魔神ロクストゥス その①
「とぼけるんじゃねぇ。おまえが魔神だってことは、もうとっくにバレてんだよ」
*
「くっ」
召喚士マルグレーテは、アイリスの涙交じりの叫びを聞き、下を向いて喉を鳴らした。
「くっ、くっ、くっ、」
そしてそのまま、何度か肩を震わせ、喉を鳴らす。
それは、笑いだった。
「くっ…………、せっかく、人間のふりをして、姉妹の感動的な再会も演出してやっていたのにな。仕方ないな」
その声には、明らかに先ほどまでとは違った響きが混じっていた。どこか遠くから聞こえてくるような、しゃがれた男の声が重なって聞こえる。
マルグレーテの体の輪郭が揺らぐ。体から発散される魔力の量が増え、質が変わっている。純度の高い暗黒の魔力。瘴気の混じった魔界の空気が纏いついている。
そして顔を上げて、マルグレーテはアイリスを見やった。
*
その虹彩は金色に輝き、異様な光を放っている。
その表情は、意外にも感情というものが欠落している。
目は爛々と輝き、口角がわずかに上がり、顔色は青白く仮面のような硬さを感じさせる。
わずかに首を傾げた姿勢は、人間というよりも肉食動物や昆虫、つまり捕食者のような印象を抱かせる。
アイリスは、変貌した姉の顔や、異様な雰囲気、明らかな瘴気と暗黒の魔力にも、一切怯えることなく、涙に濡れた頬のまま睨み返した。
「……お前は、」
コウが長杖を構え、マルグレーテに問う。
マルグレーテは首だけでコウのほうを向き、睨む。
吹き付けるような悪意と敵意を伴う、邪悪な眼光。感情の欠落した双眸は、純粋に相手を品定めするおぞましさを含んでいた。目を合わせるだけでも生命力を奪われそうな、暗黒の瘴気が視線に籠っている。
コウは思わず怖気を震う。
それに気づいたマルグレーテは「くはッ」と嗤い、名乗る。
「そうだ、お前たちがロクストゥスと呼ぶ者。それがおれだ」
*
マルグレーテ、否、魔神ロクストゥスは口角だけで笑みをつくり、くっくっくっと喉を鳴らす。
「もっとも、ロクストゥスなどというのはお前たちが勝手に呼んでいる名前だがな」
その声は、アイリスによく似たマルグレーテの声ではなく、すっかりしゃがれた男の声に変っている。地の底からでも響いて来るかのような、忌まわしく邪悪な響き。
「真名は何だ」
「くはッ」
魔神ロクストゥスは再びコウをせせら嗤う。
「馬鹿か。言うものかよ。お前、その風体は魔道士か? 最近の魔道士は質が悪いんだな」
コウは平静さを保った声で返答する。
「うっかり言ってくれるんじゃないかと思ったがな、残念だ」
「はン」
さして残念そうでもなく言うコウを嗤い、ロクストゥスは長杖を手の中で回す。
「今の魔道士は真語も知らんのだろう? こいつの脳みそを覗いた時、今の現界についての情報を色々と知れたがな」
ロクストゥスはこめかみをとんとんと指で叩く。
「おれの時代とはレベルが違いすぎる。たしかに便利な道具は増えたようだな。お前が持っているその短杖とかな、アイリス」
首を回してアイリスを見、短杖を指さすロクストゥス。
*
「その顔で、気安く私の名を呼ぶんじゃねぇ、化物」
アイリスは血を吐くような声で魔神に吼える。
「そんなに嫌うことないじゃない。姉さん悲しいわ」
ロクストゥスはくすくすと笑った。そして、マルグレーテの声で言う。
アイリスはぎりっと奥歯を噛みしめる。ロクストゥスはせせら嗤うと、長杖を持っていないほうの手を軽く振った。
一瞬、赤橙色の魔法陣が展開し、巨大な《火球》がアイリスに襲い掛かる。
「――ッ! アイリス!!」
コウが長杖を掲げると、身長の倍ほどもあろうかという《火球》に青い稲妻のような魔力が突き刺さり、アイリスに炸裂する寸前で弾け飛ぶ。
「ふん、《魔法阻止》か」
否定の呪文の青い光とともに、火球は赤色の魔力の粒子と化して空気中に還元されていく。
「見たか? 今のは《火球》だ。ただの《火球》。おれがこの肉体を使えば、お前たちの魔法でもこんなものだ」
ロクストゥスはくっくっく、と嗤う。
「百年に一度か? いやそれ以上かもなぁ。これほどの素養を持った個体が生まれるというのは。おれの器にふさわしい――できれば男の体のほうが良かったがな」
そして、マルグレーテの体からは暗黒の魔力がさらに発散され、ふわりと地面から浮き上がった。
