鳳凰と巨獣
ミズ・フェニックス――
そう呼ばれた「聖女」ユスティエラ・ル・フィレオンは、わずかに眉をひそめた。そして、わずかな間を置き、声のトーンを下げてゆっくりと話す。
「その名前は、あの部屋の外では禁句だと聞いているはずでしょう、ミスター・ベヘモス」
そう呼ばれた貧相な中年男――織物商テクストルことミスター・ベヘモスは、教え諭すような重々しい口調の聖女の迫力に一瞬言葉を詰まらせる。
「ぐっ……だ、だが話はそのことについてだ。私はそのことについて話をしに来たんだ!」
豪華で頑丈そうな机の前を、ミスター・ベヘモスは神経質そうに行ったり来たりする。
聖女はさして心を動かされた風もなく、引き出しから爪やすりを取り出して、椅子に斜め掛けに腰かけて爪を磨きはじめた。
*
「先の賭けにおいて、あなたがたは『桜花騎士団から死者は出ない』ほうに賭けた」
ミスター・ベヘモスは、直近に行われた冒険者賭博について語る。
参加者は六名。その時の賭けの内容は、
「首無騎士との戦いで、桜花騎士団に死者は出るか?」
参加者のうち、ミスター・ベヘモスだけが「死者は出る」に賭け、他の五人は「死者は出ない」に張った。賭けが成立し、その回の桜花騎士団の冒険は賭博者たちにとって、多額の金銭が動くスリル溢れる観戦となった。
(ちなみに全員が同じほうに賭けた場合は当然、賭けは不成立となり、その回はただの観戦会となる)
「……『死者は出る』に賭けたのは私だけだ。本来ならば、私が多額の配当金を得ることになる。なぜならアンナ・フューゲルはあの戦いで致命傷を負い、本当は今ごろ死んでいるはずだからだ。だが、あなたがたは自分たちが大損するのが嫌で、彼女を不自然な手段で生かし続けている。そういうことだろう!!」
喋りながら、自分の言葉に次第に興奮していったミスター・ベヘモスは、仕舞いには両掌を豪奢な机の天板に叩きつけた。「バンッ!」と大きな音が鳴る。
しかし、ミズ・フェニックスこと聖女ユスティエラは眉ひとつ動かさなかった。爪を磨く手を止め、指先を「ふっ」と吹いてから、ミスター・ベヘモスを見やる。
「落ち着きなさい、ミスター……いや、織物商テクストル。声が大きすぎます。誰かに聞かれていたらどうするんですか」
「ふん! 誰かに聞かれていたらだと」
ミスター・ベヘモスは鼻で嗤い、両腕を拡げて上半身をねじり、部屋を見まわしてみせた。
「この重厚で堅牢なつくりの部屋の中で、いくら声を張り上げたって外に音が漏れるなんて思えませんがね! 市庁舎はただでさえ重要な情報の飛び交う場所だ。設計の段階で防音は対策されているのが当たり前だ。そんなこともわからぬ私ではない。それに――」
と、ミスター・ベヘモスは机に歩み寄り、体を傾け、前のめりになって聖女に顔を近づける。
「すでに《静寂》の結界くらいは部屋に付与してあるでしょう。違いますか?」
そのように、ことさら声を潜めて指摘するミスター・ベヘモス。
聖女はちらりと彼の顔を見上げる。
「……意外ですね。魔法の素養も少しはあるようです」
その言葉に、ミスター・ベヘモスは身を起こし、のけぞり気味になる。
「はッ! 私には魔法の素養などといったようなものは無い。あなたがた闇に蠢く者たちなら、当然そのくらいのことをしているであろうと推理したまでさ」
*
ミスター・ベヘモスが口にする侮辱的な響きの言葉にも何ら気をそそられた様子もなく、ミズ・フェニックスこと聖女ユスティエラは椅子に座り直した。
机の上で指を組み、正面からミスター・ベヘモスを見やる。
聖女の体から何かが発散され、自分の体が絡み取られる……そんな感覚を、ミスター・ベヘモスは感じた。
心の中を見透かすような鋭い眼光。自分が心の奥底に隠し、仕舞い込んである意図や本音を刺し貫き、引きずり出し、白日の下でバラバラに分解してしまうような……
かえしのついた長く鋭い刺突武器か、あるいは、かつて他宗や異教への弾圧が激しい時代に存在していたという、フィレオン教会の異端審問官が用いる残酷な拷問器具。そんな鋭利で無慈悲な視線だった。
