依頼はきていない一日目
今日、ミンチは便利屋を開業した。
Twitterのアカウントを作っただけだが、開業初日であることには違いない。
ミンチは近所のスーパに買い出しに出かけた。殆どの商品をネットで購入しているミンチだが、食料品はスーパに足を運ぶ。五回に一回の確率で袋になる鞄を忘れるミンチだが、この日は、その一回だった。商品を籠に入れてレジに並んでいる時に、前にいた女性はポケットから使い古したレジ袋を取り出した。皺や色から日常的に使用している事がわかるが、特別丈夫な作りではなく、至って普通のどこにでもある袋だった。
二十代に見える女性は、料理酒と野菜と肉と果物を買っていた。そういったことまでつい見てしまうのは、あまり上品ではないな、と思うミンチだが、中々治らない癖だ。。ミンチの番になり、彼はレジにいる人に袋をお願いした。五円が余分に掛ったが、ゴミ袋として使えるので無駄にはならない。商品をレジ袋に入れて、スーパから出て自宅に帰っていると、少し前を、先ほどの女性が歩いていた。彼女は袋を右手で持っているので、体の重心が左に寄っていた。
ミンチの方が歩く速度が速い為、彼女を追い抜く事になる。同じ方向に歩きで追い抜く時は、追い抜く時だけ速度を上げる人が多い。これは車でも同じことだ。並走する時間を少なくしたいのだろう。ただ、今は上り坂なので、それが難しいタイミングでもあった。でも、わざわざ、歩く速度を落とすのは無駄に感じて、少しに無理をすることを決意した。ミンチは、女性の五メートル後ろに来た時に、彼女が持っていた古びたレジ袋の持ち手部分が、重さに堪えきれずに破れて、中身が地面に転がった。
女性は声を上げて、慌てて落ちた中身を拾おうとしている。ただ、一つ拾う度に、袋から新しく零れていた。ミンチは、転がって来た柑橘系の果物を拾って、更に彼女の荷物を拾う手伝いをした。ただ、彼女の袋の持ち手部分の片方は、完全に破けてしまったので、拾ったものを入れるのに時間が掛かった。彼女は何度も謝罪と感謝の言葉を繰り返した。
「いえ、大丈夫ですよ」ミンチは出来る限り優しい声を出して、急ぐ必要はない、という気持ちを伝えた。
彼女は慌てて袋に入れていくが、レジ袋事態が柔らかく、そして持ち手の一つが無い為安定せず、苦戦しているようだ。もし、ミンチが袋の代わりになる物を持っていれば、それに自分の荷物を入れて、ついさっき買ったレジ袋を彼女にあげていたのだが、自分もこの袋以外に購入した食材を持ち運ぶ手段を持ち合わせていなかった。ミンチは気持ちを切り替えて気長に待つことにした。右手には柑橘系の果物が二つと、ミニトマトが入ったプラスチックのパックがある。手を貸すにも、両手が塞がってこれ以上はなにも出来ない。
彼女の姿を改めて認識した。二十代前半で髪は黒、肌は白く、服は真っ黒の上下、下はスカートだった。ぼんやりとしか人を認識しないので、彼女が黒っぽい姿をしている以外に認識していなかった。
彼女は商品を入れて、ミンチの右手のものも受け取った。それを袋に入れたは良いが、これからどうするつもりだろう。
「すみませんでした。ありがとうございます」何度も繰り返した言葉を、彼女は言った。
「いえ、それより、家まで運べますか?」ミンチは言った。
「はい。えっと、直ぐ近くなので」彼女はお辞儀をした。そして、立ち上がろうとしたが、柑橘系の果物が袋から落ちた。ミンチは素早くそれを拾って、これ以上の被害広がるのを未然に防いだ。彼女は左手は取っ手を、右手は袋の端を掴んでいるので、袋が少し傾いている。さらに、運の悪い事に袋一杯になるまで、彼女はスーパで買い物をしている。一番上に乗せてあるだけの柑橘が落ちる理由がそこにある。
「もし、迷惑じゃなければ、運びましょうか?」ミンチは言った。
「えっと、その、よろしいのですか?」
「僕は大丈夫です」
「すみません。お言葉に甘えてもよろしいですか?」
