皇妃さまは、公爵令嬢を側妃にしたい
頭を空っぽにしてお読みください。
ノルデン王国王立学園の卒業パーティー。
国内だけでなく近隣諸国から招いた国賓も参加し、盛大な夜会が開かれる。
今年はこの国の王太子とその婚約者が卒業生とあって、国王も遅れて参加するという。
そんなパーティーで、今夜の主役の一人である王太子のハインツが、とんでもない行動に出た。
あろうことか、婚約者の公爵令嬢ではない、別の女性をエスコートして入場したハインツ。
それから少し遅れて一人で入場した公爵令嬢、ヒルデガルドが皆の向ける好奇な眼差しを物ともせず、堂々とハインツの前に歩み出る。
それを確認したハインツは冷笑を浮かべ、ヒルデガルドに向かって言い放った。
「婚約者である私のエスコートもなく、よく恥ずかしげもなく来られたものだな」
そう言われたヒルデガルドは怯むことなく背筋を伸ばし、まっすぐハインツを見据えていた。
その姿はまるで凛と咲く百合の花のようだった。
「ふん。いつも澄ました顔しやがって。だがその顔も、今日この時を持って見なくて済むと思うと清々する」
そう言って隣に立つ男爵令嬢のモニカを抱き寄せた。
「ヒルデガルド、残念だったな。王太子妃にはこのモニカがなるのだ。お前は国外追放だ」
その言葉に今まで何も言葉を発しなかったヒルデガルドが口を開いた。
「ハインツ王太子殿下、それは婚約を破棄するという事で間違いないでしょうか」
その言葉はどこまでも業務的に聞こえた。
「ああ、その通りだ。そしてお前は次期王太子妃のモニカを仇なそうとした罪で国外追放だ」
「仇なす…婚約破棄の件は喜んで…いえ、謹んでお受け致します。しかし国外追放と言うのは納得がいきませんので、承服しかねます」
「はっ!何を抜け抜けと。此方にはお前がモニカをいじめていた証拠があるのだ!」
「そうですか。それでしたら、そちらの証拠を裁判所へ提出してくださいませ」
「な!裁判だと!?そんな事をしたらお前が不利になるのだぞ!そしたら国外追放では済まなくなるぞ!」
「ええ、構いません。その時は、裁判所で下された決定に従いますわ」
「くっ!」
まさかヒルデガルドがここまで食い下がると思っていなかったのか、ハインツの顔に焦りの色が滲む。
恐らく証拠とやらは偽造せれたものなのだろう。
その場凌ぎにはなるが、正式に調べ上げられてはすぐにボロが出てしまう。
明らかに動揺を見せるハインツの顔が、青くなったり赤くなったり忙しい。
そこに、まるで煽るかのようなヒルデガルドの言葉が続く。
「ですから、王太子殿下も裁判所の決定次第では、一国の王太子としてきちんと責任をお取りくださいませ」
そう言って意味ありげに笑うヒルデガルドに、ハインツの顔が憤怒の表情に変わる。
そして勢いのままにヒルデガルドに掴みかかった。
護衛も間に合わずハインツはヒルデガルドの髪を掴み上げると、拳を振り上げた。
「いっつも、いっつも、この私を馬鹿にしやがって!!」
髪を掴まれたヒルデガルドは恐怖に怯えるでもなく、ただひたすらハインツを見ていた。
会場からは悲鳴が沸き起こり、護衛がハインツを止めに入った時、会場によく通る女性の声が響いた。
「まぁ、この国ではこのような低俗な余興が流行っていらっしゃるの?こう言っては何だけれど、とてもセンスがないわね」
その声を辿って皆が視線を動かす。
「あら、私ったら邪魔しちゃったかしら?さぁさ続けてくださいな。あ、でも演技でも暴力はよくないわね。そこはカットでお願いするわ。脚本家さんはどちらかしら?」
あまりにも素っ頓狂な声に、ハインツも先程までの怒りを忘れて声の主を探した。
そして皆の視線が一人の女性に集中する。
会場から二階へ続く階段の上。
そこにはまるで、そこにだけスポットライトが当たっているかの様にキラキラと輝く女性が立っていた。
そう、文字通りキラキラと輝いている。
ふんわりと結い上げられた金の髪には、いくつもの小さな宝石が散りばめられており、それがシャンデリアの光を反射してキラキラと煌めく。
深紅のドレスは、体のラインを美しく見せるように計算し尽くされたデザインで、黒と金の糸で施された緻密な刺繍が女性の妖艶さを引き立たせた。
