ミスター・ベヘモス その②
「ねんのため言っておきますぞ、ミスター・ベヘモス」
胴元を務める肉塊のような男が不愉快に揺れ、聴く者におぞましさを感じさせずにいられない声で告げる。
「知っての通り、今回の賭けに当たっては踏み倒しを避けるため、参加者全員に暗黒系禁呪《契約》を付与しております。再度確認させていただきますぞ、この《契約》は一度かけたら永遠に解呪できない。契約内容が遂行されることで初めて自然に解呪され、それ以外の手段では決して解かれることがありません」
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胴元の男の言葉を受け、下を向いたままミスター・ペガサスが続ける。
「《契約》はおもしろい魔法でね。無理に解約を試みると、あんたの心身は崩壊する。心は絶望に追い込まれ、体には文字通り身を切られるような苦痛が襲い掛かる。しかも、そんな時も他人から見た姿は変わらない。ただ苦しむだけだ」
ミスター・ペガサスは立ち上がり、床に這いつくばるミスター・ベヘモスの横を通り過ぎ、
「まぁ、俺にとってはどうでもいい話だ。俺が苦しむわけではないし、あんたの苦しむ姿は面白そうだしね」
そして部屋を出ていく。
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扉が開かれても、部屋全体に付与された《隠蔽》により中の様子は伺えず、また《静寂》により音も漏れない。
そもそもこの部屋があるのは建物の中で特別な階だった。衝立の設けられた階段は《隠蔽》と《偽装》、そして《忌避》の結界魔法が最高の練度と強度で付与されており、それを知らぬ者は見えもしなければ気づけもせず、近づきたいとも思えない。
そこはまさに闇の中に隠された部屋だった。
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ミスター・ペガサスの言葉を引き取り、ミセス・マーメイドが紫煙を吐き出し、話を続ける。
「フゥ~……。しかも、あなたが苦痛や絶望のあまり自死を選択したとしても、それをもって帳消しになったりはしない。あなたの負債は必ず支払われる。具体的に言えば、契約者本人の家族や恋人、つまり一番大事な人に負債が移動する」
残酷な事実を告げ、ミセス・マーメイドは立ち上がり、
「一番いいのはァ……素直に払うことね。時が経つほど苦しむことになるわよォ。まぁ、それも面白そうだけど」
そしてやはり部屋を出ていく。
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ミセス・マーメイドの言葉に続けて、ミズ・フェニックスが忌々しげに吐き捨てる。
「禁呪だけあって、下品な暗黒魔法です。しかし、人の心というものは度し難いもの。とくにあなたのような、守るものがある俗物からはこれくらいの拘束でもなければ取り立てることは出来ない。なにしろ、あなたたちはこの世の富を追い求めるために己の心すら欺きますからね」
苛烈な断罪を行ったミズ・フェニックスは、
「あなたの出来ることは、一刻も早く負け分を支払うこと。神はしみったれがお嫌いです」
毅然とした態度で部屋を立ち去る。
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ふぉっふぉっふぉっふぉっ、と福々しい笑い声をあげた後、ミスター・ドラゴンが補足する。
「皆さん、肝心なことを言っておりませんな。意地が悪いのか慈悲深いのか……まぁいい。私が言いましょう」
そして立ち上がると、ゆっくりと出口側――ミスター・ベヘモスに向かって歩きはじめる。
「ミスター・ベヘモス、あなたが仮に人間離れした強靭な忍耐力を持つ超人だとしましょう。《契約》のもたらす耐えがたい苦痛を、自分ひとりのこととして、人生の残り時間いっぱい、心身ともに耐え抜いていけば、事実上負債を踏み倒すことができる――そう考えるかもしれない。しかしそれに成功した者はいない」
ミスター・ベヘモスの前に立ち止まる、《隠蔽》に隠された、ミスター・ドラゴンの黒い影。その目の部分だけが、怜悧な光を放って見下ろしてくる。
それを見上げ、ミスター・ベヘモスは恐怖に震えた
