依頼はきていない三日目
ミンチは、市内の中でも栄えている駅の近くのカフェに来ていた。
便利屋とは関係ない、ちょっとした話し合いがあり、場所は相手が指定した。話し合いはどんどん良くない方向に進んでいた。こちら側に不利な条件を押し付けてきて、それをのまないなら白紙に戻すと、かなり強気な態度だ。事実、こちらの方が弱い立場だ。断って利益を失うか、少ない利益でも受け入れるか。
ミンチは間を開ける為に、トイレに行った。カフェは商業施設の一店舗なので、カフェから出た。人混みをかき分けてトイレを見つけた。女性用のトイレは少し列が出来ている。近くでイベントでもあるのか、もしくは、このビルの中でやっているのかもしれない。もしかしたら、このビルの休日は、いつもこんな風に混んでいる可能性もある。
こういった所に足を運ぶ理由がわからない。静かな場所の方がいいだろう。男性用トイレは、小便器の方に何人かいるが、並んでいるわけではない。
ミンチは、トイレの鏡の前で自分の姿をチェックした。シャツを着て、髪もセットしてある。これは珍しい事だ。鏡越しに男とその娘らしい小さな女の子が入って来た。その二人はトイレの同じ個室の中に入って行った。女の子は赤ちゃんではないが、五歳未満だろう。
少し後に、長い白髪のお婆さんが一人で入って来た。そのお婆さんは、なに食わぬ顔で個室へと入って行った。買い物をした後なのか、紙袋を持っていた。我慢が出来なかったのか、待つのが嫌だったのか、どちらかだ。年齢を重ねるごとに羞恥心を忘れてしまうのだろう。もう、周りの人間など、どうでも良いのかもしれない。自分がどう思われようが関係ない。ある意味潔い生き方だ。
トイレの清掃のスタッフは、女性が多い。用を足している時に、背後にいてもあまり気にならないのは、向こうがこちら側に興味を示さないからだろう。ジロジロ眺められていたら、問題になっているはずだ。でも、相手がどう考えているかなんて、わかるはずもないのに、表面の動作だけで、彼女たちは、仕事をしているだけでこちらに興味はない。その最中に自分が用を足しただけだ、と大勢が思い込むのには、理由がある。
それは、当たり前のことだが、彼女たちが一生懸命に仕事をしているからだ。こちらに関心がないと思わせる一番の方法は、適当な方向を見てボーとしたり、目を瞑って眠っている振りをする事ではなく、別の事に打ち込む事だ。その姿を見ただけで、ボーと突っ立っている人よりも警戒心が薄れる。自分とは関りのない人だと、瞬時に思わせる事が出来る。
例えば、水道管だか空調の工事の人が、自宅に来た時に、最初は警戒していても、一生懸命に働いている姿を見たら、その姿を目で追わなくなってしまう。普段はオートロックの三階以上に住み、玄関の鍵にも最新の注意を払っている人でさえも、これに当てはまる。自宅の中に侵入を許しているのに、気を許してしまう。
こういった技は、使い道があり、何度が実践した事がある。その度に成功している。殆ど、例外がない。今回の話し合いを受け入れた場合も、このちょっとしたテクニックが必要になるだろう。
腕時計を確認する。そろそろ戻った方が良い。最初から、答えは決まっていた。断る選択肢など無かったのだ。
背後を少女が一人で歩いているのを、鏡越しに見た。トイレの奥を覗くと、小用を足している人の姿しか見えない。彼女の父親は先に出て行ったのだろうか?この場所では、少女は目立つが、その父親はそうでもない。父親のぼんやりとした身長や体型のシルエットは覚えているが、顔は勿論、服装も記憶になかった。背後を何人も通り過ぎているのを、確認している。殆どの人は、手を洗う事もない。洗ったとしても、水で指先を濡らすだけだ。
父親らしい姿は無かったので、少女よりも先に、トイレから出て行ったのだろう。もしくは、今、小用を足している人の中に、父親がいるのかもしれない。
そこで、ある事を思い出した。もう一度トイレの奥を覗く。誰一人として個室を使っていない。個室のドアが全て開いているからだ。
お婆さんが背後を通れば、直ぐに気が付くだろう。トイレから外に出るには、自分の背後を通る必要があるし、そうなれば、鏡をずっと見ていた自分は気付くはずだ。
ミンチはトイレの奥へと歩いていく。そのついでに、左手に見える個室の中も確認した。ドアが開いているので、確認は楽だ。誰一人として、中にはいなかった。
トイレの一番奥の窓まで来る。窓は一つしかない。窓は蝶使いで開くタイプだった。それを一番奥まで開けたが、十センチも開かなかった。ここは階層も高いので、万が一の事故を防止する為だろう。そもそも、窓から外に出る人がいれば、気付いたかもしれない。
少し気になったが、自分が見落としていただけだろう。そう考える以外になかった。