耳と首元に光る大ぶりのガーネットも、深紅のドレスと合わせてもくどくならないようにデザインされていた。
それになりより、その煌めく宝石もドレスも霞んでしまいそうな程の整った顔立ちに、会場中の誰しもが心を奪われていた。
瞬きをするたびに煌めく金の瞳にスッと通った鼻筋、ぷっくりと艶やかな小さな唇。
その口から紡がれる声はどこまでも澄んでいた。
暫くその女性に見惚れていたハインツだが、護衛に掴まれた腕の痛みにハッとする。
その腕を払うと、女性に向かって言った。
「何方かは存じ上げないが、これは決して余興ではない。そのように上段からこの国の王太子に物申すなど非礼とは思わぬか」
すると女性はわざとらしく口元を抑えて目を瞬いて見せた。
「まぁ、これは大変な失礼をいたしましたわ」
そう言って女性は優雅に階段を降り始めた。
しかしハインツは気づいていなかった。
この会場にいる国賓の騒めきと、国内の有力貴族たちの青ざめた表情に。
女性が階段を降りると自然と道が開かれ、そこを彼女はゆっくりと優雅に歩いていく。
その姿に、男も女も感嘆のため息を漏らす。
女性がハインツの近くまで来ると、ドレスのスカートを摘まみ優雅にカーテシーをして見せた。
「お初にお目にかかります。ハインツ王太子殿下。ガーネット・シュリツガーと申します」
そこまで言うと、近くにいたヒルデガルドが慌ててガーネットに向かって最敬礼をする。
しかし、ヒルデガルドが口を開く前にガーネットが止めた。
ハインツから見えないようにヒルデガルドの肩を抱き、口元に人差し指を当てた。
きょとんとするヒルデガルドにガーネットがウィンクをすると、みるみるうちにヒルデガルドの顔が赤くなった。
それを確認したガーネットはもう一度ハインツに向き直った。
「シュリツガー…聞かぬ名だな。どこかの国の貴族か」
そう言ってハインツはガーネットの全身を舐め回す様に見た。
そして口端を上げ、いやらしい笑みを浮かべた。
「気に入った。ガーネットと言ったか。お前を正妃に据えてやろう」
その言葉に会場がどよめき出す。
ガーネットは扇を開き、口元を隠した。
「ちょっと!ハインツ様。その女を正妃ってどういう事?私は王太子妃になれるって言うから頑張ってきたのに」
それまでただ傍観していたモニカだったが、さすがに聞き流せなかったのか口を開いた。
モニカの話し方には南方の訛りが入っていたが、それは貴族ではあり得ない。
しかしそれを隠そうともせずに、寧ろそれを強調するかのように話している。
しっかり頬を膨らませ、上目遣いは忘れずに。
「モニカ、聞き分けてくれ。君はかわいいだけで勉学は苦手だろう?しかし、あのガーネットと言う女は生粋の貴族令嬢だ。彼女に政務を任せれば、君は楽が出来るのだぞ」
「本当?でもハインツ様があの人を好きになってしまわないか心配なの」
「私が愛しているのはモニカだけだ」
「ハインツ様…」
小声で話しているつもりだろうが、しっかり周りに聞こえている事に二人は気づかない。
二人の態度にハラハラしているヒルデガルドに「大丈夫。悪いようにはしないわ」と耳元で囁く。
耳を抑え、顔を真っ赤にしたヒルデガルドがこくこくと首を縦に振った。
ガーネットはふふっと笑うと、再び扇で口元を隠し二人に向き直った。
「まぁまぁ、モニカ様は女優志望でいらっしゃるのかしら?それでしたら、少々演技が古臭くていらっしゃるわ」
ぽかんとする二人にお構いなしとばかりに続ける。
「この国の南方の訛りの発音がなってませんことよ。それから、今時意中の男性を口説くのにそのような幼稚な言葉づかいでは、引っかかるのは頭が空っぽの勘違い男くらいでしてよ」
「ぷふっ」
何処からともなく笑いが漏れる。
「それにそう、貴女からは気品が感じられないわ。どうかしら、私の知り合いに旅一座の座長をしている方がおりますの。ちょうど今この国にいるのよ。紹介して差し上げますわ。きっと素晴らしい女優に育ててくださいますわ」
それがいいわ、と言って嬉しそうに笑うガーネットに、モニカが言う。
「さっきから失礼じゃない?私はこの国の王太子妃になるのよ?女優?それならそこに居る女の方が向いているんじゃない?」
