確かにおれに匹敵する。その力を感じる。それが今、実体化している)
現界に顕現するだけで、周囲の生命を喰らい付くし、災いをもたらし、一国どころか周辺の国々まで破滅させる。そのクラスの魔神が、今まさに現界に姿を現しつつある。
周囲の温度が冷える。日没前にもかかわらず日が翳ったように暗くなる。周囲は静けさに包まれ、禍々しい詠唱音のみがあたりに響く。
巨人の全身が、ほぼ引きずり出される。片膝をついて俯く姿には意志が感じられない。まるで眠っているか、魂を抜かれてでもいるかのように。
(これは……これはなんだ? どこかで見たことがある。まるで、まるで……)
*
魔神ロクストゥスは、確かにそれを見たことがあった。しかし直接にではない。
かつて彼が現界に、人の身の中に顕現し、古の王国を治めていた――いや、暴虐のかぎりを尽くし、定命たちを思うさまに虐げ、踏みつけ、喰らい、破壊と殺戮のかぎりを尽くしていた頃のこと。
彼はそれを見たことがあった。神官たちに命じ、自分の目では見たことのない、彼らの主の姿を像に彫らせ、それを神そのものとして、王の姿として、民であり家畜である定命たちに崇めさせた。そんなことがあった。
それは、その王の姿――すなわち、彼自身の姿。
(……そうだ、これはおれだ)




