推論家の末路
彼は、すべてを諦めている。
屋上のフェンスにもたれながら、空を見上げ、何もかもを悟ったように意味ありげな息を吐き出した。白い喉元がさらけ出される。細い首の中心に、ぼこっと浮き出た喉仏を見て、ああこいつは男なんだな、と俺はあまりにも今更なことを思った。そして、その喉を美味そうだとも。
「もう、疲れたんだ」
彼は喉仏を隠すように、顎を下ろした。横幅がなく、嫌味なく尖った鼻は彼が美人だと言われる所以だと思った。肌は白く、睫毛こそ多くはないものの、一本一本が長く、翳りを帯びて伏せられている。
「本当に疲れてるやつは、疲れてるなんて考えることも出来ない」
「そうかもしれない。だけど、俺、もうどうでもいいんだ。疲れてる人間の脳がなにを考えているか、おまえがなんでそんなに怒気を孕んでいるのか、なにも考えたくないのに思考を巡らす脳に辟易した。何も、なにも考えたくないんだ。俺は考えることに疲れた。だけど、今もこうして考えながらおまえと話してる。俺、気付いたんだ。人間は生まれながら束縛されている。みんな、同じように。なにもしない、ということがない。一見なにもしてないように見えても、それはなにもしない、という行為をしてるんだ。脳は動いてる。眠ってるときだって、必ず夢を見る。たとえ、覚えていなくても」
彼はその考えを一気に吐き出した。言い終えて、その行為にも嫌気がさしたように、溜め息をつく。重たい眼を、俺の足元あたりに向けている。
一歩が、踏み出せない。巨大な磁石でくっついてしまったように(俺に磁力があると仮定して)、両足が地面に張り付いている。タイミングを誤れば、彼はその瞬間、思考を止め、衝動で空へと飛び込むだろう。彼が望んだ通り、その一瞬だけ、彼は生まれながらの呪縛から解放される。
「……俺、おまえのことが好きだったんだ。本当に。最後にこんなこと言うなんて非道以外のなんでもないけど」
俺、そういうずるいところ、あっただろ。彼はもう、過去形でしか話さない。
--。名前を呼ぶ。彼の身体は、いつの間にかフェンスの向こう側にある。俺はタイミングを見逃した。見逃して、衝動で駆け寄ったら、それを誤った。眠りに落ちるかのように、妙ななだらかさで彼が落ちていく。
胃が喉まで浮き上がるような気持ち悪さだった。まだ、諦めるには早すぎると、俺はフェンスを飛び越えた。遠いと感じた空は近く、近いと思っていた彼があんなにも遠い。伸ばした手は、届かない。
人間は死んだあと、もう一度同じ人生をやり直せるのだろうか、と思った。身体に外傷はひとつもなく、痛みもなかった。意識も気味が悪いほどはっきりとしている。走馬灯というのは映像で過去を振り返るものだと思っていたのだが、もしかしたら実際に体験する形で記憶を回収するのかもしれない。というのも、すべてを諦めたはずの男が、俺を見下ろして、更には「パンとご飯どっちがいい?」などと呑気なことを聞いてきたからだった。
「……パン」
呑気な質問に呑気な返答。どういうことだと考える。確かにあのとき、俺たちは考えることを放棄したはずなのに。
「了解。……なんか、すごい顔してるけど。よっぽど質の悪い夢見てたんだな」
「夢?」
「さっき相当魘されてたから。あまりにもうるさいから目が覚めたんだ。で、腹減ったから何か食べようと思って」
もう十時だぞ、と俺に早く起きるよう促して、そいつは何事もなかったかのように出て行こうとしたので、思い切り腕を引っ張った。身体の上にもうひとつ身体が落ちる。
夢。そうか、夢か。確かにそうかもしれない。人は眠ってるとき必ず夢を見るってたとえその夢を覚えていなくてもって、夢の中のおまえも言ってたからな。……なんだかややこしいが、あれは夢だった。それは間違いない。夢で良かった。だけど、さも尤もらしい御託を並べていた男が、目の前でパンとご飯だとか、うるさいから目が覚めただとか、あまりにも気楽なことを言っているのが本当に腹立たしい。
「離せよ。言っただろ、俺、腹が減ってるんだ。それはもうとんでもなく。だから、今すぐ離せ」
「絶対に離さない。そもそもおまえがこんなに痩せてるのが悪い。生気が乏しいのがいけない。もっと食え」
「じゃあ離してくれ」
「いま言っただろ、絶対に離さないって」
矛盾してる、と不機嫌極まりない声が聞こえたが、無視をすることにする。軽くても胸にのしかかる確かな重みや身体の熱は、真っ白い皮膚の下で、確かに血液が巡ってる証拠で、俺は彼を抱え込んだまま横向きに寝返りを打った。抵抗されるがそれも無視。
「俺が諦めることを諦めるんだな」
もう一生パンは買わない、と可愛らしい反発。たとえ彼がすべてを諦めても、俺が彼を諦めない。
2011年1月に書いたお話でした。当時、無駄に小難しい言葉を使わせたくて書いていたような気がします。最後まで読んでくださり、ありがとうございました^^