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神馬の背中に乗るように

 不思議でございました。


 わたくしはひどい人見知りで、しかも顔の痣を気にしてもいるので、一人でいるのが好きな子でしたが、その場所はとても居心地がよかったのです。大僧正さまは決して姿をお見せになりませんでしたが他にも山伏が何人かおり、お坊さんにお婆さんもいたのです。たくさんの人たちがいらっしゃるのにも関わらず、わたくしはその小さな世界でずっと暮らしたいという気持ちに、あっという間になってしまったのでした。


 離宮の庭に牛若さまと並んで座り、桜の花びらの舞い散るのを眺めていたことをよく覚えています。


「ここではみんな、わたしの顔の痣を気にしない。なぜ?」

 わたくしは牛若さまに尋ねました。


「見ろ、ゆき」

 牛若さまは温かく微笑んで、桜の樹を指さされます。

「桜は毎年咲き誇り、散って、地に溶ける」


「うん」

 わたくしは地面に落ちたばかりの花びらをひとつ、見つめながら言いました。

「で?」


「とろけた桜は醜いだろ?」


「うん。きたない」

 わたくしはうなずきました。

「どろどろになって、虫とか湧いて、きたない」


「だけど、次の年にはまた美しい花を咲かす」

「だね」

「美しい時だけを見ていればいいんだよ」

「え?」


「美しさがすべてだ。その他のことは、僕にはどうでもいい」


 つまりわたくしは牛若さまにとって、どうでもいいのだとわかりました。ここにいらっしゃる人たちみんなにとっても、そうなのだと言われているのだと、そう思いました。

 癪だったので、足下の小石を蹴りました。爪先が痛くて、泣きそうになりました。そんなわたくしを見て、牛若さまは大笑いされ、そして仰いました。


「だから顔の痣なんて、どうでもいい。ゆきの美しさだけだ、僕に見えているのは」


「えっ」


 わたくしの顔は真っ赤になっていたことでしょう。そんなことを言われたのは産まれて初めてでしたので。


「わたし、美しくなんて……」


「いや、僕にはとても美しく見えているぞ」


 桜の花びらがひらひらと、わたくしの膝の上に落ちて来ました。わたくしはそれを拾い上げると、指に挟んで弄び、何も言えなくなってしまいました。


「ゆきから見て、僕はどう?」


 そう言われて、まるで悪いことをしているところを見つかった子のようにびくりとして、顔を上げました。すると夥しい桜の花を背にして、そのお方のお顔がこちらを向いて、自信満々に輝いてらっしゃいました。少女のように美しく、少女にはありえないほどに雄々しいその笑顔に、わたくしは正直な気持ちを告白したのです。


「今まで見たものの中で一番きれい」


「そこまでか!?」


 わたくしが何度もうなずくと、牛若さまはまた大笑いされました。


「そうか。僕も同じだ。ゆきは今まで見たものの中で一番美しいぞ」


 世界が輝きました。


 お世辞であろうと、そのお言葉があれば、これから一生くじけずに生きていける。そう思わされました。その次の瞬間にはすぐに訂正されましたけれど……


「あ、いや。すまぬ。母上の次だ。母上の次に、ゆきは美しい」


 それでもじゅうぶんでございました。


 あの時、わたくしのどんなところを美しいと思われるのか、聞くことが出来ませんでした。でも、それでよかったのだと思っております。わたくしの他に女人の存在しない小さな世界でした。もしかすると牛若さまに年の近い女人なら誰でも美しいと言われていたのかもしれませんからね。それに、それから後のわたくしは、己のどこが美しいのかを、自分で探すようになりましたから。牛若さまに美しいと仰っていただいた自分は美しくなければならないと思うようになりました。顔の痣は消えませんでしたので、せめて心は美しくあろうと、必死になることが出来ました。





 一晩宿を借り、お婆さんと一緒に離れで寝させていただき、目を覚ますと小鳥のさえずりが聞こえました。お婆さんは既に起きてらっしゃって、台所で大根を切る音が聞こえていました。


 朝日を背に、牛若さまが入ってらっしゃいました。


「ゆき。送って行こう」


 寝ぼけまなこをこすりながら、わたくしは「え?」と返しました。


「昨日、お師匠さまが言ってただろ? 女人がここにいてはいけないと。家まで僕が送って行く」


 わたくしは首を振りました。まるで天国にいたのを、地獄へ送られる者のように、何度も首を横に振りました。


「いやだ!」

 思わず牛若さまを睨みつけてしまったように思います。

「ずっとここにいたい!」


「そういうわけにも行かないんだ。ごめんね」


 牛若さまがとてもすまなそうなお顔をされたので、黙るしかありませんでした。そして大人の方々に導かれるままに、やっと見つけたと思った自分の居場所を、わたくしはたった一日たらずで追い出されるように出て行くしかなかったのです。





 わたくしは牛若さまの背中におぶられました。


 十二歳の少年とは思えないほど広く、温かかったあの背中を今でもよく覚えております。


 飛ぶような速さで牛若さまは急な山の斜面を駆け下りて行きました。


 後から聞いた話では、姿を遂にお見せにならなかった大僧正さまは鞍馬天狗だったという噂です。それが本当と思えるほどに、弟子の牛若さまは人間離れした膂力で、まるで神馬の背に乗せられたようにわたくしは、風になったような心地で下界へと戻されて行ったのでした。



 麓に着いても牛若さまはわたくしをおぶったまま、聞かれました。


「家はどっち?」


 わたくしはかぶりを振って答えました。

「家には帰りたくない」


「それじゃ、どうするの?」


 このまま野垂れ死ぬ、と答えようとしました。

 ですが、牛若さまを困らせたくなくて、答えを変えました。


「適当なところで下ろしてください」

 唇をぎゅっと噛みしめて、言いました。

「頑張って生きてみるから」


 心配そうに牛若さまが見つめるので、安心させなければと思いました。


「知り合いのおばさんがいるの。その人のところを頼ってみる」


「そうか。それなら僕も安心だ」


 嘘でした。知り合いなど誰もおりません。引っ込み思案のわたくしは父について町に出たことなどなく、それゆえ町の様子さえわかりませんでした。


 人家のあるところまでおぶってもらうと、そこで牛若さまに言いました。つっけんどんな言い方で、

「ここでいい」


「ここで?」


 人家はあるけれど、何もない場所でした。目立ったものも、わたくしの知るものも。小川の上にかかる小さな橋の上で、わたくし達は別れることになりました。


「ありがとう」

 背中から下りると、わたくしは牛若さまにぺこりと頭を下げました。

「一生忘れない」


 何を忘れないのか、正直自分でもよくわかりませんでしたが、わたくしは素直な気持ちを口にしました。


 牛若さまは、高くなりはじめたお天道様を頭に載せて、まるでわたくしを愛してくださる方のように、微笑んでくださいました。とても高いところから発するようなお声で、励ますように、わたくしに仰ってくださいました。


「美しくなれ、ゆき」

 今でもそのお言葉が胸に残っております。

「美しく生きろ」


 そうして牛若さまは、わたくしを置いてまた山へ戻って行かれました。それを見送りながら、なかなかわたくしの足は動こうとしませんでした。叱りつけるように、ぴしりと自分の手で足を叩くと、ようやく歩き出しました。何処へ行こう? 何処でもいい。とにかく家にだけは帰りたくない。

 鞍馬のお寺のような、自分の居場所だと思えるような場所を、他にも探すんだ。

 世の厳しさをまだ知り尽くしていなかったわたくしは、そんな甘い夢を夢見て、あてもなく歩き出したのでございました。


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