バレンティーナ·オルガは悪女なお姉様
天井から下がったシャンデリアが丸く開いた空間を照らしていた。とある学園の卒業パーティにて、寄り添った男女と、対峙するように立つ一人の令嬢がスポットライトに狙い打たれるように注目を集めている。
「すまない、ジェマ。私はキャサリンとの真実の愛に目覚めたのだ。君と結婚することは出来ない……っ」
「ごめんなさい、ジェマ嬢。貴女は私のことなどお嫌いですよね……ですが、これは運命なのです。お願いですから、私たちのことを認めてください……!」
哀れっぽく言い募る二人にジェマと呼ばれた令嬢はただ立ち尽くしていた。彼らが婚約者である彼女を差し置いて親密だということは噂に聞いていた。しかしこれは、政略により結ばれた婚約なのだ。貴族である以上はその責務を全うしようと、学生の間の火遊びくらい多目に見なければと、そう考えて見て見ぬふりをしてきたのだ。
だというのに、この晴れの舞台で。よくもまぁ、こんなことを。
目の前が真っ暗になって何も考えられなくなる。怒りと失望がないまぜになって頭がくらくらとしていた。そんな時のことだ。
「あら、なぁに? 茶番?」
妖艶な声がその場の全ての耳朶を引くように集めた。集まっていた誰もがそちらを振り返る。コツン、とピンヒールの鳴る音に気付いた人垣が、そうすることが決まっているかのように自然と左右に分かれた。
コツ、コツ、ともったいつけるほどにゆっくりと、赤いピンヒールが舞台へと女優を運んでくる。光沢のある真っ黒な毛皮のコートがゆらゆらとひらめいた。ワインレッドのマーメイドドレスには大胆なスリットが入れられており、時折見える肌は眩暈がするほどに白く美しい。
ランウェイを歩くが如く足を進めながら、彼女は腰の辺りまで伸びたドレスよりも深い紅の髪を緩くかきあげた。その仕草に、多くが悲鳴を呑み込む。騒めきが起こることはない。彼女の許可なく誰もさえずってはならないのだから。
カン、と大理石の床が一つ鳴り響く。ようやっと足を止めた彼女の前には、変わらず三人の若人が立っている。一組の男女が寄り添い、その前にジェマが立ちすくんでいるという配置だ。
ジェマは彼女を見るなり強張っていた表情を解いた。張りつめていた気が緩んだのか、目元が化粧ではない理由で微かにきらめいていた。攻撃的なほどに赤いルージュで彩られた唇が、開かれる。
「それで? わたくしのかわいい小鳥に、何をしているのかしら?」
グリーンアイがとろりと溶けるように微笑む。そうするとキツイ印象を与える吊り気味の目が、途端に慈愛に満ちた眼差しへと変わるのだ。
彼女の名はバレンティーナ・オルガ。世にも名高い女男爵である。男爵令嬢ではなく、彼女自身が男爵の称号を持つ、この世界においてもかなり珍しい女性だった。
バレンティーナの問いかけに沈黙が流れる中、ほど近くに立っていた一人の令息が静かに挙手をした。バレンティーナは一つ目を瞬き、そちらに身体を向ける。
「どうぞ? 説明して頂戴な、サイモン。わたくしのかわいい子犬」
「ありがとうございます、レディ・オルガ。そちらの恥知らずどもはロバート・ペイジ子爵令息とキャサリン・ブライ男爵令嬢。ご承知の通り、男の方は貴女様の小鳥、ジェマ・エバンス子爵令嬢の婚約者です……でした、と申し上げた方がより正確でしょうか?」
サイモンと呼ばれた令息の言葉はのっけから攻撃的であった。彼はこの茶番劇に苛立っていた一人なのだろう。言いながらちらりとロバートとキャサリンに目を向ける。はっきりと敵意の乗った視線に刺されて我に返ったのか、ロバートが口を開きかけた。
「そ、そうだ、私は――」
「この男は婚約者がいるにも関わらず他の女と浮気した挙句に、ジェマ嬢を晒し者にしようとこの卒業パーティーの場で婚約破棄を申し出ました――どうやらペイジ家がエバンス家から受けた恩をすっかり忘れていらっしゃるご様子」
繰り言になるが、ロバートとジェマは政略により結ばれた婚約だった。二人の家は共に子爵だが、ペイジ家は事業に失敗して多額の負債を抱えてしまったのである。