(この人は、目の前のこの俺の命なんか、何とも思っていない)
本能的にそう感じ、ミスター・ベヘモスは身震いした。
「ミスター・ベヘモス、」
冷たい口調で聖女が言った。その瞬間、ミスター・ベヘモスは背筋に氷でも詰め込まれたように怖気を震った。
「あなたは三つばかり思い違いをしています」
*
聖女は軽いため息をつき、あらためてミスター・ベヘモスを鋭利な視線で刺し貫きながら言う。
「一つ。アンナ・フューゲルが本当は今ごろ死んでいるはずだというのは誤りです。たしかに彼女は首無騎士の致命の一撃を受けました。思い出しなさい――彼女はあの戦いで骨は砕け、内臓は破裂し、生命力を奪われた。そして悪魔教会の壁に激突し、床に落ちて叩きつけられた。そうでしたね?」
(う、うう…………)
聖女の問いかけにも、ミスター・ベヘモスは一言も返事が出来なかった。足はすくみ、冷たい汗が噴出し、口の中がカラカラに乾く。まるで蛇に魅入られた蛙だ。
そんな相手の様子など見慣れているかのように、聖女は目の前の哀れな男の返事を待たずに続けた。
「……しかし彼女の死は決定事項などではなかった。魔銃士バルトの治癒と防御の魔弾によりアンナは守られ、桜花騎士団の残り三人が首無騎士を倒した後、彼らは速やかに傷ついた仲間をフィレオン慈悲病院へと運んだ。そこでアンナは処置を受け、一命をとりとめ、昏睡状態ながら辛うじて命を繋いでいる。それが正確なところです」
事実を羅列し、自分の主張を淡々と粉砕していく聖女に対し、ミスター・ベヘモスは勇気を振り絞って反論しようとする。
「し、しかし……」
ミスター・ベヘモスは、辛うじて喉から声を絞り出す。だが――
*
「二つ」
聖女は哀れな中年男の弱々しい言葉を完全に無視して話を続けた。
「あなたは、私たち――つまりあなた以外の参加者五人ということですが――私たちが結託して、あなたが負けたことにして、自分の財産をむしろうとしている。そう考えている」
断定的に言い切り、聖女はミスター・ベヘモスを見る。ミスター・ベヘモスの足はガクガクと震え、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
「……ですがそれも誤りです。私たちは何も一枚岩というわけではない。ミスター・ドラゴン、ミスター・グリフォン、ミスター・ペガサス、ミセス・マーメイド、そして私――この五人は、たまたまあの場に居合わせ、冒険者たちの戦いを楽しむという意図を持つ。それだけの集まり。決して仲良しクラブなどではない。何のために《隠蔽》の魔法まで使っているのか、お分かりではなかったようですね」
「し、しかし、あなたがたの賭博暦は長い! あの集まりでは、あなたがた五人が固定メンバーであり、六人目は何度も入れ替わっていると聞く。哀れな新参者は古参により金をしぼり取られ、むしられ、破滅して放り出されるわけだ。それは、あなたがたがそのようにしているからだ!」
勇気を振り絞って、ミスター・ベヘモスが声を張り上げた。しかしすぐに、聖女の眼光に射すくめられ、「ひいッ!」と叫んで腰を抜かす。
聖女は立ち上がり、机を回り込んで、へたり込んだ貧相な男を見下ろした。
まるで虫か何かを見るような目だ、とミスター・ベヘモスは思った。
「わかりませんか? たとえそうだとしても、あなたの言う六人目、新参者は、自らの意志で参加し、自らの意志で賭けたのです。誰に騙されたわけでもない。当然、払うのも自らの意志によるものと言わなければならない」
聖女の体が膨れ上がって見える。そのオーラは、聖女の発する神聖なものというよりは、まるで悪魔そのもののように翳りのある恐ろしいものに感じられた。
(こ……怖い…………)
ミスター・ベヘモスは腰を抜かしたまま後ずさった。
*
「三つ」
情けなく震える男――ミスター・ベヘモスこと織物商テクストルを見下ろし、ミズ・フェニックスこと「聖女」ユスティエラ・ル・フィレオンは、ことさら硬い声で告げる。
「この私が東方の者の、つまり異教徒の命など助け、生き長らえさせようとしている――そのような考えが最大の誤りです」