「お前たちはおれを封印するつもりだろう。いや、追い返すつもりか? そこのアイリスは、この結界の中に、慎重におれを招き入れたよな」
長杖でアイリスを指す。
ロクストゥスの言葉は、アイリスが姉を村に招き入れた時のことを言っていた。
*
「そろそろ、中に入れてくれる?」
ロクストゥスはアイリスにそう言った。
「いいよ。私の姉さんは入ってもいい」
アイリスはそのように返事をした。
*
「くっくっく、カカカカカ」
空中で、身を折ってロクストゥスは嗤う。
「甘いんだよ。お前はそれで、このおれの本体を招き入れることなく姉の肉体だけを確保するつもりだったんだろうが、その程度では止められん。おれはすでにこの肉体の第一の所有者となっている」
闇の世界の住人は、現界で活動する際「現界の住人の許可」を得ることなしに「結界」の内部に入ることができない。そのため、アイリスは「私の姉さんは入ってもいい」と言った。
だがロクストゥスは、アイリスの目論見を当然のように看破していた。
ロクストゥスはコウを見、アイリスを見る。
「たとえおれの本体が手出し出来なくても、おれがこの肉体の魔力と知識を使えば現界なぞあっという間だ」
「現界などあっという間か」
コウが口を開いた。ロクストゥスは空中からコウを、侮蔑的な視線で見やる。
「そうだ。お前たちのクソくだらない文明やカビの生えた歴史、せせこましい生活、その他の取るに足らない愚物どもを何もかもすべて焼き払って、本来のあり方に戻してやるよ」
「本来のあり方とは?」
「知れたこと。われわれ神々が、お前たち定命を支配し、搾取する構造ということだ。お前たちには文字通り家畜として隷属する喜びを与えてやる」
*
魔神の言葉に「否」を突きつけるように、コウは長杖の石突で広場の地面を音高く突く。魔力の火花がわずかに地面に飛散し、周囲へ走っていく。
「なるほど。思ったよりも凡庸で卑俗、愚昧で矮小な、陳腐きわまりない欲望だ。魔神といってもその本性は、サルの群れのボスと変わらないらしい。いや、動物のほうがまだ高級だな」
「カカカカカ」
ロクストゥスは空中で嗤う。
「高級な弱者の思想だ。強者はシンプルなものだ。お前たちのような弱者を、力で叩き伏せて言うことを聞かせる。思うさまに虐げて従わせ、支配される喜びを与えてやるんだよ」
「……だが安心したよ。貴様が言葉の通じぬ獣であることがわかった」
「? 言葉は通じてるじゃないか。この肉体の意識と記憶を使ってだが、お前たちの言葉で話してやっただろう」
「貴様は我々を家畜か食糧のようにしか思っていない。当たり前だが、温かい心などといったようなものを持ち合わせていない。欲望と本能の赴くままに周囲を破壊し収奪する獣であり、そうでなければ自然現象」
ぴくり、とロクストゥスの眉根が寄る。コウは体を半身に開き、マルグレーテの遺していった長杖を地面に水平に構える。
「崖が崩れたら修復する。魔獣が出たら討伐する。それと同じこと。貴様は神などではない。我々定命の者にとって、山から下りてきた害獣に過ぎない」
コウの体の輪郭がぼんやりと光る。
「現界に生きる定命として、力を持つ者として、この俺が貴様をここで阻止する」
ロクストゥスは傲岸に顎を上げ、コウを見下した。
「……面白いな。お前、名は」
「冒険者コウ」
「コウか。人間らしい謙虚な名だな。それとも真名隠しか?」
コウはそれ以上会話を続行することなく、ロクストゥスに告げる。
「……そして、貴様が最後に耳にする名だ」
*
瞬間、魔神ロクストゥス――マルグレーテの体を、球状の魔力の網が包んで拘束する。
「――ッ!!」
魔神ロクストゥスは身をよじる。だが古代の文様の浮かぶ魔力の球は、稲光のような魔力光を周囲に放ちながら、魔神を宙に固定している。
コウの持つ長杖の先端、ねじ曲がった木の杖頭が魔力の光を放つ。コウの足元に魔法陣が浮かび上がって回転し、四方に四色の魔力が地面を走る。
村の周縁、ちょうど封印の石が設置されているあたりから、天に魔力光が伸びる。村全体が半球状に魔力に覆われる。魔法使いなら感知できる大魔法の起動音が大音量で響き、空気がビリビリと震える。
「闇から生まれし邪なる命を深淵なる忘却へと葬り去らん!」
コウは古代語による宣言を高らかに行い――そして長杖を魔神に向けた。
「――《永遠の封印》」




