晩春の桜
わたくしのようなお婆の思い出話を聞いてくださるなんて、貴方様はお優しい方ですね。
ああ、桜の花びらがすべて散ってしまいましたね。土の上にとろけるようになっていた花びらたちも、その姿をすっかりと消してしまいました。
花の美しさを見るとあの方を思い出してしまいます。
とうに四十年も前になりお亡くなりになられたあのお方は、いまだわたくしの中では若々しく、生きていらっしゃるのでございます。
今はご覧の通りわたくしも人間らしく生きることが出来ておりますが、幼少の頃はそれは酷いものでした。
わたくしは京の都のはずれの小さな村で、農民の家の娘として産まれました。
きょうだいは六人おりました。いえ七人だったかしら? もうよく覚えてはおりません。
何しろわたくしは九歳の時に、口減らしのために叡山の奥へ捨てられたのでございますから。
わたくしはきょうだいの中で、一番の役立たずだったのでございましょう。体が弱かったわけではありませんが、人に交わることがどうにも苦手で、家の手伝いなどすることもなく、いつも野に出て遊び回っていた記憶ばかりがございます。
顔の右半分に醜い痣がありました。それを他人に見られることが恐ろしく、いつも誰もいない野原を駆け巡り、生き物達と遊んでおりました。危険な動物はそのへんにはおりませんでしたので、野良犬や野良猫、野良鹿などと一緒に遊び、兎や鼬を追いかけ回し、蛇を捕まえたりして遊んでいたのです。誰も見ていないところではお転婆な、人のいる場所では気の弱い子でしたね。
顔の痣のせいで遊女として売ることも出来ず、労働力にもならないわたくしは、ある日父に連れられて山へ薬草を取りについて行かされました。
町へ野菜を売りに行くというのならついては行きませんでした。顔の痣を、知らない人に見られて笑われるのは苦痛でしたから。でも山へ行けることはとても魅力的に思えたのです。どんな植物があるのだろう、会ったこともない珍しい動物に出会えるだろうか。そんなわたくしの性格を父は利用したのだと思います。
「この山の上のほうに金色に輝く薬草があるという。それを見つけて取って来てくれ」
父にそう命じられ、わたくしの目は輝きました。
なんでも一人でやる性格でしたから、父を山道において、山の斜面をよじ登って行きました。着物が汚れることなど気にもしません。どうせ襤褸の一張羅でしたし、わたくしの目にはまだ見ぬその金色の薬草だけが浮かんでいたのでございます。父が待つ場所への帰り道すら考えてはおりませんでした。その実、父はその後すぐに逃げるように帰り、わたくしは捨てられたのだということに気がついたのは、それからすぐのことでございました。
どうせ自分など、野原を駆け回っていない時は死んでいるも同然だと思っておりましたので、死ぬことはそれほど怖くはありませんでした。そうは思っておりましたのに、家族に捨てられたということは、死ぬことよりも辛く、金色の薬草などないということに気がついてからも、わたくしはどんどんどんどん、泣くように山の斜面を登って行きました。
上のほうに杣道がありました。道に立つと、四方を見回しました。木が鬱蒼と茂り、下界は見えません。
わたくしは岩の上に腰を下ろし、歌を唄いはじめました。その時につくった滅茶苦茶な歌をです。どうせ死ぬのなら最期ぐらいは誰かのお役に立ちたいと思ったのです。歌につられて熊さんでも出て来て、そのお腹の糧になれればと思っておりました。
「其は誰か?」
いきなりどこからか、人間の男の声が響き、驚いてわたくしは立ち上がりました。
「童子がこのような所で何をしておる?」
「誰!?」
わたくしはどこから聞こえてくるのかもわからないその声に、上から下まで見回しながら、大声で尋ね返すしかありませんでした。
「おまえは誰!?」
すると天から人が降って来たのです。
山伏というものをわたくしは見たことがございませんでした。ですので、最初に見た時には天狗様かと思ってしまいました。頭に黒い頭襟をくっつけて、錫杖を持った男の人が、わたくしの前に降り立つと、優しい目をされているのに、厳しい声で仰いました。
「捨てられたか。不憫よのう」
わたくしは熊に出会うよりも恐ろしくて、逃げ出そうとしました。
「待て。このさらに上に鞍馬寺という寺がある。そこまで行けば、食べ物を貰えるであろう」
そう言い置いてその山伏は、どこかへ赴かれる途中だったのでしょう、案内することなくわたくしを置いて、下のほうへまた飛んで行かれました。
わたくしはまだまだ高い山の上を見つめました。家に帰ることはもう考えていませんでした。山伏のように飛ぶことは出来ませんでしたので、また山の斜面を登りはじめました。
ふいに甘い香りに包まれました。
桃のような香りが漂って来て、わたくしをふんわりと包んだのです。薫りが強くなるほうへと、登り続けました。斜面に遮られて上のほうは見えません。わたくしは獣のように息を荒くして、がっつり、がっつりと岩を掴み、茨でチクチク痛む足をなんとか動かして、斜面を登りきりました。
一面の花でした。