そう言ってモニカは顎をクイッと、ヒルデガルドに向けた。
「その女は表では品行方正な貴族令嬢の振りをしているけど、裏では嫉妬に狂って私をいじめていたのよ」
「まあ、そうでしたの?それで、いじめとは具体的にどういった事を?」
「校舎裏に呼び出されて水を掛けられたり、教科書を破られたり、制服を切り裂かれたこともあったわ」
「まあ、それはそれは」
「それから罵声を浴びせられたり、平民上がりと罵られた事もあったわ」
「まあ、それはさぞ恐ろしかったでしょうね。でも、なぜそんな事を?」
「ふんっ。そんなの決まっているじゃない。ハインツ様が私ばかり構って、自分が蔑ろにされていたから嫉妬したのよ」
「まあ」
「自分が王太子妃になりたいが為に、私が邪魔だったのよ」
「まあ、それは!」
「ひどいと思わない?自分に魅力がないだけなのに」
「命があって何よりですわ」
「へ?」
「え?」
あら?とガーネットは小首を傾げて見せた。
「確かヒルデガルド様は、ローゼンミュラー公爵家のご息女でしたわよね?」
「え、ええ…」
「でしたら、そんな嫌がらせなんて回りくどい事をせずとも、本当に王太子妃になる為に貴女の事が邪魔だったと言うなら…」
そこまで言うと、ガーネットは意味深な笑みを浮かべた。
そして、一歩モニカに近づく。
「これからはお体、大切になさってくださいまし」
耳元で囁けば、モニカはぶるっと身震いをし、額に汗を滲ませた。
ローゼンミュラー公爵家がノルデン王国の暗部を担っていることは公然たる事実である。
その気になれば男爵令嬢の一人や二人、きれいさっぱり消すことなんて朝飯前なのだ。
そう、それこそ初めから、そんな女は存在しなかった事に出来るくらいには。
さぁっと顔を青くするモニカの隣で、なおも王太子はガーネットに熱い視線を送る。
この場にいるのは、パーティーに招待された周辺諸国の重鎮たち。
初めこそ王太子の出方を伺っていた者たちも、早い段階で見切りをつけ、今やこの国に攻め入る算段を脳内に思い描いている事だろう。
そして、国内の有力貴族たちは王太子をとうに見限っていたのだろう。
最初から王太子に諫言する者も、この場を収めようとする者もいない。
そして、本日の本来の主役である卒業生は実に優秀な者たちの様だ。
皆がヒルデガルドを支持するように、後ろに控えている。
仕えるべき者を間違えてはいないようだ。
それはこの国の将来が明るいという事。
この国の次期王となる王太子が、これほどの醜態を晒しているのだ。
本当ならば攻め入る隙を与えてはいけない近隣諸国に、堂々と弱みを見せつけているも同然。
これからの外交に大きく影を落としかねないこの事態を、どう挽回するのか。
「ふふ。楽しみだわ」
そう呟くガーネットがヒルデガルドに視線をやり、ニコリと微笑んだ。
その瞬間、二階が騒がしくなった。
「イグレシア皇帝陛下!」
階段の上に現れた人物の姿を見た者が誰ともなく声を上げた。
その瞬間、会場にいた者すべてが最敬礼をする。
その中でモニカだけは訳が分からないと言ったように、周りの者の真似をして遅れて礼をとる。
「面を上げよ」
低く威厳のある声が響き、まるでその場を支配したかのようにピリリと空気が張り詰める。
そこに立つのは、シルバーアッシュの髪に濃紺の瞳。
彫刻を思わせるような端正な顔立ちに、長身で鍛え上げられた引き締まった身体。
黒を基調とした正装が、その男の魅力を引き立たせている。
イグレシア皇帝陛下、ギデオン・イグレシア。
彼は若干26歳にして、8国を統べる帝国の若き太陽である。
ギデオンは会場を見渡すと、ガーネットを見つけ顔を和らげた。
階段を下り、ガーネットの元まで辿り着くと彼女の肩を抱き寄せた。
「ああ、我が妻よ。君の姿が見えないから探し回ってしまったよ」
そう言って額に口づける。
「あら、愛しい我が旦那様。私ちゃんと伝言を頼んでおきましたわ」
そう言って見つめ合う二人は、まるで絵画から出てきたかのよう。
「なんだか愛しい我が妻は、随分とご機嫌のようだね」
「そうなのですわ。ギデオン様、私ヒルデガルド・ローゼンミュラー公爵令嬢が欲しいですわ」
