一話:お前さんの名前はカムイだ
一話:お前さんの名前はカムイだ
1
湿った地面の感触で眠っていた意識がゆっくりと目覚め始める。
視界に入ったのは見たことのない古木、樹齢何百年と経っていよう古木群の葉は、太陽の光を際切り地上に暗黒の世界を創り出している。
静かな森の中で彼はゆっくりと体を起こした。
「ここは何処だ?」
最初に出た言葉がそれだった。
四肢を触り怪我がないかを確認する、幸いにも怪我は無く両腕両足は健在だった。
ゆっくりとあたりを見渡しているとコメカミに痛みが走る。
どうやら切ったらしい、傷は深くない既に血は固まりかけていた。
頭を押さえつつ立ち上がる、静かな樹海は異様な空気を出していた。
迷彩柄の服に付いた泥を払い落し、辺りを見渡す。
人の気配は無く、動物の気配すらない。
まるで自分だけが人の世界から、人のいない世界に隔離されたような感じがした。
そんな疎外感から逃げようとおぼつかない足でフラフラと歩き出していた。
行く当てもないのに無暗に歩くのは自殺行為だと言うのは解っていた、だが孤独感から逃げたくて、その場から離れたくって、歩いた。
「おれは誰だ?」
名前が思い出せない。
「おれはここで何をしていた?」
ここに居る理由が解らない。
「どうしておれは……」
突然に何かに足を取られ、勢いよく顔面から倒れ込む。
顔に付いた泥を払いながら何を踏んだのかと確認しようと足元を見るやいなや、余りの異様な光景に目を疑った。
「な……」
人が倒れていた、首が無い人。
騎士の様相をした死体が転がっていた。
本来、頭が在る場所に在るべき場所になく代わりにどす黒い血が、川の様に流れていた。
「死体……」
胃の底から内容物が込み上げ逆流して来た、その場で這いつくばり嘔吐した。
気持ち悪さが止まることが無く何回も吐いてしまった。
胃の内容物を吐き切ったところで自分の居る場所に気付く、死体は一体ではなかったのだ、自分の周りを見渡す限り死体が溢れていた。
首が無い者、胴体を真っ二つにされている者、腸が飛び出ている者から潰されたザクロの様に真っ赤に粉々になった死体まで有った。
「な、なんだ、これ」
声を発した途端に首元を何かが掠めた。
矢だ。
振り向くと数人の騎士風の男がこちらに向かって来るのが見える。
何かの言葉を発しているが、何を言っているのかまるで解らない、ただ解るのはこの場に居たら殺されると言う事だけだ。
無我夢中で走り出す、頭の中で逃げろと叫ぶ。
暗闇の森の中を駆け抜ける、恐怖が、死の恐怖が背中から追って来る。
まだ怒鳴り声が聞こえる、何を言っているのか理解できない、でも、いい言葉ではないことは確かだ。
鎧の金属の擦れる音が大きくなるにつれて、自分の心臓の鼓動も跳ね上がる。
死にたくない。
複数の矢が飛んでくる。
一体どうなっているのか、自分は何者で、なぜこんな目に遭わなければいけないのか。
無我夢中で走り続け、次第に視界が開けると同時に水の匂いと音が五感を刺激する。
川が近いのか、音の方に向かうと視界が一気に広がると同時に走る地面が急に消えてなくなる、驚き勢い余って落ちそうになるが何とか踏み留めた。
立ち停まりゆっくりと顔を上げると視界に入った光景に、眼が釘付になる。
雄大な景色が広がっていた、横長に広がる滝が轟音を立て、滝つぼ付近に蛍のような虫が緑色の光を放ち舞い踊っていた。
荒々しい程の滝でありながら、どこが威厳のような物を感じる。
「ここは、イグアスの滝……」
南米のイグアスの滝に似ていたので思わず口走ってしまったが、どことなく違うような気がしてならない。
ふと、そこで自分が何故、南米の滝の事を知っているのかと疑問に思った。
「おれは南米に居たことが在るのか、でも、今、おれが喋っているのは日本語だよな」
逃げるのに夢中で忘れていたが確かに自分は日本語を喋っている、ふと、何かの記憶が頭の中に過る。
誰かを見下ろしている、子供だろうか、その子の頭を撫でている。
子供は女の子、六歳ぐらいだろうか、何かを必死に叫んでいるが音が全く入って来ない、何を言っている、何を?