色とりどりの、さまざまな花が、小さな世界を包み込んでおりました。季節はもう過ぎたはずなのに桜の花も満開で、やわらかく景色を彩っておりました。
ふと気づけば花に囲まれて、山伏から聞いていた通りのお寺がありました。わたくしがそちらへ向かって行くと、ちょうどあちらからも、寺の門を潜って、わたくしよりも少しばかり年上ぐらいの、一人の男の子が歩いて出て来たのです。
それがあのお方でした。
はじめは少女かと思いました。そのお美しさは、わたくしの知らないほどのものでしたので。白と黒の凜としたお着物を、花薫る風になびかせ、しっとりとした唇に横笛をつけて、それを微かに鳴らしながら、目を閉じたままこちらへ歩いて来られました。長い黒髪が艶を浮かべて、流れる清流のようにさらさらと、風に踊っておりました。
「もし!」
わたくしが乱暴に声をかけると、ようやくそのお方はこちらに気づいたご様子でした。
「鞍馬寺って、ここ?」
そのお方は笛を唇からお離しになると、興味深そうにわたくしのことをお見つめになられました。
「女の子が一人……? どうやってここへ来たの?」
お美しい見た目とは裏腹に、とても人懐っこい、温かみのあるそのお声を聞くと、わたくしは安心でもしたのか、途端にこらえていた涙がぼろぼろと、両目から溢れ出しました。
そんなわたくしの様子をご覧になると、そのお方は優しく微笑んでくださり、手を差し伸べてくださいました。
「お腹が空いてるんじゃないか? お芋の煮たのがあるけど、食べるかい?」
そう言ってわたくしの手を握ったのは、ほっそりとしていらっしゃるのに力強い、わたくしの心まで染み入るような、頼もしい手でした。
「あなたは……誰なの?」
わたくしが尋ねると、爽やかにその名を告げられました。
「僕は遮那王。呼びにくければ『牛若』でいいよ。君は?」
「わたし……お雪」
「どこから来たの?」
「わたし……捨てられたの」
「そっか」
そんな会話を交わしながら、手を繋いで歩きました。牛若さまがわたくしを連れて行ったところは寺の中ではなく、離れのような建物でした。
小屋のようなその建物に入ると、お婆さんが一人中にいて、囲炉裏で大きなお鍋の中に、小芋を煮ていらっしゃいました。お婆さんは何も聞かずに、にっこり笑うと、お椀に小芋のお汁を入れて、わたくしに手渡してくれました。
その小芋の美味しかったこと。今でも口の中のどこかに滋味に溢れるあのお汁が残っているようでございます。
「その顔の痣のせいで捨てられちゃったの?」
牛若さまは少しの遠慮もなく物を申されるお方でした。
「それだけじゃない。わたしが何もしない役立たずだから」
「それもきっとその痣のせいだよ」
牛若さまは小芋をよく食べるわたくしを気持ちよさそうに見つめながら、ご自分はお箸も持たずに綺麗に座って、微笑みながら仰いました。
「そんなこと気にしてばかみたいだ」
むっとしたわたくしを横からお婆さんが助けてくれました。
「若様。女の子にとってお顔に大きな痣があるというのは、心に傷を持つようなものなのですよ」
「そうなのかい? つまらないことを気にするんだなぁ」
「若様っ。お言葉が過ぎますよっ」
お二人のやり取りを聞いていると、わたくしはなんだか心があかるくなって、すべてがどうでもいいことだったように思えてしまうのでした。
そのうち牛若さまが仰いました。
「ようし。それならお師匠さまに消して頂こう」
わたくしは意味がわからなくて、ただ牛若さまのお顔をばかのように見つめました。
「お師匠さまはこの鞍馬寺の大僧正だからね、何でも出来るんだ。ただしお寺の中は女人禁制だから、もうすぐ修行が始まる時間だし、その時にお願いしてみよう」
大僧正さまは大変な恥ずかしがりやでした。修行の時間だというのでわたくしが牛若さまについて行くと、大きな岩の後ろにずっと隠れたまま、姿をお見せになりません。
「お師匠。それでは修行になりません」
牛若さまが仰いました。
「早くそこから出て来て修行をつけてください」
「にょっ、女人がこのようなところにいてはならん!」
大僧正さまのお声は地を揺るがすようで、それでいてとても気が弱そうでもありました。
「ばばあならよいが、お前のような年若いおなごがおってはならんところだぞ!」
「この子の顔に大きな痣があるのです」
牛若さまが呆れたように仰いました。
「お師匠さまなら消してあげられるかと思って」
「そっ、そんなものどうでもよいであろう!」
大僧正さまのお顔が真っ赤になっているのがなんだかわかりました。
「早くっ……! 早う帰らせろ! 遮那王、お前が送って行け!」
「私にはわかりませんが」
牛若さまが突っ込みをお入れになりました。
「お師匠にはこの娘の気持ちがわかるのでは? お師匠さまだって常人とは違ったその見た目を気にしておられるのでしょう? ならば、見てあげるぐらい……」
「わかったっ! わかった!」
大きな岩の裏から大きな手が伸びてきました。
「触らせてみ! とりあえず触らせてみ!」
わたくしが近くに寄り、顔を差し出すと、その力の強そうな手が、頬を優しくなぞりました。
「消すまでもないな」
大僧正さまは仰いました。
「その痣は大人になれば自然と消える」