「おや、今度は宝石ではなく令嬢かい?」
その言葉に会場にいた者すべてが息を飲む。
ギデオンは愛妻家として有名だ。
妻である皇妃、つまりガーネットが欲しいと言えば、それが月であろうと手に入れようとするほどに。
そして最近では、ガーネットが「ピンクサファイアの指輪が欲しい」と呟き、ピンクサファイアの産地である国が、わずか一月足らずで帝国軍に落ちたという。
そして、彼女の髪に煌めく宝石こそがピンクサファイアである。
流石に公爵令嬢一人の為に戦争を起こすことはないだろうが、会場中が息を飲んでギデオンの動向を見守った。
「して、我が妻よ。その令嬢を帝国へ連れ帰り、どうするつもりだ?まさか君の愛人にするつもりなのか?」
「まあ、何を言ってらっしゃいますの?私の愛人ではなく、彼女をギデオン様の側妃にするのですよ」
その言葉にギデオンは絶句する。
「彼女でしたらきっとギデオン様も納得されますわ。きっとお子も聡明になられましょう」
「………君は私に、君以外の女を抱けと言うのか?」
「抱けだなんて…、私はただ側妃を娶るならば、彼女の様な芯の通った聡明な女性が良いと思ったのですわ」
「何度も言っているだろう。私はガーネット、君以外を妃に迎える気はない」
「ですが、後継者の事を考えればそうはいきませんでしょう。それに毎晩あのようにギデオン様の相手をしていては身体がいくつあっても足りませんわ。側妃が出来れば分散されるでしょう?」
そんな話は二人きりの時にしてくれ、と会場にいる誰もが思ったが、口には出せない。
「私最近寝不足でお肌の調子が悪いのですわ」
「わかった!今夜からは君の体調を考えるから」
「本当かしら、前にもそのような事を言っていたのに何も変わらなかったわ」
「そんなこと言ったって、君が魅力的なのがいけないのだ」
いつまでこの二人のイチャイチャを見せられるのだろうか…会場中の誰しもが半眼になっていた時、その空気を壊したのはハインツだった。
「傾国の美女…な、なぜ!だって先程シュリツガーと…」
「あら、私とした事が!つい実家の家名を名乗ってしまいましたわ」
そう言ってガーネットがハインツの呟きに答えた。
傾国の美女とは、ガーネットがギデオンと婚約をした時からの異名であり、元々別の婚約者がいたガーネットを、ギデオンが手に入れる為に画策した事から付いた名である。
また、その名の通りガーネットを巡って戦争を起こした国が多数あった為、その名は広く知れ渡ることとなった。
「貴様、謀ったな!最初からこの私を貶める手筈だったのだろう」
そう額に汗を滲ませながら悪あがきをするハインツに、会場中が憐みの視線を向けるが、本人だけが気づかない。
「ノルデン王国の王太子よ」
そうして皆が呆れ返っていると、低く重い声が響いた。
「我が愛する妻に何たる無礼。お前のその首を引き換えに償わせてやろう」
ギデオンの言葉と同時に、後ろに控えていたイグレシア帝国の護衛が剣に手を掛けた。
しかし、ガーネットの言葉によりその動きが止まる。
「ギデオン様、私は血が得意ではありませんの」
ガーネットがそう言うと、ギデオンが片手を挙げ、それを振り下ろした。
それを合図に護衛がハインツとモニカを捕らえた。
その際に二人は抵抗をし、ハインツは綺麗に整えられていた髪が乱れ、着ていた服も乱れている。
モニカも綺麗な髪がぼさぼさに乱れ、化粧が汗と涙で崩れていた。
「ガーネットのおかげで命拾いしたな。お前達は、我が妻に感謝すると良い」
ギデオンは満足げに笑いながら言った。
「どうして!私は何も悪くないでしょう?」
「お前もこの国を混乱に陥れたのだ。何もしていないとは言わせない」
「は?だってハインツが―」
そう言ってモニカがハインツを見ると、彼はその目を見開き大声で叫んだ。
「誰だ!?お前!」
「え?」
その声にガーネットが呆れる。
「それはあまりに失礼な物言いです事」
確かに崩れた化粧から覗くその目は、先程の半分程しかないように見えるけれど、先程から隣にいた女性がモニカ様以外の何者だと言うのか。
「お前、化粧を取ると別人じゃないか!これじゃまるで詐欺だ!」
