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レッスンの代価

作者: モンティ

「先生。先生は覚えていらっしゃらないでしょうが、30年ほど前に先生にレッスンを見て頂いた者です。思いがけなく先生のお写真をフェイスブックで拝見し懐かしくなりメールしています。先生ちっとも変っていらっしゃいませんね。益々ご活躍されていらっしゃるようで私まで嬉しくなりました。今後の益々のご活躍を陰ながら応援しております」


そのメッセージは予告なく突然パソコンの右下に現れた。私はやりかけていた今日の演奏会の写真のアップロード作業の手を止めると湧いて出てきたそのメッセージに目を走らせた。30年前と言えば30歳の時だ。レッスンと言うからには当時教えていた橋本音楽学園での事だろう。あの頃の生徒か。


そこまで思いを巡らせた時、数行下の「追伸」が目に入った。


「追伸: 紀子先輩はお元気でいらっしゃいますか?」


その一文はまるで生き物のように俺の目の前でくねくねと波打ち始めた。「紀子先輩はお元気でいらっしゃいますか?」波打ち始めた文字を見つめているうちに目の前にぼんやりと30年前の光景が浮かんできた。俺は思わずきつく目を閉じるとパソコンのスクリーンにそっと頭を持たせかけた。



          *****   *****   *****



30年前、俺は都内の音楽学校で講師をしていた。東京の某有名音大を卒業した後、俺は音楽で食っていく事を決め、演奏活動の傍らこの音楽学校で少ない数の教え子を持っていた。高校を卒業して入学してきたその子達の、皆音楽の夢に胸を膨らませる姿はなんとも初々しいものがあった。女好きな俺は女生徒ばかり面倒を見ていた。


そういえばあの頃の生徒で記憶に残っている子がいる。その子は薫という名で、小柄なショートヘアの勝気な女の子であった。初めて俺の処に来た頃は並程の腕前でこれと言って引き立つ物はなかったが、レッスンを重ねるうちにメキメキと上達していった。レッスンに来るたびに俺の事を熱のこもった真剣な眼差しで見つめ、俺のいう事を一言も聞き漏らさじと前のめりになって聞いていた。手本で弾いて見せると、俺の脇にぴったりと寄り添うように立ち、真剣な眼差しで楽譜を追いながら隣で息をひそめ演奏に聞き入っていた。


そんな彼女とのレッスンは俺になんとも言えない優越感を与えた。出来が良くなく厳しい事を言う時、俺を見つめる彼女の瞳はかすかだが湿っていることが多く、ゆるゆると肩がうなだれてきて俯く姿に俺は幾度となく征服感を感じた。


「この子は俺に惚れている」そう見抜くのは容易かった。


当時俺には婚約者がいた。彼女は音楽学校の卒業生で名前を紀子といい、卒業後は音楽教室の講師をしていた。校内でも評判の美人であった上、学内コンクールで優勝した事もあり、そんな女を婚約者にできたことが俺は得意で堪らなかった。学校近くに住む紀子のマンションに転がり込みそこから出勤する日がほとんどだった。俺達が同棲していると噂が校内に広まるのに時間は掛からなかったが俺は気にも留めなかった。それどころか美しい婚約者との同棲はまるで戦利品の様に感じられたものだった。


教え子の薫が婚約者の紀子に最初にあったのはほんの偶然だった。紀子が俺のレッスン風景を覗きに来たのだ。評判の婚約者を目の前にした時の薫の様子は良く覚えている。憧れに満ちた目でまるで神々しい者でも見つめるように、頬を上気させ紀子に「こんにちは」と月並みな挨拶をした。紀子はパッとしない小柄な薫にちらっと視線を送り「頑張っているのね」と在り来たりの挨拶をして俺に腕を絡めると「あとどれくらいなの?」としなだれかかる。「もう少しだから」となだめて紀子を部屋の外に出すと俺は薫に向き直り「今日はこれまで」とレッスンを切り上げる。一瞬残念そうな表情を浮かべた薫はそれでも気を取り直した後、「ありがとうございましたっ。」とぺこりと頭を下げ楽譜を掴むとそそくさと練習室を出る。部屋の外で待っていた紀子の「今度遊びに来て」という陽気な呼びかけが聞こえ、直ぐ後に「はいっ!」っと威勢の良い薫の返事が聞こえた。