記憶の断面は激痛によって現実の世界に巻き戻される。
背中に矢が刺さっている、激痛と共に悲鳴に近い呻き声を上げる。
激痛のする肩の方に視線を向けると背後に剣を構えた騎士のが居た、月の光で輝く禍々しいまでの刃先は今まさに振り下ろされようとしていた。
殺される。
咄嗟に地面に砂利を掬い上げ兵士の顔を目掛けて投げ付ける、兵士が一瞬怯んだ隙に滝つぼに向かって走り出す。
一か八か、ほぼ賭けに近いでも何もしないで死ぬよりは百倍マシだ、そう心の中で叫び。
「死んでたまるか!」
大声で叫びながら滝つぼに受かって飛び込むその刹那、一瞬であったがそれは視界に入った。
(月が、二つ?)
視界に収まった瞬きする程の時間、彼はそのまま滝つぼに落ちて行った。
2
「旦那様、いい加減帰りませんか?」
パティール王国ハマール領領主ジルマ・パティール公爵の従者であるロレは疲れた口調で立派な髭を生やした主、ジルマに言う。
愛馬の上でロレを見下ろしながら言う。
「せめて晩酌用の雉でも仕留めんと、ユリリがうるさい」
ジルマは弓の弦を弄りながらブツブツと聞こえるか聞こえないかぐらいの小声で言う。
「そもそも、日ごろからダラダラした生活をしているから奥方から『夕食用の鹿でも狩って来い!』とか言われるんです!」
人差し指を立てながらロレが言うと、ジルマは不貞腐れたような顔をする。
(まったく、これがかつて剣聖と言われた王族、ジルマ将軍か?)
ロレの主であるジルマは、パティール王国の王族であり現国王陛下であるカルマ・パティール国王の実の兄である。
十五歳の時に初陣で大勝利を納め、以降数多くの戦場で武勇を轟かせた武人、政治力でも手腕を発揮し長きに渡る隣国との戦で疲弊した経済を国王に代わり立て直したとまで言われ疫病対策でも活躍したほどだ。
文武両道であり誰もが長兄であるジルマが国王になるハズそう思った、だがジルマはどう言う訳か国王への即位を拒否して王位を二十歳も離れた弟に譲って隠居してしまった。
一時期は弟であるカルマの謀略説や、余りの強さに先代の国王から危険視されたとかいろいろな噂が流れたが、二十年も経てば何時しかその噂は時の中に消えて行った。
今は「お髭の公爵様」と言われて領民から慕われている低堕落な地方領主だ。
「時にロレよ」
ジルマが矢を番えずに弓だけを構えながら言う
「はい、旦那様」
「お前さんはまだ嫁を貰わんのか?」
またその話かと、溜息を付く。
ロレは既に二十五、嫁を貰い家庭を持ってもいい年頃である。
しかし、彼には嫁は居ないし女性と付き合った経験すらない。
様相は決して悪くはない、少し赤が混じった茶色の髪に、茶色の瞳は作りの良い顔とよく合っていた。
だが、モテない、どうしてなのかわからないか、とにかくモテないのだ。
「わたしは、旦那様の世話が有りますから」
「聞いた話では、酒場の娘に告白して盛大に振られたそうだな」
嫌らしいような声で言う、ニヤケ顔が感に触る。
北部の中心地でありながらも小さな領地であるハマールは、こう言うバカな噂は瞬きす程の速さで町全体に広がり小さな村まで飛び火する。
ただ噂が広がるならいいのだが、どこかで必ずと言っていい程に尾ひれがついて誇大化する。
この前も、急に腹を下し仕方なく草むらで用を足していたのだが、そこを見られてしまい、いつの間にか『公爵様の従者のロレは青空の下で全裸にならないと大便の方が出来ない性格』と言う意味の解らない噂が広がっていた。
今回の噂も良からない方向に尾ひれが付くに違いない。
「またわたしが噂の賄いにされるんですか、やめて欲しいですよ」