ハインツのあまりの言いように、モニカのこめかみに青筋が浮かぶ。
「ハインツ様は私の性格が好きだと言っていたじゃないですか!優しくて癒されるって!」
「いや、それはその顔込みでの話だ。その顔では癒されるどころか不快だ…ゴホッ」
モニカは屈強な護衛騎士に掴まれた手を振りほどき、ハインツの頬に自身の拳を叩き込んだ。
その姿にガーネットが感心して、両手の指先で音の出ない拍手をした。
そして、ガーネットの隣に立っていたギデオンが、ハインツの前まで歩み出る。
ハインツを捕らえていた護衛騎士が、両膝をついたハインツの頭を掴み、額を床に押さえつけた。
「貴様の様な汚い目で、我が愛する妻を見る事を許した覚えはない。ましてや“貴様”などと呼ぶ権利を与えた覚えなどない」
何処までも低く重いその声と共に、ギデオンはハインツの頭を踏みつけた。
「ぐっ…」
そして今度はその頭を蹴り上げたが、護衛騎士に掴まれた体は動くことはなく、首が変な音を立て、そのままハインツは動かなくなった。
かろうじて息はしているが、口からは泡が出て、目は白目を剝いていた。
「ハインツ!」
また二階の階段上から今度は中年の男が、息を切らしてハインツの名前を呼んだ。
その男は勢いよく階段を下りてきたが、途中で足を踏み外し、階段を転げ落ちた。
よたよたと、足を縺れさせながらギデオンの前までやってくるとひれ伏した。
「ギデオン・イグレシア皇帝陛下、我が不肖の息子が大変な失礼を致しました。何卒、な・に・と・ぞ、寛大なお心でお許し頂きたく」
その男はノルデン王国の現国王陛下であった。
乱れた息と衣服、頭に載せたカツラは今にもずれ落ちそうだった。
ギデオンはその言葉を鼻で笑って見せた。
だが、ガーネットをチラリと見た後、何かを閃いたかのように不敵な笑みを国王に向けた。
「そうか、ならばこれより1年間、其方の国から我が帝国へ輸入する穀物の税率の20%引き下げと、そこのローゼンミュラー公爵令嬢を引き換えに、この件は不問としよう」
「20…!?は、ははぁ!寛大なお心に感謝致します」
20%の税率の引き下げは寛大ではないと思いながらも、国を失うと思えば安い物だと国王は自分に言い聞かせた。
ガーネットはヒルデガルドの両手を握り、嬉しそうに笑いかける。
そして、ヒルデガルドの乱れた髪を撫でて、自分の髪飾りを一つ抜くと、彼女の髪に挿した。
「ふふっ。これで貴女の後ろ盾は万全よ。なんでも望みを言って頂戴。私が出来る限り貴女の望みを叶えて差し上げるわ」
「い、いえ。そんな恐れ多い事です」
慌てるヒルデガルドにガーネットは食い下がる。
「私が貴女の願いを叶えたいのですわ」
それでも遠慮を続けるヒルデガルド、どうしても願いを聞きたいガーネットの攻防は暫く続いたが、ヒルデガルドが折れる形となった。
「…でしたら、一つだけ…」
***
「我が愛する妻は今日もご機嫌だな」
イグレシア帝国のギデオンの執務室、紅茶と焼き菓子が並ぶ机の前に置かれた三人掛けのソファに、ギデオンとガーネットは身体を寄せ合い座っていた。
ガーネットが手に持っていた手紙を封筒に戻し、テーブルの上に置く。
「ノルデン王国の王妃からかい?」
「ええ。最近は国内の情勢も安定し始めていると、ギデオン様に感謝しておりましたわ」
「私は何もしていない。それもこれも全て、新国王と王妃の力だろう」
「うふふ。ヒルデガルドが幸せそうで何よりだわ」
ノルデン王国は腐りきっていた。
王族と一部の貴族たちが私腹を肥やすため、民から過剰に税金を徴収し、やりたい放題。
苦言を呈する貴族たちを見せしめの様に無実の罪で断罪し、国王は甘言ばかりを口にする者を傍に置いた。
国の中枢は金と欲にまみれ、かわいさの余りバカな息子を王太子に指名して放置していた。
しかし、その王太子の婚約者とその家、ローゼンミュラー公爵家が中心となり、密かに国王の失脚を企てた。
そしてあの騒動からすぐにノルデン王国前国王と、その取り巻きは失墜。
新たな国王となったのは、ハインツの兄であるアードリアンであった。
アードリアンは優秀でありながら、母親の身分が低いと言う理由だけで冷遇されていた。