「あの子、あなたの事好きなんでしょ?」


婚約者の紀子が薫の俺に対する一途な思いに気づくのに時間は掛からなかった。俺は取り合わなかったが紀子の嫉妬にまんざらでもなかった。紀子と薫ではその美しさにおいても演奏の腕前にしても比べ物にならない程、紀子の方が断然出来が良かった。しかし自分より3つ若い薫の純朴すぎるほどの反応に紀子は穏やかでは居られなかったらしく、何とかして薫との距離を縮め彼女を監視下に置こうと心を砕いているようであった。紀子は時間が空くとレッスンを訪れ、そのまま薫を連れ歩きあちこちに出かけるようになった。そんな紀子に薫は相変わらず憧れと尊敬の混じった忠実な飼い犬のような目で見つめ、いそいそと彼女の後についていくのだった。突然美しい姉を持った妹のような気になっていたのだろう。


そんな薫に紀子は男を紹介した。紀子の同輩の管楽器を吹く男であった。「彼氏ができればあなたへの熱も冷めるでしょう?」と紀子は軽く笑いながら俺に言った。俺も俺で紀子の小手先のあしらいが可愛くもあった。と同時に管楽器を吹くような無粋な男を薫がどう思うかと変に気になった。


それからの薫はレッスンの時にはまるで少しリラックスしたかのようであった。彼女とのあの少し息が苦しくなるような空気間の密度は薄らぎ、代わりにのんびりとした希薄な空気が漂うようになった。俺を見る彼女の目に以前のような湿り気を帯びた熱はなく、代わりに乾いた落ち着いた瞳が俺を見つめるようになった。何故か俺は穏やかでいられなくなった。



そんなある金曜日の午後、俺は都下の楽器店へ学校で使用した機材を返還しに行く用ができた。車で1時間ほどの距離だった。機材を積んだミニバンを道路脇から移動させようとするとそこへ練習を終えた薫が通りかかった。俺はとっさに


「おい、ちょっと付き合わないか?」と声を掛けると薫は「はい」と素直にうなずき、俺が開けてやった助手席のドアに手を掛けるとするりと車に乗り込んできた。


「どうなの?最近。彼氏と上手くやってる?」何気なくを装って俺はそれとなく質問する。


「。。どうって。。普通です」薫はああともこうとも掴み切れない返答をする。


「いい恋してんのか?」更に聞いてみる。


「。。。分かんない。。」今度は何故か拗ねたような感の返事が来る。


「お前、彼氏の事好きなんだろ?」畳みかけるように聞く俺に、とうとう薫はうつむいてしまう。そして黙ったままぷいと顔をそらすと窓の外に目を向ける。


「お前、そいつの事好きなんじゃないのか?」そう言いながらちらっと薫の横顔に目を向けるが強情に窓の外を見つめたまま返事をしない。きつく握った両手の指先を小刻みに少し苛だった様に動かしている。


ひょっとしてこれはまだ脈があるかもしれない。俺はそう一人心の中でつぶやくとある事を決めた。



楽器の返還は程なく済み、俺はミニバンの助手席に薫を乗せたまま調布へ向かった。調布には俺のアパートがある。紀子と同棲を始める前に従兄と住んでいたのだが、今では滅多に帰らなかった。俺はそこへ薫を連れて行くことに決めていた。助手席の薫はあれから特に快活になるでもなく神妙な面持ちで静かに助手席に座っている。俺は薫とのレッスンを思い出していた。薫は俺の前ではいつもやや無口であったが、口以上にその真剣な眼差しで俺に自分の気持ちを伝えていたようであった。あの頃はこの子が俺に惚れているという確信があった。しかしもしかしたらそれは今でも同じかもしれない。この無防備な、それでいてまるで俺に自身を明け渡しているような従順さを見れば分かるではないか。素直に助手席に乗り込んできて何を尋ねるでもなく全て俺に任せているではないか。勿論そうだ。薫はまだ俺に惚れている。


アパートに着き、俺は黙ったまま車を降りた。薫も続いて車を降りた。俺はそのまま自分の部屋に向かい、その後を薫が下を向いたままついてくる。部屋に入ると俺は「そこのソファに掛けなさい」となるべく静かに声を掛けた。薫はソファの右端に座ると握りしめたままの両手を一心に見つめている。俺は薫の左側に軽く腰を下ろし、彼女の方に上体を向けた。


「こっちを向いてごらん」


そういうと薫はゆっくり顔を上げ俺の目をためらうように見上げた。ショートカットの前髪が額の上にぺったりと張り付き少し湿り気を帯びている。視線を俺と合わせぬまま落ち着きなく瞬きをする。


