18 氷月邸
作戦の決行日は、百合から依頼を受けてから一週間後だった。
その日、出来る限りの協力依頼と根回しを終えた桂月と黎明は、山吹区にある氷月邸へを訪れた。
立派な門構えの古風なその屋敷には、桂月も父に連れられて何度か入ったことがある。しかし、良い思い出は一つもない。本音を言えば、二度と近付きたくなかった場所でもある。
(こうして目の前にすると、やはりだいぶ緊張しますね……)
もしかしたら恐怖心の方かもしれない。屋敷を見ていると、鞄を持つ手に自然と力が入ってしまう。
この鞄の中には大量の仕事の依頼書が入ってる。すべて桂月霊能事務所に正式に届いたアヤカシ絡みの依頼だ。
これが今回の作戦の肝だった。
大和守護隊と氷月家の企みを暴こうと考えた時、桂月が最も重要視したのは法律を守ることだった。
相手が法律を犯しているからと、自分たちもそうすれば、こちら側の正当性が失われる。言ってしまえば付け入る隙を与えてしまうのだ。
これは別に守護隊や氷月家だけではなく世間も対象としている。
人は正義と言う名の無関係な暴力で、安全な立ち位置から叩きやすいものを叩く。それで壊れてしまった者が多くいることも桂月は知っている。
桔梗区はそういう者たちが集まる場所だった。
行き場がなくなった者の受け皿、とも言えるのだろうか。そういう一面もあって他の区からは下に見られている。
話は戻るが、今回の件が公になれば確実に、大和守護隊は世間から吊し上げられる。
メディアは煽るだろうし、それに乗せられた者達は義憤に駆られて叩くだろう。
その叩かれる者の中には百合も入っている。
彼女の行動を称賛する者も多いだろうが、それでも内外問わず彼女も責める声があるだろうと桂月は考える。
百合は桂月が思ったよりも重い過去を持っていたし、精神面も意外と強そうだが、それでもきっと耐えられるものではない。
だからこそ正当な手段を取る必要があるのだ。法律は、法律を守る者を守る。守らないものを守らない。そういうものだ。だからこそ両者の違いを、はっきりと分かる形で見せなければならないのである。
(彼女の過去に関しては……どこまで掘り返されるか分かりませんが)
さすがにそこまでは桂月もどうにもできない。守ることが出来るのは現在だけだ。ただこれはあくまで保険である。今回の件を暴いたとしても、公にならない可能性も高い。
ふー、と長く息を吐いて、桂月は黎明の方へ顔を向ける。
「……黎明。私の顔、ちゃんと生きていますか?」
「強張ってはいますが、この間よりは良いですね」
「それは何より。正直に言いますと、今にも足がガクガクと震え出しそうですよ」
「その時は俺が抱えて行きますよ」
「おやおや。私の狐君は心強いですねぇ。……吐かないように気を付けます」
そんなやり取りを交わしながら桂月はふと、多少の軽口は叩けるくらいの余裕があることに気が付いた。恐怖心は抱いているが、それでも以前と比べてだいぶマシだ。
黎明が傍にいるからか、桔梗区の仲間の協力があるからか、自分でも覚悟を決めたからか。まぁ、全部かもしれない。
桂月は軽く深呼吸をして気持ちを整えると「行きましょう」と黎明に声を掛けて歩き出した。彼は「はーい」と桂月のすぐ後ろをついて来る。
その足音と気配に安心感を覚えながら、桂月は氷月邸の門に設置されたインターホンを押す。ピンポーンと古い佇まいの屋敷にしては、やけに現代的な音が響き、ややあって『はい、どちらさまでしょうか?』との返答があった。
この声は氷月家で古くから仕えている使用人だろう。聞き覚えがある。
「突然の訪問を申し訳ありません。私、桂月探偵事務所の雪宮桂月と申します。氷月千明さんにご相談があって参りました」
殊更笑顔で桂月は言う。するとインターホンの向こうから『雪宮桂月様……!?』と声が聞こえてきた。いつの間に自分は「様」付けで呼ばれるようになったのだろうか。嫌だなぁと思いながら待っていると、『ようこそいらっしゃました。どうぞ中へお入りください』との返事があって門が自動で開く。
「ここ、自動になったんですね」
「ですねぇ。この門みたいに、考え方も現代的になれば良いのにと思いますよ」
「無理でしょ。お堅いんですから」
「おや。あなたも言うようになりましたねぇ」
氷月に対してのそんな嫌味を零しながら、桂月たちは門をくぐった。
◇ ◇ ◇
氷月邸の中へは、桂月が考えていたよりもあっさりと入ることが出来た。
遠巻きに自分たちを見る視線を感じながら、桂月と黎明が使用人について行く。すると客間へと案内された。使用人は「千明様より、こちらでお待ちくださいとの事です」と言い、二人分のお茶を出して部屋を出て行く。
「……これ、何か盛っています?」
「変な匂いはしませんね。まぁでも、ここで出されたものに口をつける気にはなれませんけど」
「それは確かに」
食べ物や飲み物に何も入っていなくても、ここで出されたものを食べる気にはなれない。もちろん食材に申し訳ない気持ちにはなるけれど。
(さて……)