王太子には弟のハインツが指名され、彼自身はずっと光の当たらない人生だった。
しかしそんなアードリアンに、ヒルデガルドは密かに思いを寄せていた。
自分の思いは叶わなくても、彼に幸せになって欲しいと暗躍していたのだ。
そしてあの日、前国王と前王太子は取り返しのつかない失態を犯し、その座をずっと見下していたアードリアンに譲ることとなったのだ。
国内貴族はローゼンミュラー派に傾いており、その場を凌いだとしても、今度は国外から付け入られる。
もう前国王たちには道がなかった。
そして、アードリアンにはギデオンが後ろ盾となり、その妻にヒルデガルドを据えた。
ガーネットが見るに、アードリアンもヒルデガルドに懸想をしていた事は間違いがない様で、息の合った二人はすぐに国を立て直した。
そんな新国王と王妃は国民からの支持も厚いのだとか。
「今年の春には子が生まれるそうですわ。今から随分楽しみにしているそうで、春が待ち遠しいって」
そう言って自分の事の様に笑うガーネットの胸元には、つい先日鉱山ごとプレゼントされたアレキサンドライトが光っていた。
「あの女はどうなった?もう一人、ガーネットが引き取った女だ」
「ああ、モニカさんね?あの方ならグレゴワールの一座でうまくやっているそうですわ」
男爵令嬢のモニカは実は、ローゼンミュラー家が送り込んだハニートラップだったのだ。
元々孤児のモニカを男爵家へ引き取らせ、ハインツへ近づけた。
モニカ自身は、男爵から王太子を落とせとしか言われておらず、それを実行したに過ぎなかったのだが、馬鹿な王太子は面白いくらいに簡単に落ちた。
「モニカさん、演技の方はイマイチですけど、お化粧の腕は一流なのですって」
「ああ、あの化け具合はすごかったな」
そう言ってあの夜会での事を思い浮かべたギデオンは、感心したように頷く。
「彼女、自分から進んで演技の練習をしているのですって!それに、一座のみんなの事を『いきなりたくさんの家族が出来て嬉しい』って、孤児の彼女にとっては大変幸せな事よね」
嬉しそうに話すガーネットを幸せそうに眺めるギデオンだが、ガーネットの近くに立つ男に視線を向けた。
その男を睨みつけてギデオンは言った。
「ところで、いつまでお前はここにいるのだ?ロイド」
ロイドと呼ばれた人物は、ギデオンの鋭い眼光に睨まれても怯むことなく答えた。
「僕はお嬢様の従者なので、ずっとお嬢様のお傍にいますよ」
「もう従者ではないだろう。それにもうお嬢様ではない」
ガーネットの事が絡むと子供の様になるギデオンを、ガーネットとギデオンの側近のクラークがほのぼのとした気持ちで見守る。
「いいか?ガーネットがどうしてもって言うから、お前なんかを侍従長と言う役職に就けてやっているのだぞ。これ以上私のガーネットに気安く近付く様なら、腕をへし折ってやるからな」
そんなギデオンの言葉に反論したのは、ガーネットだった。
「あら、私物心ついた頃からずっとロイドが傍にいてくれたから、ロイドが傍にいないと落ち着かないわ。ロイドを苛めるなら、例えギデオン様でも許さないわ。今日から一週間、口をきいて差し上げませんことよ」
その言葉にギデオンの顔が青くなった。
「皇妃様、そんな事をしては、陛下の気が触れて国の一つや二つ滅ぼしかねません」
クラークが至って真面目な顔で言うので、ガーネットは早々にギデオンを許す事にした。
「すまなかった、愛しの我が妻よ。お詫びに何か望むものをやろう。宝石か?ドレスか?」
そんなギデオンの言葉にガーネットは逡巡した後、答えた。
「でしたら、私子供が欲しいわ。たくさん。そして、将来私たちの子供と、ヒルデガルドの子供を結婚させるの」
満面の笑みで言うガーネットは次の瞬間、ギデオンに抱きかかえられドアの前にいた。
「では、我が妻の望むままに」
「陛下!まだ執務が残ってらっしゃいます」
「ふんっ。私は愛する我が妻と子を成すという大事な公務がある故、後は任せたぞ。今日は寝室に一切近づくな!わかったな!」
最後にロイドを見て念押しすると、二人は颯爽と執務室を後にしたのだった。
残された二人は見つめ合い、大きなため息と共に肩を落とした。
お読み頂きありがとうございます。