「ほら、顔を上げて」


そういうと俺は薫の顎下に軽く手を添え、そのまま彼女の顔を上に向け唇を近づけた。一瞬彼女の顔が引くのを感じたが俺は構わずに唇を押し付けた。すると薫も拒むことなくそのまま唇を合わせてきた。唇を重ねながら俺は薫の背中に両腕を回し強く引き寄せた。薫は抵抗することもなくされるがままになっていた。勇気を得た俺は背中に回した腕に更に力を入れるとそのまま薫をソファに押し倒した。薫は「あっ。」と言って唇を放したがそのまま俺と一緒に倒れ込みソファに背中を埋め同時に両腕で自分の顔を隠した。俺は彼女の両腕を優しく掴み顔から放すとソファの両脇に彼女の両腕を押し付けたまま自分の体の重みを彼女に押し付け更に唇を合わせた。薫は俺にさせるままにしていた。


こうして俺は薫を抱いた。処女だった。


事が終わった後、俺は薫を学校までミニバンで送って行った。時間は夕方の5時頃でこれなら薫が普段通りに学校から帰宅するのと変わらない。俺は彼女を拾った道端で降ろすと「気を付けて帰りなさい」と言って下げた窓ガラスを上げた。薫は「はい」と言ったきり何も言わなかった。まるで何時ものレッスン後の帰宅の時と変わらないその様子に、俺はたった今何時ものレッスンを終えたような錯覚に襲われた。


地下鉄の駅に向かう彼女の後姿をバックミラーでちらりと見た後、俺は奇妙な満足感に包まれた。あいつは今でも俺に惚れている。あの無粋な管楽器を吹く男の事などなんとも思っていないのだ。その証拠に俺にされるままになっていたではないか。あの従順そうな様子は本当の処は抱かれてまんざらでもなかったのだろう。俺は爽快な気分になり、ミニバンの窓ガラスを勢いよく下げて涼しい風に当たりながら紀子のマンションへ向かった。今日の事は紀子に勘付かれないようにしなくては。そう思いながらも何故か気分が浮き立ち車の運転まで軽やかになるようだった。



それは次の週の火曜日の午後だった。時間に几帳面な薫は夕方からのレッスンに姿を見せなかった。薫は最後のレッスンだったので俺は30分待つことにした。それでも現れなかった。1時間待ったがそれでも彼女は現れなかった。携帯に彼女からの「休みます」の連絡もなかった。俺は不穏な気分を感じながら先週の調布のアパートの事を思い出した。薫はあの事を気にしてレッスンに現れなかったのだろうか。俺は落ち着かない気分のまま紀子のマンションに帰宅した。


翌日俺は学校内を意味もなく歩き回り、薫の姿を捕まえようとした。しかし彼女は何処にもいなかった。カフェテリアで薫の級友らしい女生徒達が居たのでそれとなく聞いたところ月曜日から休んでいるようだった。俺は何故か胸騒ぎがした。薫は翌週のレッスンにも現れなかった。俺は薫の自宅に電話を掛け出向いてみることにした。


薫の母親の話によると、薫は金曜日に何時もの様に帰宅したという。そして土曜日にいきなり学校を辞めると言い出して両親をおろおろさせたと思ったらそのまま旅行バッグに身の回りの物を詰めて「ちょっと出かけてくる」と言ったきり出て行ってしまったそうだ。最初は暫く前に付き合いだした彼氏だという男のアパートにでも転がり込んだのだろうと思っていたが、もう10日も音沙汰がなく、その男の連絡先も分からないので昨日警察に捜索届を出してきたという。薫の家出は以前にも数度あったので今回もそうかと思い大げさにせずにいたのだがここにきて心配になってきたという。


「もう少し待ってみようとは思ったのですけれどねえ」と途方に暮れたように薫の母は言うと、俺に頼りなげな視線を返す。「何か分かりましたらご連絡頂けますか」とだけ言葉を返し、俺は逃げるように薫の家を後にした。


結局その後、薫の両親から連絡を貰うことはなく、薫も学校に戻ることなく俺の毎日はいつもの日常に戻って行った。彼女がその後何処へ行ったのかどうなってしまったのか、彼女の友人達も誰も知らない。俺も時間とともに薫の事もあの日の調布のアパートでの事も忘れて行った。その後暫くして俺は婚約者の紀子と結婚した。仲人は学校長だった。



