05. 知らない天井と7日後の僕。
[4]
とても良い香りがして――ゆっくりと僕の意識が覚醒した。
目を閉じたまま(これは何の香りだろう)と思う。
幾つかの花の名前を思い浮かべるけれど、そのどれとも違う。
心を落ち着かせてくれるような、温かく包み込んでくれるような……。
この香りの芳香剤があるなら、自宅用にぜひ購入したいなと思った。
(……知らない天井だ)
いつもの目覚めより、随分と重たかった瞼をようやく開くと。
視界に飛び込んできたのは、明らかに自宅のものと異なる天井だった。
まず天井の色が違うし、LEDシーリングライトの形も違う。
室内にある家具の種類や位置、カーテンの色も自分の部屋とは全く異なる。
それになにより――ベッドのすぐ脇に置かれている、大きなクマのぬいぐるみが凄い存在感を放っていた。
ぬいぐるみらしく普通に可愛いんだけれど、とにかく立派で大きい。このサイズだとお店で買えば2~3万円はするんじゃないだろうか。
「……こんにちは」
クマのぬいぐるみに向けてひとりつぶやいた挨拶の言葉は、自分でも思っていなかったほど、か細くて小さな声になっていた。
なんだろう……。一応、声自体は出るんだけれど、上手く出せない感じがする。
昔、夏休みに自宅に籠もってゲームばかりしていて、1週間ぐらい誰とも会話せずに過ごしたあと、友人と電話した際に上手く声が出なかったことがあるけれど。
まるでその時と同じように、舌や喉が器用に動かせない感覚があった。
(もしかして、ここって……)
頭がようやく覚醒したのか、冷静な思考力が戻ってくると。なんとなく、ここがどこなのか察せてしまう。
たぶんここは――あのときダンジョンで僕を助けてくれた、ギルド職員のお姉さんの家なんだと思う。
よくよく見てみれば、部屋に飾られている調度品は可愛い系が多くて、明らかに女子が好みそうなものが多い気がするし。なにより、ベッド脇にある巨大なクマのぬいぐるみなんて、持ち主はほぼ間違いなく女子だろう。
一瞬だけ頭に『拉致』という単語が浮かぶけれど、すぐにぶんぶんと頭を振って否定する。
とても格好良くも、優しく親切にしてくれたお姉さんのことだから。高熱のせいで意識を失った僕のことを、ただ自宅に泊めてくれただけだろう。
「……あっ」
部屋の中を見回していた僕は、今更ながらベッド脇に置かれている1人用の座卓の上に、ペットボトルと置き手紙があることに気づく。
手紙には、ベッド上からでも読める大きな文字で『近所のスーパーマーケットへ買い物に出かけています。飲めそうならお水を飲んでね』と書かれていた。
一緒に置かれている500mlサイズのペットボトルは、ミネラルウォーターが入ったものだ。わざわざ未開封の新品を用意してくれたらしい。
(喉……。そういえば、渇いてるかも)
あまり意識していなかったけれど、口の中はカラカラに渇いている。
高熱で眠っていた間に汗もかいたんだろう。水があるならぜひ飲みたいと、そう思いながら僕は座卓のほうへ手を伸ばした。
伸ばした……んだけれど。
届かなかった。
「……えっ?」
座卓はベッドのすぐ脇にある。
その上に置かれているペットボトルぐらい、手が届かない筈がないんだけれど。
「んんん……?」
もう一度手を伸ばしてみるけれど、やっぱり届かない。
なんだか急に10cmぐらい手が短くなったような……そんな風にさえ思えた。
仕方なくベッドから上体を起こすと。ちょうどその時、部屋の外のどこからか、ガチャリと鍵が開くような音がした。
どうやら、お姉さんが買い物から帰ってきたらしい。
なんとなく気恥ずかしいような気持ちになって。慌てて僕は佇まいを直す。
「こ、こんにちは……!」
予想通り、買い物袋を手に帰宅したお姉さんの姿を見て、先にこちらから挨拶を告げると。お姉さんは、とても驚いた顔をしてみせる。
それから――真っ直ぐに僕が居るほうへと駆け寄ってきて。ベッド上に乗りかかるようにしながら、ぎゅっと僕の身体を抱きしめてみせた。
「お、おおお、お姉さん……⁉」
「ああ……! 良かったです、意識が戻ったんですね!」
とても強い力で抱き竦められるにつれ、僕はますます慌てる。
またお姉さんの胸が――それも今度は両胸が押し当てられているからだ。
しかも、当たっている位置は僕の顔。温かくて柔らかいものに押しつぶされて、たちまち僕の身体がかあっと熱くなってくる。
