8 悪夢
人によっては不快感を覚える描写がありますので、お読みいただく際にはご注意ください。
その日の晩、桂月は夢を見た。
ずっと昔から見続けている悪夢だ。
そこにいたのは十三の頃の自分だった。
実家である雪宮家の庭で、桂月は血まみれになって蹲っている。
上半身には刃物による大きな傷が出来ており、そこから血がボタボタと流れ落ちていた。
――否、そこだけではない。腕にも、背中にも、治りきっていない傷痕が多数残っていた。
「あう、ぐ……っ!」
桂月は痛みに喘ぎながら、拳を握りしめる。
それを桂月の父は冷ややかな目で見ていた。
「……情けない。神降ろしのたびに、そのような有り様とは。お前には氷月家に仕える雪宮の人間だという自覚がないのか」
「……ッ、申し訳、ありま、せん……」
「もう一度だ。まだ傷が閉じていないならば出来るだろう」
「………ッ」
嫌だ。
――嫌だ、嫌だ。
これ以上、自分の体に神なんて降ろしたら死んでしまう。
「その身に神を降ろせ、桂月」
しかし心の中で必死にそう訴えても、それを言葉にする勇気は桂月にはない。
そんなものはとっくの昔にへし折られてしまっている。
「……はい」
自分に出来るのは父から許しが出るまで、苦痛に耐えて、耐えて、耐え続けるしかなった。
雪宮の血筋に受け継がれる神降ろし。
それは体に傷をつけ、その傷から神を体に入れて、神の力を行使する術だった。
その術を見た外の人間からは、とても正気で使う術ではないと恐れられるが、まったくもってその通りだと桂月は思う。
しかし桂月の親族たちは、こんなに効率の良い方法なのに周囲はなぜ認めないのか疑問に思っているようだった。
痛みこそ辛いが、それだけだろうと平気な顔で話す父や親族に、桂月は薄ら寒さを感じた。
そんな父から与えられる修行と称した苦痛。
物心ついた頃からずっと続くそれに桂月が憔悴していても、雪宮家の人間は誰も心配することはない。それが当たり前で、自分たちも通った道だったからだ。
桂月に唯一自分に寄り添ってくれたのは黎明だけだった。
黎明は人間と狐のアヤカシの間に生まれた子だ。
アヤカシが事件を起こした現場で、両親を失い呆然としていたところを、雪宮家が引き取ったのだ。桂月の父は「何かで使えるだろう」と言っていた。
それから黎明は歳が近いということで桂月の世話係となった。
「桂月サン、痛み止めです。少しはマシになりますよ。さあ、飲んでください」
「……黎明、黎明。私は、もう、嫌です。あれをやりたくない。死んでしまいたい、死なせてください……お願いします、お願い……」
「大丈夫です、桂月サン。俺がいます。……俺はあんたに死んでほしくないです。俺が、あんたがいないとだめなんです」
黎明が優しくしてくれるから、桂月は唯一、彼にだけは弱音を零すことが出来た。
――苦しいと、辛いと。桂月は何度も黎明に縋った。
そのたびに黎明は悲しい顔で「死なないで」と言ってくれた。
黎明のその言葉だけが、桂月を生に繋ぎとめていたのだ。
思えば黎明への恋心は、そこから来る執着心や依存心のようなものかもしれない。
黎明がいるなら生きていよう。黎明が優しくしてくれるから耐えよう。
その頃の桂月は黎明だけが心の拠り所だった。
そんなある日のことだ。
二十歳の誕生日を迎えた頃、桂月は父の書斎に呼び出された。
「氷月の次期当主の伴侶、ですか?」
「ああ、そうだ。雪宮で一番、神降ろしの才のあるお前が良いと仰ってくださった。氷月に仕える雪宮の人間として、これほど光栄なことはないだろう?」
「…………」
気難しい父が、その日は妙に上機嫌だからおかしいと思ったが、そんな話が来ていたとは。
いつだってこの男は、自分を雪宮の駒としか思っていない。怒りと、諦めと、吐き気が桂月の胸の中に一気に渦巻く。
それを呑み込んで、桂月は「承知しました」と父に頭を下げた。
◇ ◇ ◇
氷月家はアヤカシの研究や討伐を行っている家で、雪宮家とは主と従の関係になる。
雪宮家は古い時代から氷月家に仕えており、ほとんどの人間がそのことに誇りを持っていた。
桂月の父でさえ、氷月に褒められれば飼いならされた犬のように喜ぶ。
――実に滑稽だ。
気味が悪いほどの笑顔を浮かべる父を見る度に、桂月はそう思っていた。
今回もそうだ。自分の息子が雪宮家の当主の伴侶に選ばれて、きっと氷月家の前で泣いて喜んだのだろう。
父の書斎を出た後、桂月は屋敷の中にいたくなくて庭に出たところで、黎明と出くわした。
庭掃除を押し付けられていたようで、手には竹箒を持っている。
黎明は屋敷に引き取られてからずっと、お世辞にも褒められたものではない扱いを受けていた。
理由は彼の母にある。
黎明の母は桂月の父の秘書だった。雪宮家と古い付き合いのある夏生家の出身の黎明の母は、幼い頃から父を補佐するようにと育てられていたらしい。
父は黎明の母を愛していたが、雪宮家のために桂月の母と結婚した。
しかし、そうなっても黎明の母を手放すことが出来ず、ずっとそばに置いていた――らしい。