そこに手を差し伸べたのが、ジェマのエバンス家だ。エバンス家にはジェマしか子どもがおらず、外から婿を迎える必要があったのである。ロバートを入婿とする代わりに、ペイジ家はエバンス家から援助を受けてなんとか家を立て直したのだ。その為、元々エバンス家に有利となるように結ばれた契約だったのだ。
サイモンはあぁ、と何か思い出したように口元に手を当てた。そうして芝居がかった仕草で目を伏せる。
「いえ、彼は恩を忘れていたのではなく、エバンス家からの施しがお気に召さなかったのでしたか。そう言えば、ジェマ嬢に度々キャサリン嬢を見習って男を立てよなどとおっしゃっておいででしたね。キャサリン嬢もジェマ嬢が嫉妬して自分に嫌がらせをしてきたとかなんとか……なんでもお二人は真実の愛で結ばれており、ジェマ嬢はそれを引き裂く悪女だそうで」
『真実の愛』というワードを口にする際、彼はしっかりと鼻先で嘲って見せた。近くにいた複数名が失笑を零す。
ロバートはエバンス家――つまりは女であるジェマを優位としたこの婚約に端から納得がいっていなかったのだ。どんな時でも女は男を立てるべきだとそんな風に考えていたのである。度々理由をつけてはジェマを適当に扱い、当主である父に叱責を受けていた。
しかし父親の教育の甲斐なく、学園へと入学した際にキャサリンと出会ってしまう。キャサリンはロバートが理想とする、か弱くて男を立てるのが上手い女の子だった。最初はジェマへの当てつけとして仲良くしていただけだったのだが、段々とのめり込んでいってしまったのである。
「あら、笑ってしまっては失礼だわ。真実の愛は祝福されるべきよ……皆さま、そう思いますでしょう?」
観客へと水を向けるバレンティーナにはその昔、全く同じ理由で婚約破棄に至った過去があることで有名だ。その際に、元婚約者殿から譲り受けた領地にて商会を立ち上げ、卒業から僅かに二年で男爵の地位を得たのだ。
「そうよね。真実の愛は結ばれるべきものよね。でも、その過程で誰かを悪役にするのは、果たして正しいことなのかしら? こんな場でわたくしのかわいい小鳥をいじめる必要はあったのかしら?」
バレンティーナは優雅な動作で羽織っていたコートを脱いだ。一瞬観客は騒めいたが、直ぐに静かになる。お利巧な彼らに笑いかけ、彼女はそのコートを震える小鳥の肩にそっとかけた。そのまま抱きしめるようにして身体へと腕を回す。
「こんなに震えて……ねぇ、わたくしの小鳥。貴女はこんな風に扱われるような生き方をしてきたのかしら?」
するりとジェマの身体を這った腕が彼女の身体をバレンティーナの方へと向ける。元々の身長差に加え、ヒールのせいで彼女らの頭は二十センチほど離れていた。顎にかかった手が、ジェマの顔を上向かせる。
間近に迫った世紀の美貌にジェマの顔は爆発するように赤く染まった。その頬をするりと細い指が撫でる。
「答えて頂戴な、わたくしのかわいい小鳥。貴女は彼らにこんな、ひどく報復されるようなことをしたの?」
「ッ、いいえ! わたくしは何ら恥ずべきことなどしておりませんわ!」
会場を駆け抜けた声に、バレンティーナは静かに微笑む。そうしてそっとジェマの唇に人差し指をあてた。
「淑女がそのように声を荒らげてはならないわ。わたくしはそう教えたわね?」
「ぁ……はい。申し訳、ございません、お姉様」
ジェマはバレンティーナのことをお姉様と呼んだが、家名からもわかる通り彼女らに血の繋がりはない。バレンティーナは彼女が愛でる小鳥と子犬たちのお姉様なのである。
しゅん、とわかりやすく落ち込んだ様子のジェマをバレンティーナはぎゅっと抱き締める。慈愛に満ちたその姿はまるで宗教画に描かれる聖母のよう。
「いい子ね、わたくしの小鳥。自分を省みることの出来る貴女はとっても素敵な女性だわ」
「お姉様……」
ジェマの涙腺がたちまちに緩んでいく。前々からロバートの心が離れているのには気づいていた。それでも学生の間だけの火遊びだと、信じていたかったのだ。