お姉さんに助けて貰った時みたいに、また高熱を発症したんじゃないかと。思わずそんな風にさえ、錯覚してしまいそうな程だ。
「お、お姉さん……! む、胸が、当たってます……!」
「……はっ! ご、ごめんなさい!」
どうやら気づいていなかったらしく、お姉さんが慌てて身体を離す。
真っ赤に染まったお姉さんの顔が、なんだかとても可愛らしく見えた。
「えっと。まずは昨日……なのかな? ダンジョンで助けてくださり、本当にありがとうございました。きっとお姉さんが助けてくれなかったら、僕はダンジョンの中で倒れて、ピティに殺されていたと思います」
そう告げて、お姉さんに深々と頭を下げる。
命の恩人なんだから、お礼ぐらいはちゃんと言わないといけない。
「い、いえ。そもそも私が、高比良さんが天職カードに触れる前に警告できていれば良かった話ですから。事前に教えて差し上げられず、申し訳ありません」
お姉さんはそう告げて、深々と頭を下げ返してきた。
感謝に対して謝罪で応えられたことに、僕は少なからず困惑するけれど。お姉さんの方でも、何か思うところがあったんだろうか。
「何も言わず僕がさっさとカードを選んでしまったのが原因ですから、お姉さんが悪いわけじゃないと思いますよ。
ところで……あのとき僕が選んだような『金色のカード』というのは、やっぱり珍しいものなんでしょうか?」
ダンジョンで僕が天職カードを選び取った際に溢れた、金色の光を目にした時。お姉さんは明らかに驚きをあらわにした声を上げていた。
あれはまるで信じられないものを目にしたかのような、そんな声だったと思う。
僕がそう問うと、お姉さんは即座に「はい」と頷く。
「珍しいなんてものではないですね。『祝福のレベルアップ』の際に金色のカードが提示される確率は、1000万分の1とさえ言われていますから」
「………………は?」
お姉さんの言葉を聞いて、思わず僕の目が点になる。
100分の1とか、もしかしたら1000分の1ぐらいには珍しいカードなのかと思っていたけれど。
まさか――そこに『万』という単位が加わるとは思わなかった。
「えっ。じゃあ日本にいま10人ぐらいしか居ないってことですか?」
「国内で確認されている金色の天職カードの所持者は、現時点で4人――。いえ、高比良さんが加わりましたから5人になりましたね」
「5人……」
片手の指にさえ収まる数しか居ないという事実に、とても驚かされる。
そこまで希少なら……なるほど、お姉さんが金色の光を見た時に随分驚いていたのも、頷けようというものだ。
――その時、僕のお腹がぐうっと鳴った。
どうやら喉が渇くだけでなく、気づけばお腹も減っていたらしい。
恥ずかしさに思わず顔が熱くなるけれど、お姉さんは「無理もありませんよ」と微笑みながら言ってくれた。
「高比良さんはようやく熱が下がった今朝まで、丸7日間も眠っていましたから。たぶん胃の中は完全にカラッポになっていると思います」
「へ……? な、7日?」
「はい。とりあえず急いで何か食べやすいものを用意しますね。お話は食事を取りながらでも、ゆっくりすることにしましょう」
それからお姉さんはキッチンに立ち、手早く僕のために料理を用意してくれた。
お粥とオムレツ。お粥は味の素のレトルト品だけれど、オムレツはお姉さんが手ずからに調理してくれたものだ。
「……すみません。オムレツは食べられなければ、残して構いませんからね」
お姉さんがそんな風に、少し申し訳無さそうに言葉を告げる。
本当はお粥だけ出すつもりだったらしいんだけれど。家に帰って僕が既に起きていることに驚いたお姉さんが、スーパーの買い物袋を床に取り落としてしまったものだから。卵が割れてしまい、急いで消費する必要が出てしまったのだ。
そんなわけでいま僕の目の前には、卵を4個も使ったとっても贅沢なオムレツが用意されている。
「誰かの手料理を頂くなんて、とても久しぶりです。全部食べていいんですか?」
「え、ええ。食べられるようでしたら是非」
「いただきます!」
結構な量がある筈の料理は、10分ぐらいで全部ぺろりと平らげてしまった。
別に大食漢ってわけじゃないんだけれど。7日間眠っていたわりに胃が弱っている様子もなかったから、空きっ腹を埋めるように簡単に食べられたのだ。
それに……とても美味しかったから。
誰かが作ってくれた手料理を食べるというのは、本当に久しぶりで。自分で作る料理とは全く別種の、満たされるような味わいが幸せだったんだ。