レポート③ イラスラ渓谷
レポート③ イラスラ渓谷
わたしは今、車の中に居る。
隣には陽気な鼻歌を歌うキッシュがハンドルを握っている。
「いい天気だと思わないか、ジュラール」
「ああ、いい天気だ」
雲一つない快晴の空の下を走る。
眼下に広がるのは長細い渓谷。
イラスラ渓谷。
ドグマ州の外れにある渓谷、この渓谷全てが国管轄の国立公園である。
わたしがどうしてキッシュとここに訪れたのかと言うと、ここが古戦場であり、歴史の分岐点と言われている戦が起きた場所であるからだ。
「しかし、何故この渓谷に来る、お前はカムイ・パテヤンを追っているのだろう」
「ドグマ州による次いでだ、それにここは重要なターニングポイントだからだよ、歴史の教科書にも載っている」
そうここは歴史の教科書に掛かれるほどの有名な場所だ。
ここから、パティールの歴史が大きく動き出すことになる。
「そうかい、まあ、おれは写真が取れればそれでいい」
キッシュはそう言って笑みを浮かべる、彼は常に笑っていることが多い。
ハマールの酒場で彼と意気投合し、わたしの素性を話すと彼も自分のことを教えてくれた、彼は有名な戦場カメラマンだった。
キッシュ・ロヌールと言えば、大陸大戦の開戦の瞬間を捉えたことで有名だ、当時七歳だった彼は、父親からお下がりで貰ったカメラを持ってガリアとアルビオンの国境付近で写真を撮って遊んでいたらしい、その時に偶然に映り込んだ、敵の車両隊、それが国境を越えてアルビオン王国内に侵攻するガリア軍を捉えた瞬間だった。
その写真で彼の人生は変わったと言う。
「あの写真が無ければ、おれは、今頃、しがない農夫していたさ、あの写真を偶然とはいえ撮ったことで、おれの人生は戦場と背中合わせになった」
そう、酒を飲みながら彼は言った。
わたしは彼に強い共感を覚えた、わたしもまた、詩人であるベルの詩集を読まなければおそらく父の後を継ぎ料理人として生きていただろう、だが、今のわたしが握るのは包丁ではない、文字を書くためのペンだ。
「おい、ジュラール、うちのお姫様はまだ寝ているのか?」
そう言われてわたしは後部座席に目をやる、そこに居るのはお姫様もとい、大型犬であるゴールデンレッパーだ、毛むくじゃらで大きな耳が垂れて両目を覆っている犬、あるドラマの影響で一時期有名になった犬だ。
目をやるとこちらに気付き、被さった耳が動き、栗色の瞳がこちらを見るが直ぐに何事もなかったかのように大きな欠伸をして、再び寝始める。
「ああ、寝ているよ、この犬、いつも寝ているけど」
「大丈夫だ、こいつはおれの相棒でありお姫様だ、お姫様の機嫌を損ねるなよ、噛みつかれるぞ」
彼は笑いながらそう言う。
わたしは苦笑いするしかなかった。
別段、犬が嫌いなわけではないが好きという訳でもない、進んで触りたいとは思わないだけだ。
そんな会話をしている内に、わたし達は目的地に着いた。
イスラス渓谷古戦場跡。
ここで、ラバール神国とパティール王国が激突した戦場だ。
隣で写真のシャッターを押しまくるキッシュを尻目にわたしは、イメージを膨らませる、ここでどのような戦いがあったのか、どの様なことがあったのか、そう、文を起こす前にイメージをする。
そう、生暖かい、血飛沫が舞い、血の様な生暖かい感触を…… うん? 生暖かい?
閉じていた瞼を開き足元を見ると、キッシュの犬がわたしの足に小便をしていた。
その犬は悪びれる様子もなく、用を足すとそそくさと車の後部座席に戻ると、再び寝始める。
キッシュはその光景を見て笑っていた。
笑う前に止めろよ、とわたしはそう言ってやった、心の中で。
代わりに出た言葉がこれだ。
「イピカイエー! クソォ犬!」