「まあ、流れ者だったお前さんがこの村に溶け込んでいる証拠だ、もっと胸を張らんか」
ロレは遥か北に在る小国の遊牧民族で生まれで、父母兄と妹の五人家族だったが隣国の侵攻で国中が戦火に包まれ、戦争から逃れる為に流れて来た所謂戦争難民だ、父母兄妹全て戦争で亡くし着の身着のまま歩き続け、この地に行きついたのだ。
始めは余所者と言う事で近づく者もいなかった、働きたくてもこの地に伝手は無く追い返される日々が続き、とうとう行き倒れていた所をジルマに拾われたのだ。
「お前さん、嫁探しに困っているなら知り合いを紹介するぞ」
「要りませんって、自分の嫁は自分で探します」
「そんな事言っていると一生独身だぞ」
「独身で結構です」
「まったく…… それより、腹が減ったな、そろそろ休憩にしようか」
「休憩するよりは下りた方が無難だと思いますが」
「まだ雉、捕ってない」
「……諦めましょう、下手に探そうとすると変えって見つかりませんし」
「でもな、収穫無しと言うのも……」
「森に入ってからずっと野草や香草など取ってますから、これで我慢してもらいましょう、大丈夫ですよ、怒られるのは一瞬ですから、ねえ、下りましょう」
「……そうするか、ロレ、怒られる時は一緒だからな」
「はいはい、従者としてどこまでもお供しますよ、旦那様」
「はぁ、ユリリの怒鳴り声聞きたくないな」
髭を弄りながら溜息を付くジルマに同情する。
「奥方様は怒ると本当に怖いですからね」
「そうそう、この前も――」
ジルマが言い欠けた時、草むらから急に飛び出して来たものに馬が驚き落馬しそうになる、ロレは咄嗟に手綱を引き何とか馬を落ち着かせる。
一体何がと飛び出してきたのか、その方向に目を向けると視界に入ったのは緑や黒などのまだら模様の服を着た全身ずぶ濡れの大柄な男だった。
大柄の方に分類されるロレよりも、頭一つ半分の背がある大男だ。
背中には矢が刺さっており、傷の周辺はまだら模様の服が赤く染まっている。
ロレは咄嗟に腰に差している剣に手を掛ける。
(盗賊か、いや、あの身なり、どこかの隣国の敗残兵か)
とにかくジルマの安全を確保しようと一歩目に出ようとしたが「お前さん、背中に矢が刺さっているぞ、大丈夫か?」とジルマが臆する事無くロレの前に出て言う。
「旦那様、御下がりを!もしや、隣国の敗残兵かも知れません」
ハマール領はドット大河を挟んで二つの国と国境を接している、先日その両国が領土問題を発端とした戦争が在ったと聞いている。
その敗残兵が川を越えてこの領地に流れて来てもおかしくない。
「まあ、まてロレ、あ奴、武器らしき物は持ってはおらん、それに怪我をしておるじゃないか、治療してやれ」
「旦那様!何を言って!」
「イイから治療してやれ」
「しかし、隣国の敗残兵を助けそれが中央に知られたらどんなお咎めが来るかわかりませんよ、それに怪我をしていても兵士なら素手でも戦えるかもしれないじゃないですか!」
「あ奴、兵士ではないよ」
「どうしてそう言い切れるのですか!」
「目を見れば解る、戦う兵士の眼をしておらん」
「でも!」
「二度も言わすなよ、ロレよ」
真顔で言うジルマを見て身震いを覚えた、本気の眼をした時のジルマは体が恐怖を覚える程恐ろしくて仕方ない。
ロレは柄に添えていた手を放し、男に近づく。
大柄である自分より頭一つ半の身長差がある、呆けていた様に立っていた男は自分が近づいてもまるで上の空だ。
「おい、矢を抜いてやる、背中を見せろ」
どこにでも居そうな普通の顔がこちらを向く。
こちらを向いたのは良いがただ覗き込むようにこちらを見ているだけだ。
「背中だ! 背中を見せろ!」