「《契約》は、それ自体が知能と判断力を備えた、ずる賢く抜け目のない魔法。それを産みだした悪魔、最もこの世を堕落させる俗化の化身ブリー・ヤールに直接紐付けられた、事実上の召喚魔法と言っていい。あなたが支払いを渋り、のらりくらりと踏み倒そうとした瞬間――その意図を察し、《契約》はあなたの最も大切なものを容赦なく取り立てる」
ミスター・ドラゴンの影が、まるで悪魔そのものであるかのように膨れ上がる。
「お判りですかな? つまり、あなたの考えは腹の中まで見透かされている。『支払う気が無い』と見なされた瞬間、あなたの身内に不幸が降りかかる。確か奥さんと娘さんがいらっしゃいましたな?」
家族のことを言われ、ミスター・ベヘモスはびくりと体をこわばらせ、震えはじめる。冷たい汗が全身から噴出する。
「大事な人たちがどうなってもいいなら、お好きになさればよろしい。まぁ、私としてはそれでもいいが」
ふぉっふぉっふぉっ、と笑いながら、ミスター・ドラゴンが退出する。
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「気を確かに持つことだな、ミスター・ベヘモス」
意外にも慈悲深い言葉を口にし、筋肉質の戦闘者であるミスター・グリフォンが立ち上がる。
「貴殿は文字通りすべてを失った。今回の賭けにおいて、賭け金の足りなかった貴殿は自分の店――すなわちテクストル商会と家屋敷に使用人、馬車、宝石や貴金属類、別荘とそこに移動するためのワイバーンまでを抵当に入れて賭けに臨んだ。そうだろう?」
ミスター・グリフォンは、ミスター・ベヘモス――織物商テクストルの賭けの内容を列挙する。あらためて、テクストルは失ったものの大きさを思い知り、瘧のように震え出す。
「だがな、自分自身の体や魂、家族を抵当に入れていなかったのは不幸中の幸いというべきだな。貴殿はすべてを失うが、己自身や愛する者までは失わずに済むということだ」
扉に向かい、ミスター・ベヘモスの隣に立つと、ミスター・グリフォンは力づけるとも突き放すとも言えないような口調で語りかける。
「あの忌々しき阿婆擦れ女――『運命め』は貴殿をここまで連れてきた。そして残酷な結末を突きつけた。それはもはや変更できない。ここからだ、ミスター・ベヘモス。貴殿は失った地点をゼロと位置づけ、足をつけて這い上がらねばならない。ここが貴殿の今いる場所だ。一度断たれた糸は戻ることは無いのだからな」
そう言って、ミスター・グリフォンも部屋を後にする。
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「さて……ミスター・ベヘモス。期限は一週間後です」
醜く太った男が、わずかな愉悦が隠しようもなくにじみ出た不快な声で、ミスター・ベヘモス――織物商テクストルに勧告する。
「ちょうど一週間後の、ちょうどこの時刻に致しましょう。それまでに、あなたの店と土地建物、抵当に入れたすべてのものの権利書を持って、ここに来てください。お歴々が言ったように、踏み倒そうとする試みは無駄に終わりますぞ。踏み倒すと考えただけで、まず警告として身を切るような痛みが体を襲う」
テクストルは顔を上げて、目の前に立つ肉塊のような醜い影を見上げる。
「そしてあなたの大切な人が、大切な順番に失われる。ミスター・グリフォンが言った通り、体や魂、家族を賭けなかったのは英断でしたな」
肉塊はおぞましい音を立てて震える。おそらく笑い声のつもりなのだろう。
「おっと、今回のことを誰かに言おうとしても無駄ですぞ。言おうとすると口が動かなくなる。書こうとすると手が動かなくなる。この会に参加する際、あなたには暗黒系禁呪《禁忌》がかけられている。これも決して破れぬ呪いであり、《契約》と同様に、解呪できないからこそ禁呪指定された忌まわしき魔法」
腰帯から、目盛りのついた奇妙な短杖を取り出し、これ見よがしに振って見せる肉塊。
「要はあなたの逃げ場はどこにもないということです」
では、と言い残し、肉塊――冒険者賭博の胴元は、醜い体を揺らしながら部屋を出ていく。
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後には、すべてを失った織物商テクストルだけが残された。