だというのに、彼はジェマをひどく傷つけることを選んだ。各々の家で話し合えばいいだけのことを、ジェマを独り公衆の面前で晒し者にしたのだ。ただの浮気を『真実の愛』『運命』などとお綺麗に飾り付けて。嫉妬からキャサリンを虐げたと、ジェマを悪女にしたて上げようとした。
ジェマはエバンス家のただ一人の子どもとして、この婚約の重要性を正しく理解していたのだ。これは家を繋ぐため、次代の子爵を産むための婚姻。
貴族として受けてきた恩恵を、民へと返すために必要なことであれば。例えこれが恋でなくとも。役目をまっとうしなければと、そう思って耐えてきたのだ。
その結果が、公衆の面前での婚約破棄である。
零れ落ちた涙を隠すように、バレンティーナは彼女の顔を己の豊満な胸に押し付ける。この世の全ての幸せはここにふかふかと詰め込まれているに違いなかった。そうして、バレンティーナは囁く。
「アレに未練はあるかしら?」
「っ、いいえ……いいえ。未練などこれっぽっちもありませんわ」
否定は早ければ早いほどいい。お姉様はアレらを不快に思っておいでだ。ジェマがいつまでも未練たらしくいては、お姉様が気持ちよくお片づけ出来ないではないか。
「そう……なら、いいわよね、わたくしのかわいい小鳥?」
こくりと頷いたジェマの額にバレンティーナがキスを落とし、身体を離した。艶やかな唇の触れた場所が発火しそうなほどに熱を持つ。ジェマは卒倒しそうだったが、お姉様の小鳥はこんな場で無様に意識を飛ばしてはならないのだ。
「さて、お二方」
バレンティーナがとうとうロバートとキャサリンに水を向けた。完全に蚊帳の外へと追いやられていた二人に、衆目が突き刺さる。その冷たさに二人は身震いしていた。
「お二方は真実の愛で結ばれる運命なのですってね。まぁ、なんて尊くて素敵な二人なのかしら」
ちっともそう思っていない声と目で、バレンティーナは歌うように言葉を紡ぐ。まるで感じ入ったかのように、ぱちんと顔の横で両手を合わせた。
「っ、貴女には関係のないことでしょう、レディ・オルガ。そもそもなぜ、この場に?」
「そうね、わたくしと貴方たち二人はちっとも。そう、ちぃっとも関係ないわ。でもね、貴方の婚約者であるジェマはわたくしのかわいいかわいい小鳥なのよ。そもそもわたくしは来賓としてこの場に招かれていたの。だってわたくしここの卒業生だもの、知らなかったのかしら?」
何とか捻りだした反論も簡単に叩き落される。それどころかお前らなぞ知ったことかと念入りに突き付けられた。これには彼の腕の中に守られていたキャサリンもたまりかねて声を上げた。
「レディ・オルガ、ジェマ嬢は私たちの愛を引き裂こうとしたのです……そのためとはいえ私に嫌がらせまで……っ」
「キャサリン……」
キャサリンは目を潤ませて言葉を詰まらせた。耐えられないとでも言うように視線をそらし、口元を押さえる。
キャサリンは子爵家とお近づきになれるこの機会を逃したくなどなかった。ペイジ家がエバンス家から援助を受けていることを『お金で縛るなんてひどい』とあげつらい、ロバートの共感を誘った。後は彼のやることなすこと肯定して、時折今のように『ジェマ嬢がこんな……』と悲しそうな顔でうつむいて見せればよかったのだ。
格上の家と縁を繋げること。家格が上のジェマを差し置いてロバートに選ばれたこと。それらの優越感が、彼女を盲目的にしていた。彼女にとっては金でロバートを縛るジェマこそが正しく悪役だったのだ。
子猫のように震えるキャサリンをロバートはぎゅっと抱き締め、キッとジェマの方を睨んだ。が、ジェマではなくバレンティーナと視線がぶつかり、息を呑む。凪いだグリーンアイがじっと彼らを見つめていた。
「どうぞ、続けて頂戴な? わたくしの小鳥が何をしたと?」
「あっ、えっと……私とロバートの間に入ろうとしたり、私の持ち物を壊したりしたんですっ、私、その、怖くて……えっと、」
