ミスター・ベヘモス その①
「今回の賭けの結果は『桜花騎士団は、戦いにおいて死人を出した』。すなわち、ミスター・ベヘモスの一人負けとなります」
闇魔法《隠蔽》により黒いシルエットと化しながらも、なおも醜さが溢れ出ている、肥え太ったブタのような、肉塊のような胴元の男が、精いっぱいの厳粛さを演出した不快極まりない声で告げる。
*
「ばッ、バカな! あり得ない!!」
当然、ミスター・ベヘモスは声を荒げる。
「勝ったのは私だ! 賭けの内容はこうだ。一言一句覚えているぞ、『この戦いにおいて、桜花騎士団は死人を出さずに戦いを終えることができるか』」
ミスター・ベヘモスはここを先途と大声で抗議を試みる。
「桜花騎士団の三人、ハインリヒとエルガー、バルトは、この戦いにおいて命を落とさなかった。それどころか、フィレオン慈悲病院に入院しているアンナ・フューゲルですら今なお命を保っている。つまり死人は出なかった。この賭けに勝ったのは私だ!」
跳び上がらんばかりに興奮してわめき散らすミスター・ベヘモスを、他の六人の男女――胴元の太った醜い男と、幻獣の名を冠した胡散臭いシルエットたちは、闇魔法《隠蔽》の黒いヴェールすら貫通する冷ややかな目線で見つめる。
「落ち着きなさァい、ミスター・ベヘモス」
粘りつくような声で、ミセス・マーメイドが諫める。
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「フゥ~」
ミセス・マーメイドは煙管を吸い、紫煙を吐き出してミスター・ベヘモスを見やる。
「あなたに何度『落ち着きなさい』と言ったかしらァ? 殿方たるもの、もう少し落ち着いた態度で臨むべきですよォ? 勝利の時も、敗北の時もね」
そして「カンッ!」と音高く灰を落とす。
「だ、だが! そもそも私は敗北などしていない! 桜花騎士団は死人を出さなかった! 賭けに勝ったのは私だ!」
「だから、そこが間違いなのですよ、ミスター・ベヘモス」
ミズ・フェニックスがぴしゃりと言い渡す。その声に、ミスター・ベヘモスはびくりと肩を震わせる。
「あなたは賭けの文言を一言一句覚えていた。そのことは称賛に価します。なら、それをもう一度思い返してみなさい」
「……ど、どういうことだ」
ミスター・ベヘモスは、あらためて賭けの文言を思い出す。彼はすぐれた商人であり、契約書の内容を読み込み、記憶することにかけては本業とも言える。
『この戦いにおいて、桜花騎士団は死人を出さずに戦いを終えることができるか』
胴元の男は確かにそう言った。一言一句間違っていない。
何かがおかしい。何が間違っているのか?
ふぉっふぉっふぉっ、と好々爺のような笑いが響く。ソファの端に座った、でっぷりとした腹を持つ男、ミスター・ドラゴンの声だ。
いかにも福々しい、和やかな笑い声のようだが、その声は不思議と人間的な温かみを欠いている。
「愉快ですな、ミスター・ベヘモス。あなたほどの老練な商人が、このような場ではまるで田舎娘のように騙されるのだから。まったく賭け事というものは恐ろしい」
「なっ、何が言いたい!」
ミスター・ベヘモスは不快感を覚え、思わず声を荒げた。
ミスター・ドラゴンは、当然のようにミスター・ベヘモスの素性を知っているようだ。対してミスター・ベヘモスは、この中ではミズ・フェニックスの素性――フィレオン教会の「聖女」ユスティエラ――しか突き止めることしか出来ていない。
情報の差は、すなわち強者と弱者の分水嶺となる。
(忌々しい奴らめ! 全員で結託して丸め込み、この俺が敗けたことにしようとしているのか!)