そうして、ミンチの持っていた袋に、幾つかの商品を移して、彼女の家に向かう事になった。便利屋として働くなら、こういった事も増えるだろう。人に優しくすれば、自分に返ってくるとは考えていないが、見過ごす事も出来ない。その方が後味が悪いだろう。彼女の家は、直ぐ近くで、さっきの現場からは、三分のところだった。彼女は、一度、自分の荷物を部屋の中に入れた。
その間、マンションの玄関の前で、ミンチは待っていた。ドアが開いて、彼女は市内の新品のごみ袋を持ってきた。そして、その中に、ミンチが預かっていた商品を入れて、お礼を言った後、彼女はドアの向こうに姿を消した。袋の類を一切持っていない人なのだろう。
ミンチは自分の袋の中を確認して、彼女のものが残っていない事を確認した後、その場を立ち去ろうとした。
「待って下さい」彼女の声がした。彼女はもう一度ドアを開けていた。
「ホントにありがとうございます。実は、荷物を全部、その場に捨てて来てやろうかと、思っていたんです」彼女は言った。
「それは……そうならなくて、良かったです。では」
「あっ、ちょっと待って下さい」
「なんですか?」もう、家に帰りたいミンチだった。ここからミンチの家までは、徒歩で五分も掛からない。自宅とスーパの殆ど間に、彼女の家があったからだ。
「あの、私……こっちに来て頂いてもいいですか?」彼女は小声になって、手招きをした。
「……はい」お礼の品を受け取ったりするのは、面倒だなと、ミンチは思っていた。なんとかして断らないと。
彼女は玄関の扉を開けて、ミンチを招く様な仕草をした。
「いえ、ホントに気にしないでください」ミンチは言った。
「一分も掛からないです。少しだけ、お伝えしたい事がありまして」
ミンチは断ったが、彼女は譲らなかった。仕方がなく、彼女の家の中に入った。玄関を入ってすぐの所に、スーパで買った商品が袋ごと置かれている。その他には、キッチンや冷蔵庫などが見えた。奥の扉の向こうが、リビングなのだろう。一般的に、女性が自分の部屋に男性を招く事に抵抗があると思っていた。靴を履いたまま、二人は玄関にいる。
「あの、私、予知能力があるんです」彼女は内緒話をする様に言った。
「はっ?」意味がわからない。
「予知能力です。それで、あなたの事を見てしまって……」
「そうですか」全く興味のない話だった。
「あなたは、近い内に、『自分に合った枕はどこにもない』『自分に合った枕がなくても寝れる』という言葉を聞くと思います」
「それはなんですか?」
「わかりません。私は見ただけなので」
「見ただけで、音が聞こえるのですか?」ミンチは意地悪な質問をした。
「その現場にいて、見ていれば、音も聞こえてきます」彼女は真面目に答えた。
「そうですか」
「それで、その発言を聞いた時、あなたは既に困っているはずです。だから、なにか手伝えることがあれば、ここに来て下さい」
「わかりました」ミンチは興味が無いので、話を切り上げたかった。
彼女の顔を見る。白い肌に赤い唇が印象的だった。スピリチュアルな年頃は過ぎたはずだが、何にだって、個人差はあるのだろう。
「すみません。以上です。外でこういった話は出来ないので」彼女は言った。
「それが良いと思います」多少の理性は残っているのか、よくわからない人格だと、ミンチは思った。
「今日はありがとうございました」彼女はお礼を言った。
「いえ。気にしないで下さい」
「困っていたら、いつでも来てください」彼女は真剣な表情で言った。
「大丈夫だと思いますよ」ミンチは呆れていたが、それを表情に出さない様に努力した。
「えっと、最後に、私に予知能力がある事は、誰にも言わないで下さい」彼女は、右手の人差し指を顔の前で立てた。
「勿論です。でも、あなたの袋が破れるのは、予知出来なかったのですか?」ミンチは言った。
「………どうでしょうか?」沈黙の後、彼女は魔女の様に微笑んだ。