男は首を傾げる。
「おい!言っている言葉が解らないのか!」
男はまるで変な物を始めて見たような顔する。
(こいつ、もしかして言葉が通じないのか)
ロレはいくつかの言語で話しかけるが、どれも反応が無いのを見て確信する。
(間違いないな、言葉が通じてないな)
ロレは男の両肩を掴み一回転させると、矢を抜き布で抑える。
思っていたよりも出血が少ない、致命傷になる大きな血管を外れていたのかもしれない、運がいい奴かも知れない。
ナイフで傷口の周りの服を切捨て持っていた葡萄酒を消毒薬代わりに掛ける。
男は呻き声一つ上げないで成すがままされていた。
持って来ていた簡易的な救急袋から包帯を取り出して巻く。
「終わったぞ」と振り向かせ顔を見ると思わず笑い出してしまった。
顔を真っ赤にして涙目になりながら必死に我慢している顔がどこか可笑しかったからだ。
「お前、痛いなら痛いと言えよな」
男は涙目になりながらもニコリと笑い出す、涙目で笑うと一層可笑しな顔になる。
「まあ、そう言っても解らんか」
「終わったか」とジルマが言う。
「はい、終わりました、でも彼、言葉通じないようですよ」
「フムン」
「どうします?」
「そうじゃな、あと少しで日が沈むし、ここに置いて行くのも忍びない、連れて行こう」
「本気ですか?」
「本気じゃが、それとも何かそこまでしておいてこの森の中に置き去りをすると言うのか、それは、人間としてどうかと思うが」
「しかし!」
「この地の領主は誰だ、ロレよ」
「旦那様です」
「なら、わしの言うことを聞け、ほら、行くぞぇ」
ロレは頭をかきながら身振り素振りで、付いて来いと言う。
解っていない様なので仕方なく、手を引っ張って行くしかなかった。
「どうして、男の手を引っ張らなきゃならんのだ」
ロレは大きな溜息の意味を知る人間はここには居なかった。
3
肩の治療をしてくれたので悪い人ではないとそう感じた。
でも、自分はどこに連れて行かれるのだろうか、そう考えると怖くなる。
昨日の夜の襲撃から朝目が覚めたら、川の中瀬にある岩に運良く引っ掛かっており、お蔭で溺れずに済んだ。
川から上がると体の怪我を確認する、四肢に異常無しで骨も折れているところは無い、背中に刺さっている矢は手が届かないから抜く事は出来ない、出血も差ほどではないのでほって置くことにした、素人が下手に抜くと大量出血になると言うのは知っていたからだ。
ふと、空を見上げる。
「太陽は一つか」
瞬きするぐらいの一瞬だったが、確かに月が二つに見えた。
「ここは異世界か」
もしそうなら、どうやって元の世界に帰ればいいのか、どうすれば良いのか。
とにかく、まずは人の居る町か村を目指そう、そう思い森の中を彷徨っていたらこの人達に出会った。
あの白髪頭の老人は偉い人だろう、若い男の行動や言動からそう判断した、となると若い矢を抜いてくれた方は従者だろう。
先ほどからちょくちょく振り向いては声を掛けてくれているが、何を言っているのか解らない。
時々加えられる身振りで何となく言いたいことが分かったが、それでも難は有る。
しばらくして森を抜けると、大きな街道に出る。
その街道沿いを歩き、小一時間程で城が見えて来た。
高く険しい山を背にした巨大な城は二重の堅城な城壁に鉄城門で守られていた。
街は敵の攻撃を防ぐ為か、石造りの城壁は見上げる程高い。
「まさに異世界の城だ」と小声で呟く。
城壁内の街の中は夕方になるころだと言うのに未だに活気付いていた。
異世界の物語で出て来るような露店や見世物小屋などが犇めき合っていた。
「おい、こっちだ!」