それだけでも最低だが、相思相愛というわけでもなく、黎明の母の方はそんな父を嫌っていたそうだ。
そして彼女はある日、偶然出会った狐のアヤカシの男と恋に落ちた。当然ながら桂月の父は二人の関係を認めなかったし、夏生家の方も同様の判断だった。
だから二人は駆け落ちして黎明が生まれた。そして黎明が十二歳の時に、彼の両親はアヤカシに襲われ命を落としたのだ。
そこへ駆けつけた父や守護隊によって黎明は救助され、そのまま雪宮家で引き取られたというわけである。
父は何かに使えるからと言っていたが、たぶんそれだけではない。父の黎明への態度は冷たいが、時折、彼の向こうに誰かを見ているような目をする時がある。恐らく黎明の母への未練と、彼女を奪った彼の父への一方的な憎しみで、そうしたのだろうと桂月は思っている。
雪宮家は歪んでいる。その事実をまざまざと見せつけられているようだった。
「桂月サン、お話が終わったんですね」
「ええ……」
「……めちゃくちゃ機嫌が悪いですけど、何を言われたんですか?」
陰鬱な気分で頷くと、黎明は軽く首を傾げてそう聞いてきた。
「氷月の次期当主の伴侶になれ、と言われました」
「伴侶?」
桂月がそう答えると、黎明は目を丸くした。
「……氷月の次期当主って、千明サンでしたっけ?」
「そうですね」
「あの人、男ですよ」
「ええ、男ですね」
氷月千明――氷月家の次期当主で、桂月の四つ年上の男だ。
真面目で、目的のためなら手段を選ばない冷徹さを持っていて、そして氷月家至上主義の人間だ。
桂月も幼い頃から知っていて、行事の度に顔を合わせていた。
けれども桂月は千明が嫌いだった。氷月家のためなら何でも出来るとの態度が父を彷彿とさせるし、何よりも、何を考えているか分からないのが特に苦手だ。
偉そうな物言いも――まぁこれに関しては桂月も人のことは言えないが――好きではない。
そんな男の伴侶になれと父は桂月に言ったのである。
「……雪宮では、たまにあるんですよ、そういうこと。神降ろしで神を降ろせば、同性でも子を成せる。神には両性もいますからね」
髪をかき上げながら、ふう、と息を吐いて桂月は話を続ける。
神降ろしで体に神を降ろすと、一時的ではあるが肉体がその神に合わせて変化する。
雪宮家では古くから、同性同士で子を成そうとする際には、神降ろしがその手段としても使われていた。
伴侶の性別に合わせて自分の体を変化させる。そうして神卸ろしの才能や霊力の強い者たちで子を成し、雪宮家は続いていた。
――ああ、心底、気持ちが悪い。
「ずっと神降ろしをしたままってことですか!? そんなことをしたら桂月サン、死んでしまうじゃないですか!」
すると珍しく黎明が声を荒げた。桂月は驚いて目を丸くする。
神降ろしは体に負担をかける。しかも神を降ろす際に、自分の体に傷をつける必要がある。子を作ろうとするならば、生まれるまでずっとその状態を維持しなければならない。
神を降ろしている最中なら良いが、解いた直後に死亡するなんてことは、雪宮家に綴られた記録にも何件かあった。
桂月は諦めたように肩をすくめる。
「力の強い跡継ぎさえ出来れば良いんですよ、雪宮も氷月もね」
「そんな馬鹿な話が……!」
黎明は目を吊り上げて怒ってくれている。ややダウナー気質な彼にしては、本当に珍しいことだ。
自分のために怒りを露にしている黎明を桂月は嬉しく思ってしまった。そんな場合ではないと分かってはいるけれども、本当に嬉しかったのだ。
だから本音が零れたのだ。
「……ねぇ、黎明。私を連れ出してくれませんか」
「――――」
それはほんの我儘だった。叶うことなどないと分かっている願いだった。
雪宮家を出て、黎明と一緒にどこか遠くへ行ってしまいたい。そう思うようになったのは、果たしていつの頃からだったか。
軽く目を見開いた黎明を見て、
(ああ、困らせてしまった)
と、桂月は申し訳なく思いながら、作った笑顔を顔に貼り付けて軽く手を開く。
「……なーんて、冗談ですよ、冗談。まぁほどほどに上手くやってみせますよ。それに氷月家に移れば、これまでのような修行だってそんなに」
「行きましょうか」
空回りのように明るく振舞っていたら、黎明からそう言われた。思わず桂月は「え?」と聞き返し、彼を見上げる。黎明は真っ直ぐに桂月を見下ろしていた。
「外ですよ、外。行きましょうか、桂月サン」
「…………え」
ポカンと口が空いた。
黎明はそんな桂月に向かって言葉を続ける。真剣に、真っ直ぐに。
「俺は桂月サンだけが大事です。だから桂月サンが行きたいと望むのならばどこまでも連れて行きます」
「え、あ……」
「桂月サン。あんたが誰にも触られたくないと思っているのは知っています。だけど今だけ目を瞑ってください」
「黎明、あなた」
「口、閉じていて」
黎明はそう言うと、桂月の身体をその両腕で抱き上げて、
「行きますよ!」
屋敷の塀を、人間離れした実にアヤカシらしい脚力で軽々と飛び越えて、桂月を外の世界へ連れ出してくれたのだ。