先ほどまでの演技ではなく本当にしどろもどろになりながら言葉を紡ぐ。ジェマは静かに首を横に振った。当然身に覚えなどないことだ。バレンティーナに認められた小鳥が、そんなちっぽけな悪事をするはずもない。
バレンティーナはふふ、と小さく笑う。素知らぬ顔で、でもどこか楽しそうに。
「あらそうなの? でも貴女たちは真実の愛で結ばれているのだから、そのくらい乗り越えてみせなくては。ねぇ、皆さま?」
バレンティーナの合図に、小鳥たちが一斉にさえずり出す。
「えぇ、本当に。何て言ったって真実の愛なのだもの」
「たとえ皆がそれを虚偽だと知っていたとしてもロバート令息だけはキャサリン嬢を信じて差し上げねば。何せ真実の愛なのだから」
「あぁ、何と麗しきこと。これぞ正しく真実の愛なのでしょうね」
子犬たちもこぞって二人を追い立てる。ざわざわと深い森に迷い込んだかのような不安が押し寄せてくる。
「えぇ、えぇ、彼らは永遠に共にあるべきだわ。何せ真実の愛だもの」
繰り返される度に嘲笑が混じり、侮蔑が混じり、ひどく薄っぺらくなっていく。信じていたはずのそれに一切の容赦なくひびが入れられていく。
「でもその前に清算をしなくてはね?」
バレンティーナのその言葉に波が引くように声が止んだ。彼女は悲しそうに目を伏せてみせた。
「たとえ真実の愛だとしても、婚約者様のいる令息に手を出すのは世間一般的には浮気だわ……とっても悲しいことね。もっと早く出会っていればよかったのに、運命というのは悪戯だこと」
もはや舞台に立っているのはバレンティーナだけだ。愛憎劇はとうに喜劇へと切り替わっていた。彼女はジェマを振り返る。
「ジェマ、わたくしのかわいい小鳥。貴女は何を望むのかしら?」
「……わたくしに一切の疵を残さない婚約破棄を」
「それは当然のことだわ、小鳥。欲のない貴女も貞淑で素敵だけれど、今は素直なかわいい貴女の我が儘を聞きたいわ」
こてりとバレンティーナが首を傾げる。ただそれだけの仕草から漂う色香にくらりと目眩がした。ジェマは回らない頭を必死に動かして、お姉様の望む答えを探そうとする。
「そう、ですね。では…………わたくしは、お二人の幸福をこそ望みます」
バレンティーナが目を見開いた。麗しいお姉様もそうしていると雰囲気が和らいで愛らしくも見える。が、直ぐにジェマの意思を汲み取ってくれたらしい。ふ、と唇に笑みを乗せた。
「まぁ、なんて慈悲深きこと。流石はわたくしの小鳥だわ……そうね。そうよね。真実の愛で結ばれた二人は幸せになるべきだわ」
バレンティーナはくるりと運命の二人を振り返った。そうして大仰な仕草で両手を広げる。
「さぁ、皆さま方。真実の愛の元、結ばれた運命の二人――ロバート·ペイジ子爵令息とキャサリン・ブライ男爵令嬢を祝福いたしましょう? 病める時も貧しい時も、どんな困難の中ですら、彼らが共に幸福でありますように」
バレンティーナは己の背後を手のひらで指し示した。観客たちが左右に分かれたまま出来た道が、そのままそこに残っている。彼女はロバートとキャサリンにここを通って退場しろと言っているのだ。
この冷たい視線の雨の中。ひそひそと小鳥たちがさえずる暗い森の中を。二人、手を取り合って。
「…………っ、」
ロバートはぶるりと身震いした。キャサリンも動けずに固まっていると、ぱちぱちと誰からともなく拍手が鳴り出す。
最初は疎らに。段々と大きく、ぴたりと揃って。まるで、子犬が獲物を追い立てるように。
ややあって、二人はとうとう足を踏み出した。キャサリンはヒールを履いているため、走ることはできない。暗い花道を歩む二人に、祝福の声が飛び交う。
「真実の愛で結ばれた二人に祝福を!」
「いつまでも二人仲良く、お幸せに!」
二人はうつむいて必死に足を動かした。ようやっと扉の前にたどり着くころには、繋いだ手の中にびっしょりと汗をかいていた。
控えていたドアマンがやけにゆっくりと扉を開く。外へと踏み出した背中に、凛とした声が落とされた。