従者の男が手招きしている、どうやら呼んでいるようだ。
周りに見とれて少し離されていたらしい、小走りで従者の元に戻る。
「離れるなよ」
何か言っているようだが、たぶん離れるなと言っているのだろうか、取りあえず頷く。
「おれの名前はロレって言う、ロ・レ。解るか、ロ・レだ」
自分に指を指しながら、ロレ、ロレを連呼している、彼の名前だろうか。
「ろ・れ?」
「そう、ロ・レ!もう一回言ってみろ」
「ろ・れ。ろれ、ロレ!」
指差ししてロレと言うとロレは親指を立てて「そうおれははパティール王国ハマール領領主の従者、ロレだ」と言う、無論、理解できたのはロレだけだ。
「お、おれは――」とそこで思い出す、おれの名前を言おうとして言えない自分に気付く。
「どうした?」
心配そうな顔でこちら見ているが、出来る返事は笑顔を見せることぐらいだ。
「何笑っているんだよ?」
「おう、お前さん方、何をしているユリリのご機嫌を取るための賄いを買って来たから城に帰るぞ」
老人の方は何かの袋を持って戻って来た、何を買ったのだろうか、拷問用の道具だろうか。
二人は二言三言、言葉を交わして再び歩きはじめた。
着いたのは、二つ目の城壁の内側の館だ。
白い館はおとぎ話で出て来る館そのまんまでいかにも異世界と言う感じだ。
中に入ると控えめな装飾がされた廊下を歩く、見たことのない銅像や絵などが飾ってある。
もしかしたらこの老人、この地の領主か何かかもしれない。
だとしたら、これから向かう先は拷問部屋か。
「あなた様、随分と遅いお帰りで‼」
怒鳴る様な女の声が廊下中に響き渡る、目の前に居たのは侍女のような恰好をした中年の女性だ。
「いや、ユリリ、まあ、その、何と言うか、その――」
「物事はハッキリと聞こえる様に! テキパキと言いなさいといつも言っているでしょう‼」
「……済みません」老人が目の前の女性に委縮していた。
「あの、奥方様。これには色々ありまして――」ロレがフォローしようとするが女性の鋭い眼光でロレも委縮する。
「あなたには訊いていません、口出し無用よ!」
「いや、しかしですね――」
下がらずに懸命に取り繕うとするが。
「聞こえなかったのかしら、わたしは二度も言いません、解りますね。ロレ」
「はい……」轟沈する
どうやらここの人はこの女性に頭が上がらないようだ。
「で、何をしていたのかしら、それにそこの大男は一体誰?」
「ああ、こいつか、さっき森の中で拾って来た」
「わたしは鹿を狩って来いと言いましたよね、あなた様」
「はい」
「で、どうして鹿ではなく人間になっているのですか」
「いや、ちゃんと鹿肉持ってきたぞ、市場で買った奴だが」
頬を叩く乾いた音が盛大に廊下に響き渡った。
「何かしら、朝、鹿狩りに行って取って来たのは人間と精肉された鹿肉、しかも市場物、あなた様はわたくしを舐めているのかしら」
胸元を掴んで物凄い剣幕で言う、正直その顔はまるでヤクザだ。
何を言っているのか解らないが、たぶんあの老人が何かしらの怒らせることを言ったのだろう、慌てふためいている。
「わたしは新鮮な鹿肉をお願いしたはずですよ、今日は何の日か忘れたのですか」
「何の日だったかの、最近物忘れが激しくって」
再度乾いた音が廊下に響いた。
「呆れて物が言えないわ」半泣きの顔になる。
老人も慌ててロレに答えを求める顔をする。
「旦那様、今日は二十五年目の結婚記念日ですよ」とロレが言う。
「ああ、そうか結婚記念日か、アハハ忘れておったわい」
「酷い人、求婚した時にわたくしにこの日に『毎回変わった鹿肉料理を出す』と言っておきながら、料理長が他の領主に引き抜かれて以降、毎回わたくしが作ってばかり、あの約束は嘘だったのですね」
