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教祖の白昼夢  作者: 佐治尚実
序章
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02.和絃の夢ー2

「もう、いやだ」


 油を塗りつけられたのか、太輝の肌は潮風と大量の汗で濡れていた。寝間着が皮膚にへばりついて不快だ。喉元まで湧き上がる恐怖は嗚咽を誘い、ギラギラとした太陽が背後でむくむくと増大し、容赦なく太輝に重くのしかかる。それは舌がもつれ、骨と肉すら無残にも液状となって溶けてしまうほどだ。白い鉄板上で焼きただれるかのようだ。

 暴力的な日射しでグリルされる。頬を伝う熱い涙が調味料ともいえるのか、太輝なんかを食べても美味しくないだろうに。腐らせた方がマシに思えてくるな、と自嘲した。


「誰の夢を見ているんだ」


 八月十八日、家族に連れられて千葉の海水浴場を訪れた。太輝は十五歳だった。その景色と実によく似ていた。水辺線に消えて行く一隻の旅客船に見覚えがある。船尾に書かれた船名が、横須賀の港から千葉へ移動した船と同じだった。この土地に太輝が来たのはあの日だけなのに、どうしてそうと言い切れるのだろう。あそこと同じ海を見ていることだけは確かだった。


 そこに自分はいる。これは家族の誰かの夢だろうか。


「そうだ、父さんは、お母さんも、雪子も」


 家族旅行に来たはずの懐かしい風景が、いまだけは怖ろしかった。自分は今度こそ死んでしまったのか、そうでなければ、ここが地獄か。


 周囲を見渡すも、人影ひとつとして見つからない。穏やかな渚を夢遊病者みたいにふらふらと進んで、太輝は途方に暮れた。日陰に入ると足裏はひんやりとして、柔らかい砂の感触を拾う。磯の香りに顔を歪ませた。ここは夢の深くなのに、感覚だけが研ぎ澄まされていく。その事実が今夜も虚しく太輝の心に蓄積される。

 昨日、誰の肌に触れたか思い出せない。家族との接触は極力避けた。家族を傷つけたくない思いで禁じていた。いや違う。思春期の子供を演じて偽ってでも、家族の夢を見たくなかった。彼らの想いをこれ以上背負いたくなかった。


 ならば推察するに、親友以外、皆目見当がつかない。


「和絃なの、ねぇ、なんで和絃がこの夢を見てるんだよ」


 家族旅行に、親友の綿貫和絃わたぬきかいとは同席していない。


「どうして和絃はここにいたの」


 左手にターミナル乗り場と、右手には薄紅色の灯台が確認できた。


「どこにいるんだよっ、和絃っ」


 慟哭どうこくする。


 すると、わずかの沈黙の後、聞き慣れた親友の鼻歌が右手から聞こえてきた。視線を流した先に、白のシャツとデニムパンツ姿の和絃が砂浜に立っていた。


「か、和絃」


 夢の中でも、和絃は美しかった。彼は太陽の日を一身に浴びていた。潮風になびく長い前髪から、見慣れている親友の横顔があらわになる。


「ねぇ、和絃の夢なの」


 和絃に近づいてみると、太輝が少し視線を上げる位の背格好をしていた。今より身長がそう高くない。たぶん中学三年生の頃だ。夏休み明けに和絃の身長が急激に伸びたからだ。見間違う必要もない、あの頃の彼だ。


「どうして和絃がここにいるの」


 太輝の問いかけも虚しく、海の果てを眺めていた和絃は、当時自分たちの好きだった歌を口ずさむ。


「風は~はしる」


 大輝がカラオケに誘っても、和絃はいつも「歌が下手だから」と恥ずかしそうに断る。それなのに大きく口を開けて、気持ちよさそうに声を伸ばしている。笑うと目を細める和絃の癖が愛おしい。

 貴重な彼の姿を夢の中でしか見られないだなんて、少しばかり惜しくて眉を上げてしまう。頬が熱くなる気がした。


「凄いな、ダイちゃんは偉いな」


 突然だ。自分の名が和絃の口から発せられた。


「なんだよ、凄いってなんだよ」


 答えてくれないと分かっているのに、どうしても聞き返してしまう。何度も和絃に呼びかけても、跳ね返っては来なかった。


「どうしてここにいるの、夏休みは海外に行くって自慢してただろ、派手なお土産だってくれたのに」


 近隣の県に行く太輝とは違い、和絃は外国の避暑地に遊びに行った。彼に自慢話だって聞かされた。


「なんで、どうして」


 これはただの夢だ。これ以上、自分以外の夢を見たくない、と太輝は目を覚ますべく前方へ駆け出す。次の瞬間、和絃の夢の中で頻繁に出てくる男が視界の端に映り込む。その男がどんな表情をしていたか、いつも顔が見えないから分からない。その時もそうだった。


 後ろ髪を引かれる思いだが、海に飛び込んだ。すると海水を飲み込むわけでもなく、全身が濡れているわけでもない。いつも通り、自分の部屋の天井に切り替わった。太輝はベッドで寝ていた。薄いブランケットと寝間着、体は乾いていた。一粒も汗をかいていない。その代わり、熱い涙が頬を伝う。


 和絃の夢に、太輝の心は揺さぶられている。


「たす、けて、うっう」


 深い夜の中、声を押し殺して泣き続けた。涙は涸れなかった。

 夢を見たからと言って、あの十五の夏には戻れない。今夜は和絃の夢だった。ただ、それだけのことだ。太輝の意識はまだ、あの太陽が照りつける砂の上にいた。実際はスプリングの鳴るベッドに寝そべっているだけだ。

 あとはいつも通り、朝が来るのを待つだけだった。

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