「では、お二方…………どうぞ、末永くお幸せに」
ようやっと舞台から逃げ出した二人に待っていたのは幸せになる為の試練の日々だ。
次の日には全面的にロバートの有責でジェマとの婚約は破棄された。ペイジ子爵家とブライ男爵家はエバンス子爵家に決して少なくない慰謝料を支払うこととなる。当然それは当事者である二人に課せられたものだ。
ペイジ家とブライ家はロバートとキャサリンを速やかに結婚させた。式など挙げさせず、籍だけ入れるとペイジ家の所有する領地の片隅に二人を押し込んだのである。彼らはここで両家が立て替えた慰謝料を支払うために働かなければならなかった。
思い描いていたものとは遠く離れた日々に二人は途方に暮れていた。住む場所は大きなお屋敷から、隙間風が吹き込む小さな小屋に。ロバートは日雇いの肉体労働へ、キャサリンは酒場へと働きに出る毎日。
使用人を雇うことなど到底出来ず、洗濯も掃除も自分たちでやるしかない。仕事を終えて空腹を抱えて帰ってきても、食事の準備すら自分でしなければならないのだ。
お互い家に助力を乞うことは出来ない。いくらこれが真実の愛と主張したところで、書類上は浮気による婚約破棄なのだ。両家ともに二人に対して怒り狂っている。
特にエバンス家に多大な恩があるペイジ家はロバートを殺しかねない勢いだった。ジェマが二人の幸せを望んでいなければ、彼の身体はどぶ川にでも俯せに浮かんでいたことだろう。援助など申し込もうものなら、情けとして残されている貴族籍すら引き抜かれるに違いなかった。
貴族の子女として育ってきた彼らには想像も出来なかったほど辛い日々だが、逃げ出すことなど出来はしない。両家が見張りを立てているというのもあるが、それ以上に。
「まぁ、見まして? あれが真実の愛の元に結ばれた運命の二人でしてよ」
「ふぅん、案外普通の夫婦と変わり映えしませんのね。それどころか……ねぇ?」
そこかしこでひそひそと声が聞こえてくる。真実の愛、真実の愛とそればかりだ。そんなもの彼らの間にあった試しなどないというのに。ジェマを障害とすることでしか燃え上がれない、火遊びだったのだ。労働に流す汗と後悔の涙の下で、音を立てて消えるほどに儚い炎であった。
精神的にも肉体的にも摩耗していく日々。彼らは段々と荒んでいき、喧嘩が増えていく。その度に別れたいと泣き言を漏らしていた。だが、それが叶うことはない。何故なら――
「真実の愛に導かれた運命の二人は幸せにならなくては。ねぇ?」
「愛し合った二人なら少しの障害くらい乗り越えられますわよ。ねぇ?」
小鳥のさえずる中、子犬が笑う中。二人は幸せにならなければならない。何故なら、二人を引き裂く悪役が涙ながらにそう望んだのだから。
あぁ、なんと慈悲深きこと。この尊い願いは必ず叶えられなければならない。
――彼らは共にあらねばならない。幸せになれる日まで……あるいは永遠に。
「良き婚約破棄をおめでとう、ジェマ。わたくしのかわいい小鳥。わたくしは貴女には幸せになって欲しいのよ?」
ジェマのためにと開いた茶会で、バレンティーナはそう囁いた。かわいらしい小鳥と子犬に囲まれて、温かい紅茶と共にクッキーをいただくことのなんと幸福なことか。
バレンティーナは己が幸福であるからこそ、小鳥と子犬を存分に愛でることができるのだ。
「今は、お姉様とこうしているのが一番幸せですわ」
「欲のないこと……でも、そうね。わたくしもこうしてかわいい小鳥と子犬を愛でているのが一番幸福だわ」
とろけるような笑顔に、皆がほぅと息を吐く。
「何か困ったことがあったら直ぐにわたくしに言うのよ? かわいいかわいい小鳥に子犬。貴方たちを曇らせるものは、きっとこの世には必要のないものだわ」
彼女の愛は広く、暖かい。それを享受できるのは、彼女が愛した者だけである。
彼女の愛は深く、苛烈だ。そして彼女が最も愛する者は、彼女自身である。
――故に彼女は誰よりも幸福で、美しい女である。
強くて綺麗なお姉様はお好きですか?
私はめっちゃ好きです。