両手で顔を覆って泣き崩れた。
事態が読み込めないが内輪もめだけは理解できた。
「仕方ありませんわ、どうせ今回もわたくしが作るのでしょう」
女性は袋から鹿肉を取り出す。
どうやら買っていたのは拷問道具ではなく肉のようだ。
(もしかして料理するのか)
女性が明けた部屋は調理器具などが置かれている調理場だ。
肉を調理場の中央の台に置き、包丁を取り出し振り下ろそうとしてその手が止まる。
気付いていたら、女性の腕を握っていた。
「貴様! 奥方様何をする!」
ハッ、としてロレを見る、今にも剣を抜きそうな勢いだ。
「おれが料理する」と言ってみたが逆に事態は悪化して剣が抜かれる。
脅し言葉と間違えられたのか。
女性の手を放す、女性は逃れる様に老人の元に寄る。
(どうしたものか)悩んでも仕方ない、肉を手にして切る動作や鍋を振る動作をする、ジェスチャーで説明するがロレは、一歩、また一歩と間合いを詰める。
(だめだ、通じてない)
ロレの剣は既に間合いを詰め終わり、いつでも切りかかれると言わんばかりに上段に構える。
(斬られる)
剣が振り下ろされ目を瞑る、痛みは来ない。死んだのか恐る恐る目を開けると剣は寸前の所で停まっていた。
よく見るとロレの肩に老人の手が置かれている。
「こ奴、もしかして料理させろと言っているのではないのか」
「はあ?」
「そうじゃろう」
と何かの相槌を求める、何を言っているのか解らないが取りあえず頷く。
「やってみろ」と何かを言ったあと、包丁で物を切る動作をするので『やってみろ』と言っているのかもしれない。
取りあえず、調理場を人通り見渡す。
有るのは、鹿肉、レタスとニラの様な葉野菜、香草類、調味料は塩、オリーブオイル、ライ麦酢に見たことのない真っ黒な液体。
真っ黒い液体を味見する、甘い、ミックスジュースの様な甘みだ。
でも、砂糖の甘みではないこれはハチミツと数種類果実のしぼり汁で作った甘味料のようだ。
味からして、葡萄、林檎、オレンジ、後は食べた事の無いこの世界独自の果実か何かだ。
「醤油と味噌、味醂は無い、無論コショウ類もない、まあ、当然だな」
包丁を見つめる、それだけで今ある具材で何か作れるのか頭の中に次々と浮かんで来る。
「調理開始だ」
まず、鹿肉を一センチ間隔に切る、塩を万遍なく振り、千切った香草を乗せ少し寝かせる。
その間にソース作り、小さな鍋にライムビネガーと先程の黒い液体と葡萄酒を入れてバルサミコ風のソースを作る、少量の塩で味を調える。
オリーブオイルを引いたフライパンに香草、たぶんだが、ローズマリー。
鹿肉を乗せ弱火でじっくりと焼く。
肉の焼ける香ばしい香りとローズマリーの香草爽やかな香りが調理場に広がり始める。
ミディアムレアに仕上げ、葉物野菜と共に皿に盛りつける。
料理を作りながらふと思った、どうして自分は料理の知識が在るのだろうかと。
どこかで、習った、でも、どうしてこんな格好をしているのだろうか。
わからないことだらけだ。
4
奥方のユリリは未だに機嫌を損ねているだろう旦那様であるジルマの顔を見ようともしない、何とか機嫌を取ろうとして言い繕っているようだが、どれも聞く耳を持たんと言わんばかりの膨れ顔だ。
いつもの事ながら夫婦喧嘩の仲裁に入る自分の身にもなって欲しいと、ロレはため息ばかり出る。
静かに扉が開く音がして視界をそちらに向ける、先ほどの大男だ。
奥方に手を挙げた時はヒヤリもんだったが、料理を始めた途端に目付きが変わった。
(あれは戦う者の眼だ、こいつ何者だ?)
