9 居心地
ジリリリと、目覚まし時計の音が響く。
その音に桂月の意識はフッと浮上し、薄く目を開いた。
締め切ったカーテンの隙間から、朝の陽ざしが射し込んでいるのが見える。
「…………」
夢を見た。悪い方が九割、良い方が一割の夢だ。ほぼほぼ悪夢と言っても良い。
ただ、昔は悪い方しか見ていなかったが、家を出てから良い内容も混ざるようになっていた。
(……全部、黎明のおかげだ)
そんなことを思いながら桂月は上体を起こす。どうにも寝相が悪かったらしく、寝間着の前が開けていた。そこから見える肌には無数の傷痕が残っていた。
自分でつけた傷が半分、つけられた傷が半分だ。神降ろしの術を使うために、桂月の体は傷だらけだった。神降ろしを使えば癒える傷もあるが、降ろした神によっては綺麗に治らないものもある。
だから桂月の身体にはたくさんの傷痕が残っている。
「…………」
自分の体はなんて汚いのだろうかと、服を脱ぐ度に桂月は思う。
傷だらけで、得体の知れない無数の神を身体に降ろして、なんて醜くて、汚れているのだろうか、と。
だから桂月は人から触られることが苦手だし、素手で人を触ることも苦手だ。
自分なんかが誰かが触れたら、その人を汚してしまいそうで怖い。そして自分は汚れているのだと、実感させられてしまうのが苦しい。それが吐き気という形で出るのだ。
直接的な接触を極力避けるために、桂月はいつも肌が見えないように服をしっかり着込み、手袋まで嵌めている。それは夏でも変わらない。
そうすることで少しはマシな気分になれるからだ。
(ああ……嫌だ)
桂月は自分で自分を抱きしめながら、そう思った。
夢を見たくないがために寝付けなくなり、処方してもらった睡眠薬を飲まなければ眠れないほどの状態になっていた。
いつかこの悪夢から解放される時が来るのだろうか。どこまでも続く暗い海の中を藻掻いているような、そんな息苦しさを感じる。
「桂月サーン、朝ご飯ですよー」
黎明の声が聞こえて、ハッと顔を上げた。
「…………ッ、黎明……」
暗闇の中に一筋の光が射し込んだように、彼の声が、存在が、冷え切った気持ちを温めてくれる。
手で喉を抑え、桂月は短く息を吐く。気が付けば息苦しさは消えていた。
自分は本当に、黎明がいなければ生きていることが出来ない。
そう思いながら桂月は一度目を閉じて、
「はーい」
何とか明るい声を絞り出して黎明に返事をすると、ベッドから立ち上がった。
◇ ◇ ◇
その日の朝食はベーコンエッグだった。
黄身は綺麗な半熟具合で、ベーコンもそこそこの厚さである。そこにご飯とお茶だ。実に美味しそうである。桂月が作るといつもコゲコゲになってしまうので、見習いたいものだ。
そんなことを考えながら目玉焼きに塩コショウを振っていると、黎明は醤油をかけながら、思い出したように口を開く。
「ああ、そう言えば、今朝早くに御堂サンから電話が来ましたよ。百合サンたちの意識が戻ったって」
「おや、それは良かった。怪我の具合とか、大丈夫そうですか? 傷痕が残ったりしませんか?」
「ええ。処置が早かったので大丈夫みたいですよ」
「そうですか」
その言葉に桂月は安心した。百合のような女性の体に傷痕が残ったままだったらと、そちらも心配だったのだ。
大丈夫そうなら良かったと桂月が思っていると、
「桂月サンは大丈夫でした? ちゃんと寝れました?」
と黎明が聞いて来た。
桂月は誤魔化そうかと少し迷って、昨日の様子を見られていれば、それは通じないかと思い直す。だから正直に答えることにした。
「まぁ、そこそこ」
「そうですか。それじゃあ、今日はお休みにしましょう。のんびりしていてください」
「おやおや、優しいですね。どうしました? ご褒美が欲しいんですか?」
「まぁご褒美は欲しいですけどね。そうじゃなくて、あんたに元気がないのは気になるんで」
さらりとそう言う黎明に、桂月は目を丸くした。
ごくごく普通の気遣いだが、好きな相手からそれをされるというのは、やはり嬉しいものだ。黎明は少し照れつつ「ではお言葉に甘えましょうかね」と言って、ご飯を一口食べる。
……この時間がずっと続けば良いのに。食べながら、そんなことを思った。
雪宮の家から逃げ出して二年経ったが、未だに桂月は、いつか連れ戻されるのではないかと不安を感じている。
すべてを諦めていたあの頃と違い、今の生活があまりに心地良いからだ。もしも今あの家に連れ戻されたら、きっと自分は正気ではいられなくなるだろう。
もっともその時は、正気じゃなくなった方が良いのかもしれないが。
(……どうも、いつもよりも思考が良くないな。あいつの名前を聞いたせいか)
氷月千明――桂月にとってはあまり聞きたくない名前だ。
あの男は、二年前は氷月家の次期当主という立場だったが、そろそろ正式に就いているだろう。
雪宮家を飛び出す直前に、桂月は父親から「氷月の次期当主の伴侶になれ」と言われたが――時間の流れと共に、あの話も立ち消えていて欲しいものだ。
……自分よりも氷月家の利益になる人間が現れなければ無理だろうな、とも思うけれど。
ただ氷月家の力を使えば、この住処自体は知られているはずだから、強引に踏み込んで来られないだけマシだろうか。
ああ、嫌だ。心の中でそうぼやきながら、桂月はテーブルの端に置いてあるリモコンへ手を伸ばし、気分転換にとテレビを点けた。ぱち、と音を立てて画面が点くと、ちょうどニュースをやっていた。
『猫ちゃん、かわいいですね。それでは次のニュースです。山吹区で連日発生しているアヤカシによる事件についてです。アヤカシ研究の第一人者である氷月コーポレーションの氷月千明社長から、お話を伺うことが出来ました』
――最悪である。
テレビに今一番見たくない男の顔が映ってしまった。
露骨に顔を顰めて固まる桂月を見て、黎明が僅かに腰を浮かせる。そして桂月の手からリモコンをするりと抜くと、電源をぷちっと消した。
「しばらく山吹区の事件は断った方が良さそうですね」
「そうですね。……鉢合わせしない内は、見ない振りをしてくれているのでしょうけれど、会ったらどうなるか分かりませんから」
何度目かになるため息が口から零れた。どうにもこうにも憂鬱だ。そんなことを思っていると、
「桂月ー! 黎明ー! 助けてぇー!」
窓の外から突然、ツキの悲鳴が聞こえて来た。
驚いてそちらを向くと、ちりちりに羽毛の一部を焦がしたツキが、半泣きでぺちぺちと窓を叩いていた。