魔神ロクストゥス(アイリスの回想 その③)
「地下狂皇庁」最深部、最奥の玄室――
半ば朽ちかけた扉にかけられた魔法《施錠》は、驚くことにまだ生きていた。
アイリスは懐から魔法の鍵を取り出し、扉に近づけた。魔力の火花がほとばしり、古めかしい術式の《施錠》が解除される。使い切りの魔法の鍵はボロボロと崩れる。明らかに危険な扉や宝箱、どんな術式が用いられているかわからない錠前などは、安全のため「使い切りの鍵」で開ける冒険者も多い。
これにより、魔法の鍵に紐付けられた疾風怒濤のメンバーはこの扉を開くことができるようになった。朽ちかけているとはいえ、木の扉が何百年も保っていたのも《施錠》の効果だろう。
「軍師」ウィリアムが先頭に立ち、得物である戦斧の斧頭を使って慎重に扉を押し開いた。戦斧を振り回す豪快な前衛タイプでありながら、冷静で慎重な判断力で、ミスのない選択を行うことから「軍師」の二つ名をもって称えられている男だ。扉が開くと同時に、寒々しい瘴気が部屋の中からあふれ出し、四人の足元を浸して流れ出てくる。全員が、かつてないほどの不安と恐怖と忌々しさを覚えていた。
「今すぐここから立ち去りたい」「依頼はいいから、部屋の中に入らず戻ろう」
誰かがそう言ったら、おそらく全員が賛同していただろう。
だが誰も言わなかった――不幸にも。
部屋の中には死体が散乱していた。
その数は6~8体ほど。奇妙なことに、いずれも死んで間もない死体だった。服装は、冒険者風にも見えるが、何かの作業員のようにも見える。首都や大きな街で、建築やら何やらを行うギルドの職人たちのような。
彼らは武具を身につけていなかった。犯罪者でもないし、野盗にも見えない。そんな者たちの、いわば新鮮な死体が散乱している。その瞬間、アイリスの警戒心は閾値を超えた。
「帰ろう――」と言おうとした刹那、死体たちが起き上がった。まるで操り人形が糸によって起き上がるように、不自然な形で――
彼らの目が赤く光る。口を開き、異常に伸びた犬歯――牙を剥き、獰猛な音が喉から漏れる。よだれがだらだらと垂れる。肌は青白く、爪は異様に伸び尖っている。奇妙にねじ曲がった立ち姿と、生者を憎むような表情。
吸血鬼と化した亡者どもだ。
ウィリアムとキーファーが左右に跳んだ。いずれも《防御》《加速》《敏捷》の補助魔法を展開しつつ、吸血鬼たちに先制して武器を振るう。ウィリアムの戦斧とキーファーの剣が、吸血鬼の頭部を叩き潰し、跳ね飛ばした。アイリスは大剣を抜いて補助魔法を展開し、踊るようなステップで正面の吸血鬼の攻撃を避け、遠心力で大剣を振り切って胴体から切断、さらに縦に振り下ろして四分割にする。肉塊と化した低級吸血鬼は動くこともかなわず、バラバラにされた肉体がピクピクと震えるだけだ。
アイリスの姉――マルグレーテは全員への補助魔法を展開、さらに強力な《防御》を自身にかけた。彼女は自分がパーティーの要であることを知っていた。簡単な蘇生魔法までも行使できたので、極端な話マルグレーテさえ生き残っていればなんとかなる――それは彼女自身すら含めて疾風怒濤の共通認識だった。
マルグレーテは《浄火》の魔法を放ち、吸血鬼の一体を焼き尽くす。白い炎が断末魔の叫び声をあげさせる間もなく不浄の存在を消し去っていく。《浄火》はCクラスの対アンデッド攻撃魔法だが、マルグレーテの魔力量と術式の理解の正確さにより、吸血鬼の抵抗力を突破して効果が発揮されていた。
「――なんだ!?」
ウィリアムが声を上げた。玄室の奥を見ると、床の石畳に魔法陣が描かれているようだった。見たこともない魔法陣、そこからほとばしり出る黄色~橙色に光る魔力は、古臭さや黴臭さ、埃臭さすら感じられた。吸血鬼どもは動きを止め、次第に魔法陣へと吸い寄せられている。頭を跳ね飛ばしたり、四分割にまでした吸血鬼の死骸までもが引き寄せられていた。
魔力光とともに瘴気があふれ出し、吸血鬼どもが一気に魔法陣の中に吸い込まれ、塵となって分解され、吸収されていく。魔力が渦巻き、光の中から巨大な何ものかが現れてくる。
――召喚陣。
アイリスはようやくそのことに気づいた。しかも見たこともない召喚陣だった。
そしてそこから現れたのは、黒く巨大な禍々しき影――
「ぐわあああああ!」
魔法陣の中から突如として影の触手が伸び、キーファーの胴を刺し貫いた。絶望の悲鳴をあげ、キーファーは黒い炎に包まれる。キーファーの体はみるみるうちにしぼんでいく。密林に棲む巨大カマキリの牙にかかった哀れな冒険者が体液を吸われる時のように、哀れなキーファーはみるみるうちに骨と皮だけになり、骸骨になり、ボロボロと崩れ去り塵と化し、鎧と兜と剣が床に転がった。
「キーファー!!」
叫んだのはウィリアムだ。しかし、その後の判断は早かった。召喚陣の中の影に突撃し、《鋭利》をかけた斧の一撃で頭部を粉砕しようとする。だが黒い影の触手のほうが一瞬早く、ウィリアムをがんじがらめにする。
「うおおおおッ!!」
「ウィリアムッ!!」
アイリスは叫んだが、脚が動かなかった。あの中にまさに召喚されつつある巨大な魔物は、明らかに圧倒的な存在だった。
魔物は上半身を顕現させ、今まさに下半身を召喚陣から引きずり出そうしていた。頭部にはトサカのような形状があり、瞼の無い目は真円に近く、瞳が無かった。唇のない口は禍々しい牙がむき出しになっており、笑っているように見える。痩せた上半身に、長い両腕。土色の身体。背中には鳥のものとも昆虫のものとも見える、四枚の羽がある。
あきらかに魔王クラスか、もしかしたらそれ以上の――
「ロクストゥス」
マルグレーテがぽつりと言った。アイリスは姉を振り返る。
「姉さん、何て!?」
「ロクストゥス。炎と嵐と疫病を司る、古の魔神。あの神格に勝てる力は、いまの私たちには無い」
召喚士マルグレーテは、長杖を構えながらゆっくりと召喚陣に歩み寄った。触手に絡み取られた「軍師」ウィリアムは戦斧を握りしめていたが、ぐったりとしており今にも気絶しそうだ。キーファーと違って、魔法抵抗力が生死を分けたのだろう。
「このままでは私たちは全滅する。それに、あいつがこの世に出てきたら、私たちだけでは済まない」
魔力の光に包まれたマルグレーテに、魔神ロクストゥスは影の触手を伸ばせないようだ。召喚士と魔神は、渦巻く魔力の奔流の中でにらみ合った。
アイリスはその瞬間、姉が何をしようとしているか悟った。
「やめて、姉さん!」
「さよなら、アイリス。元気で――」
片手をアイリスに、もう一方の手に持った長杖を魔神ロクストゥスに向け、マルグレーテは魔法を行使した。
緑色の魔力光が炸裂し、《瞬間移動》が発動。一瞬の後、ウィリアムとアイリス、マルグレーテと魔神ロクストゥスの姿は玄室から消え去った。