*
「わからぬか、ミスター・ベヘモス」
いかにも戦闘者然としたミスター・グリフォンが、やや苛立ちの混じった低い声で言った。
その声は低く恫喝的に響いた。他の誰もが微動だにしない中、ミスター・ベヘモスはびくりと震え、硬直する。
「なっ、何を……」
ミスター・グリフォンは露骨にため息をつき、ミスター・ベヘモスを見やる。
「……この場に呼ばれるくらいだ。少しは気骨ある者かと思っていたが、残念だな。貴殿もこの卓に着く者ではなく、卓に載せられる者だったわけだな」
《隠蔽》のヴェール越しにもわかる冷たい眼光に、ミスター・ベヘモスは声を上げることができない。
他の五人の男女は、その様子を、あるいは興味深げに、あるいは愉悦に満ちて見守っている。
「よいか、ミスター・ベヘモス。賭けの文言には『死人を出さずに』とあっただろう。その他については何も言及していない」
「……どっ、どういう…………」
「わからぬか。『死人を出さずに』の『死人』とは、なにも桜花騎士団の三人のみを指した文言ではない」
その言葉の意味が、ミスター・ベヘモスの思考に浸透するまで、数秒の時が費やされた。
「…………あっ!!」
「おわかりか。つまり『死人』には、あの場に捕らわれていた盗賊どもの命も含まれる」
「もし『桜花騎士団の三人の誰かが命を落とすか』という賭けなら、そんな風に言うでしょう。わざわざ『死人を出さずに』などといった文言にするからには、そこには意味が含まれているということです」
ふぉっふぉっふぉっ、とミスター・ドラゴンが笑う。
「あの場で、吸血鬼は牢獄の中の盗賊の一人の血を吸って殺した。否、そればかりか、桜花騎士団の魔銃士バルトは盗賊どもを《業火》で皆殺しにした。『死人が出たか否か』など、まさに火を見るよりも明らかということですな」
*
ミスター・ベヘモスは、《隠蔽》を通してほど目に見えて狼狽し、哀れな身振り手振りで言い募る。
「そ、そんな曖昧な! そのようなどうとでも取れるような賭けの文言では、まるで胴元の胸先三寸、さじ加減一つで勝ち負けが決まってしまうではないか!」
「いい加減になさい、ミスター・ベヘモス」
ミズ・フェニックスが硬い声でたしなめる。
「もし、あなたが『死人を出さずに』の不自然さに気づいていたなら、あなたは今回の賭けを降りることも出来た。『そんな曖昧な賭けには乗れない』と言ってね。あるいは『死人とはどういうことか。まさか盗賊どもの命も含まれるんじゃないだろうな』と、胴元に詰め寄ることも出来たはず」
「う、うう……」
「つまり、あなたが負けたのは、はっきりとあなたの才覚不足のせい。他のすべての条件で、あなたは我々に劣るものではない。ですが、あなたは勝負事において最も重要な『冷静さ』を欠いていた」
ミスター・ベヘモスは、反論する力を失い、膝から崩れ落ちる。
*
くっくっくっ、と癇に障る笑い声が響く。ミスター・ペガサスだ。
「なぁテクストルさん」
と、ミスター・ペガサスはもう取り繕わずに言う。
「俺たちは全員、今回の賭けの文言の不自然さに気づいていたんだよ。おっと『示し合わせて』なんかじゃないぜ、俺たち一人ひとりが、胴元の不自然な言葉遣いを見抜いていたってことさ」
もはや言葉も出ないミスター・ベヘモス――織物商テクストルに、ミスター・ペガサスは愉悦に満ちた声色で追撃する。
「そしてここからが面白いんだが、あの戦いで『死人が出ない』なんてことは起こらないよな? なにしろ桜花騎士団は強い。吸血鬼は一回くらいは食糧を喰らうだろう。『賭けになってない』んだよ……わかりきったことだからな。つまり、俺たちは賭けを降りても良かった。賭けに参加し、勝敗が決まらない場合、賭け金は次回に持ち越しだ。なにも好きこのんで自分の賭け金を減らさなくてもいいからな」
誰も何も言わぬ中、ミスター・ペガサスの長広舌が続く。
「しかし俺たちは全員が――つまりあんたを除いてってことだが――『死人が出る』に賭けた。何故か? それは、俺たちが、あんたが賭けの内容を理解しないであろうと予測していたからだよ。これも『示し合わせて』なんかじゃないぜ、あくまで『そういう空気だ』と理解したんだ」
「……………………」
「言葉も出ないか? 言い換えればな、今回の賭けは、まず『死人が出るか否か』は胴元との間での勝負だ。それとは別に、あんたを除いた俺たち五人は、『テクストル氏が賭けの内容を理解しているか否か』の勝負をしていたってことなんだよ」
ミスター・ペガサスの言葉に、ふぉっふぉっふぉっ、と愉快そうな笑い声が重なる。
「まさにまさに! いや、よく観察し、分析されていますな、ミスター・ペガサス。あらためて、あなたのような者は敵に回したくない」
「お褒めにあずかり恐悦至極。まぁ、このくらいのこともわからなければ、あっという間に調理されてしまうような場所で生きているものでね」
ミスター・ドラゴンの称賛に、ミスター・ペガサスはしれっと答える。
「まぁそんなわけで、俺たちは全員、あんたが賭けの文言を理解していないほうに賭けた。結果的には、俺たちがあんたからむしるという形になり、俺たち五人の間での無言の勝負は引き分けに終わったわけだがね」
*
「ともあれ、あんたは負けたんだ、ミスター・ベヘモス。それも、本来ならばあんたが最も得意とするであろう、生き馬の目を抜くような奸智と狡知の渦巻く場でな」
ミスター・ペガサスにより最後通牒が下される。
ミスター・ベヘモスは、床に四つん這いになり、声も出ずに震えていた。