男が入って来た途端にいい香りが鼻腔を擽る、香草の良い香りがする、持ってきた皿を旦那様と奥方様に出す。
「お待たせしました、鹿肉の香草乗せバルサミコ風です」
出された皿はまるで芸術品の様に飾られていた。
料理と言えば大量の野菜と肉を炒めて大皿に出して取り分けて食うのが主流、しかし、この飾られた料理は宮廷でもまずお目に掛かれない。
「フムン、ちぃと量が足りない気もするな、しかし、美しい盛り付けだ」
「本当に、まるで芸術品だわ」
二人が歓喜の声を上げる、ジルマがフォークとナイフを取ろうとして「待ってください! わたしが毒見します!」と声を上げる。
いくら美しい料理だとしても、領主であるジルマが毒見せずに食べるのは危険過ぎる。
ロレはフォークとナイフを取る、確かに美しい、食べるのが勿体ないと思えるほどに、でも、旦那様の命を護る為なら仕方ない。
鹿肉にフォークを入れる、肉汁が溶け出し湯気と共に香草の香りがより引き立たせる。
ロレは恐る恐る口の中に入れる。
「!……‼ う、うまーーーーい‼」
思わず大声を出してしまった。
我に返り顔が一気に火照り出す。
「それ程が、で、毒は入っていたのかいないのかどっちだ?」
「あ、入っておりません、それにしてもうまい、肉の塩加減が絶妙です、濃過ぎず薄すぎず、肉の味をそのまま出す塩加減。香草の香りと風味が肉のおいしさを更にき引き立てる、何よりこの黒いソース、このソースの甘みと酸味が肉のうまみを! 肉のおいしさを最大限に引き出している」
そう、いつも食う塩辛い肉とは違い、香ばしく肉の甘みが口一杯に広がる。
「フムン、どれ」
ジルマとエリリも一口食べる。
「確かに絶妙な塩加減、これ以上濃ければ肉の味を殺してしまいそうになり、少なすぎれば物足りない感覚になりかねない絶妙さ」
「あなた様、このソースも甘みと渋味がより肉の味を引き出していますわ」
「ウム、見事」
「今まで食べたどの鹿肉より、おいしくてよ、あなた様、これ程の素晴らしい結婚記念日ではありませんこと」
「そうか、何よりだ」
「そうだわ、あなた様、居なくなったシェフの代わりにこの男を雇ってみては如何かしら」
「こ奴を?」
「ええ、そうなればわたくしが毎晩料理を作らなくて済みますし、何よりこの男、料理達者。毎日朝晩美味しい料理を食べられてよ」
「フムン、確かに一理あるな、シェフが居なくなって既に五年だ、フムン。お主、名は何という」
男は頭を傾げる、名前だと聞いても言葉が通じないのではいくら聞いても返っては来ないだろう。
ロレは言葉が通じないことをジルマに説明する。
「そうか、では、まず、言葉を覚える事から始めよう、ロレ、お前が教育係りだ」
「わたしですか?」
「そうだ、頼んだぞ」
頼まれたくないとは言えない。
「まあ、こいつも我が家の一員に成ったのだから、呼び方を考えなくてはな」
「その前に旦那様、こいつまだ了承してないと思いますが」
「ああ、どうせ言葉が通じないのだからいいだろうよ」
それでいいのか、とは言えなかった。
5
二人は何かの話題で盛り上がっている、女性の方は機嫌を取り戻したのだろう、黙々と肉を頬張り時折笑顔を見せる。
どうやら口に合ったようだ。
それにしてもと、どうして自分には料理の知識が在ったのだろうかと思ってしまう。
迷彩柄の服を着ていると言うことは、自分は自衛隊員かも知れない。
何故自分はあそこに居たのだろうか、ここは果たしてどこのだろうか。
疑問が頭の中で蠢き答えが全然出てこない、それに自分が何者なのだろうかと言う疑問もある。
「おれは一体……」
「お前さん、おい、聞いているのか!」
我に返りいつの間にか発熱していた討論は終わりを告げ、皿も空いていた。
「お前さん、行く当ては有るのか?」
何を言っているのか解らない、でも、真剣な顔で言っているから変な回答はマズいかもしれない。
「そう言っても、解らないか…… どうじゃろうか、ここで働いてみないか?」
指を差した後、包丁を使う仕草をする。
料理をしてみないかと言っているのだろうか。
取りあえず頷く。
「そうか、まあなんだ言葉の壁はロレに教わればよい、話せるようになったらちゃんとした名前で呼ぼうと思う、それまでの間、お前さんを借りの名前で呼ぶこととする」
老人は、ロレに何かの指示をして彼は席を離れる、しばらくして紙と万年筆を持って戻って来る。
紙に何かを書きはじめる。
「お前さんの借りの名だ、受け取れ」
そう言って渡された紙には見たことのない文字が書かれていた。
何と読むのだろうか、と顔で訴える。
「カムイじゃあ、お前さんの名前だよ」
紙を指した後、自分を指して『カムイ』と言った。
おそらくこれは名前だろう、たぶん、名無しでは呼びづらいから借りの名前を付けてくれたのかもしれない。
「かむい、かむい、カムイ?」
「そうじゃあ、お前さんの名前はカムイだ」
自分は名前を貰った。
カムイ、アイヌ語で確か神様と言う意味だったような気がする。
この世界ではカムイとはどういう意味なのだろうか、少しだけ知りたくなった。