          *****   *****   *****



そのメールを見た時、追伸の「紀子先輩」の文字を見た時、俺は直観的に「薫だ」と思った。俺の事を先生と呼び、紀子の事を紀子先輩と慕う30年前の教え子は薫しかいない。俺は心臓の鼓動が段々大きくなるのを体内に感じながら、心を静めるべく大きく深呼吸をした。その文面からは懐かしさと気遣いと彼女の人懐こさしか感じられない。もう一度ゆっくり読む。「思いがけず先生のお写真を。。。」「懐かしくなりメールしています。」「先生、ちっとも変ってらっしゃいませんね。」「。。。私まで嬉しくなりました。」そうだ、大丈夫だ。彼女は懐かしがっている。大丈夫。懐かしさから連絡を取ってきたのだ。


そう思うと同時に俺の体中にも何だか柔らかく暖かい感情が沸き上がってきた。熱心な教え子だった薫。俺の演奏を食い入るように聞き入っていた薫。調布のアパートでの甘い記憶。蘇るそれらの時間を思いながら俺は性急にメールを打ち返していた。


「貴女の名前は、薫ではありませんか?」


送信後、暫くしてメール画面がパソコンのスクリーン上に立ち上がり同時に返信が入る。

「先生、覚えていてくださいまして大変ありがとうございます。薫です。ご無沙汰しております。」


俺は逸る気持ちを抑え記憶の糸を手繰りながら薫を確証できるような思い出をメールに書く。それに対する返事は間違いなく、あの教え子の薫と思われる内容の返事だ。俺はメールの相手は薫だと確信した。


「良かったら最近の写真を送って貰えませんか?」そう書きながら最近の自分の写真を添付する。めっきり白髪が増えた俺だがそれでも30年前の面影も少しはあるだろう。フェイスブックの写真は7年前だがそれで俺が分かった薫なら左程の違いを感じるはずはない。


「先生、昔とちっとも変わりませんね」と優しい返事が薫から返ってきた。「最近は写真を撮っていないのです。明日美容院に行ってから写真を撮って送ります」


そう返事が来たきり、メールのやり取りは突然止まった。



翌日の朝9時頃、台所のテーブルに置いたパソコンのスクリーンの右下に、又昨日の様にメールの着信サインが点灯した。薫からに違いない。居間のソファで寝そべっていた俺は跳ね起きるとパソコンに向かいメールを開けた。


送られてきた薫の写真は音楽学校時代に二人で取った思い出の写真だった。右側に薫。その隣の俺。肩まで届く髪をおでこから二つに分け右側をピンでかき上げるように止め左手でピースサインを作りカメラに向かって少し照れくさそうに微笑んでいる。隣の俺は彼女の肩に手を回し顎を彼女の頭に軽く置き笑顔でカメラを見つめている。


当時の記憶が走馬灯のように俺の脳裏を巡り、俺は暫し軽いめまいに襲われ思わず目を閉じた。と同時に後方から激しい吸引力で吸い込まれていくような気配を感じ、慌ててテーブルの脇を両手で掴んだ。しかしその引き込まれるような力は勢いを止める事無く俺の背中を掴み続け、俺は思わずテーブルの縁から手を放しそのまま暗闇の中に吸い込まれるように意識を失った。



          *****   *****   *****



「やっと見つかったと思ったらこんなことになっていて。親御さんも諦め切れない思いでしょうに」


「それでもお骨が残っていただけでも良かったのじゃないの?何てったって30年前の事ですもの。あの学生時代の写真が無かったら薫ちゃんだと分からなかったわよ」


そんな会話をぼんやりと聞きながら俺は意識が戻ってくるのを感じた。はっと思い周りを見回すと、狭い楕円球型の壺のような物の中に砂のような灰のような粉とまるで骨のような物が何本も重なっていて。。その骨のような物は人骨のようにも見え。。その上に1枚の写真が。。俺と薫のあの写真。彼女がメールで送ってきたあの写真だ。そう気付いた時、俺は自分の体が重さを失い写真の中の自分と同化しているのを感じた。


「誰か~~!!出してくれ~~!!」


そう叫ぶも声は声にならず虚しく俺の頭の中でこだまする。ふと隣に気配を感じるとそこには当時のままの薫が微笑んでいる。


「先生、お待ちしておりました」



それから先の事は覚えていない。骨壺の中には薫のお骨と1枚の俺達の写真が眠っているのみである。



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