それでは、と桂月は部屋の中を見回した。品の良い掛け軸や盆栽などが綺麗に飾られた、いかにもな和室だ。障子戸の向こうには廊下を跨いで庭も見える。ここならば万が一の場合になっても比較的逃げやすそうだ。声を張り上げれば外にも届くだろう。場所は悪くない。
「それで黎明、ここにあの人はいますか?」
「匂いは感じますね。奥の方だと思いますす」
「なるほど、素晴らしい」
黎明を褒めて、桂月はちらりと腕時計に目を落とした。時間は午後二時を少し回ったくらいだ。
(――そろそろか)
心の中でそう呟いた時、足音が聞こえてくる。ああ、来たか。音の方へ視線を向けると、ややあって障子戸が開いた。そしてそこにいた人物を見て桂月は「おや」と軽く目を見張った。何故なら氷月千秋以外に、御堂藍の姿まであったからだ。
「これはまた珍しい組み合わせですね」
皮肉交じりにそう呟く。桂月たちが来てからそう時間は経っていないため、連絡をもらってやって来たというわけではないだろう。元々この屋敷にいたと考えるのが妥当だ。ただ守護隊の制服を着ているため、遊びに来ていたというわけではなさそうだ。
とは言え、この辺りも想定内だ。むしろ最初から姿を見せてくれていた方が、変に警戒をしなくて済むのでありがたい。
そう思いながら桂月はにこりと笑みを浮かべて、
「お邪魔しています、千明さん、御堂君」
と挨拶をした。御堂はにこっと笑ってくれたが、千明は無表情のまま、
「……まさか正面から来るとは思わなかったよ」
と言うとテーブルを挟んで桂月たちの正面に腰を下ろした。御堂は障子戸を閉めると、そのままそこへ座る。綺麗に逃げ道を塞がれたものだな、なんて感想を桂月は心の中で呟きつつ千明の方を見た。相変わらず表情からは何を考えているか読み辛い。
「それで? 忠告をしてあげたのに、私に一体何の用事だね、伴侶殿」
「その呼び方やめてもらえます? 不快なんで」
「以前に名前で呼んだら、それこそ不快そうにしていただろうに」
「比べたら名前の方がマシですよ」
桂月がそう言うと、千明は顎に手を当てて少し考えて「そうか、分かった」と頷いた。
……今のはどういう反応なのだと思いながら、桂月は鞄から依頼書の束を取り出し、テーブルの上に置いた。
「それは?」
「私の事務所で引受けた仕事の依頼書です。ここ最近、山吹区ではアヤカシの騒動が増えているでしょう? そのせいか、こーんなに調査依頼が来ているんですよ。いやぁ、猫の手も借りたいってこのことですよねぇ」
「ちょっと桂月サン? 狐の手だけで十分でしょ」
「お前は事務作業なんてほとんどしないでしょ」
「向いていないんで」
「……イチャつきに来たならばお帰りいただくが?」
すると、小さくため息をついて千明がそう言った。この男にしては珍しい言い方だ。少し意外に思いながら「失礼」と桂月は言って、その依頼書の束に手を乗せる。
この依頼書はすべて本物だ。桔梗区の知り合いに頼んで、各方面から集めてもらった正式な仕事の依頼なのである。
「話を戻します。うちに相談のあった事件を調査したところ、その現場の中心に氷月の屋敷があるのですよ」
「…………」
千明の目が軽く細まる。聞き流されていないようで何よりだ。桂月はパッと笑顔を作って「と言うわけで」と明るく言う。
「依頼人のためにも調査のご協力を願いたく、こうしてお邪魔したというわけです」
「……なるほど。どんな方法を使ったかは知らないが、ずいぶんと手の込んだことをするね」
「おやおや、手の込んだなんて人聞きの悪い。私はただ普通に仕事をしただけですよ?」
「ふむ。……あくまで協力、ということか」
「そうですね」
「それではお断りさせていただこう」
千明の言葉に、でしょうね、と桂月は思う。調べさせてくれと頼んで「いいですよ」と返事をする相手ならば、桂月だってここまでのことはしない。
それでは次の手を……と考えた時、黎明の携帯電話が鳴った。
「ちょっと黎明。マナーモードにしなさいと言っておいたでしょう?」
「すみません。……うわ」
「何です?」
「……大家さんなんですけど。今月分の家賃、ちゃんと払いました?」
「え? 払って……払って……あれ? どうでしたっけ」
「……あの、千明サン、申し訳ないんですが、ちょっとこれだけ出させてもらってもいいですか?」
「どうぞ」
「すみません」
黎明はそう言うと、携帯電話を持って部屋の隅へ移動した。そこで「はい、黎明です。はい。はい……いや、その……」なんて話をしている。少しして黎明は話を終えて戻ってくると「催促でしたよ」と肩をすくめた。
すると、それを聞いていた千明が、はぁ、とため息を吐く。
「仕事がたくさんあると言っていたが?」
「お金って儚いものですよねぇ。すぐになくなっちゃうんですよ」
「桂月さん、浪費家ですからねぇ……」
「酷いですね、御堂君。経済を回していると言ってくださいよ」
千明に続いて、今まで黙っていた御堂にまで呆れた様子で言われてしまった。ただ、さすがにそこまで言われる筋合いはない。桂月が口を尖らせると、御堂はくつくつ笑った後で、
「――で? そこまで桂月さんが落ち着いている理由は何ですか?」
先ほどとは表情をがらりと変えて、まるで捕食者のように目を細めた。