世界vs私
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『クレーツィアには弟がいた。
幼い頃から足が不自由で、あまり外に出られない子だった。
クレーツィアは大好きな弟のためにいつも、屋敷の中でできる新しい遊びを考えてあげていたものだ。
その弟も、去年流行った緑斑病によって17歳という若さで死んでしまった。
だから彼女は、緑斑病をなによりも憎んでいた。彼女の家族を全て奪ったのは、その恐ろしい病なのだ。』
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それが物語の中で唯一、アニヴァルメアの描写だった。名前すらもでてこない。
彼の足が不自由だった理由もたいして決めていなかった。
ただ、幼いころの事故によるもの、といちおう設定してあっただけだ。
結果的に、アニーヴはあの転落事故で一命をとりとめた。
私とルーシュカの力で治癒させている間に、騒ぎを聞きつけた庭師たちが駆けつけてくれたのだ。
――けれどもしも、この世界がすべて、私の書いたとおりの運命だったら。
小説のとおりなら、アニーヴは17歳まで生きて、死ぬ。
そうだ。小説のとおりなら、あの転落事故で死ぬはずなんてそもそもなかった。
あとから医師によって聞かされたが、あのまま、私とルーシュカが動転して何もしなかったら、間違いなく彼は、下半身不随になっていたようだ。
アニーヴの足の神経はひどく傷ついており、あの時は時間との勝負だったらしい。
私は今でも、足と背骨を折って、ばらばらになりかかった弟の姿を夢に見る。
あんな大きな事故は、あれ以来、彼の身に起きていない。
だからあの転落は偶然じゃなかったと思う。
本来なら私の作った設定にしたがって、アニーヴの両足を奪うために起きたに違いない。
アニーヴが一命を取りとめたのすら、奇跡じゃなかった。
それはすでに“決まっていた”ことだった。
“幼いころから足が不自由なクレーツィアの弟”、を生みだそうとしていたのだ。
私は、そのことに思い当たったとき、ぞっとした。
「世界」が「私の設定」に合わせるために、まるで意思をもって動いたように感じた。
この世界では悲惨な未来が決まっていると、ようやく実感がわいてしまった。
あんまりだと思った。
絶望した。
――けれど同時に、私は、その運命にあらがえる、ひとすじの可能性を見つけることができた。
あれから10年。
2人が木から落ちた事件から、10年がたった。
「姉上、だめですか?」
アニーヴが美しい笑みを浮かべて、首をかしげる。
今年15の彼は可愛い天使から、神話に出てきそうな美青年へと成長をとげた。
我が弟ながら、イケメン過ぎてまぶしいぞ。
そして彼が身にまとう、竜の紋章を胸部にほどこされた黒い装束は、この国の騎士見習いが着る制服だった。
とてもよく似合っている。
春風がその黒装束をなびかせる今日。
私の弟は、はれて騎士見習いになる。
「ねえ、姉上? 聞こえました?」
最近追いぬかされた身長でのせいで、弟が上から覗きこんでくるようになった。
私は、隣に立ったアニーヴを少し見上げることになる。
そう、アニーヴの足は完治したのだ。
もちろん、そんなことは物語の未来にない。
彼は運命に打ち勝った。
なんらかの働きかけによっては、それが可能だと証明してくれた。
アニーヴこそが、私に希望を与えてくれた。
未来を、変えられるかもしれない、と。
「姉上?」
「……ああ、ごめんなさいアニーヴ。聞こえにくかったの。もう一度言ってくれる?」
ぼーっとしていたせいで、弟の話を聞き逃してしまったようだ。
すると、アニーヴは少し真剣な顔をした。
「ねえ姉上、最近、耳の調子がまた悪くなっていませんか?」
「あら、そんなことはないわよ。むしろ良くなっているくらいだもの。今のは考えごとをしていたせい」
心配でたまらないといった様子のアニーヴを、私は笑ってなだめた。
じつをいうと、私は左耳が少し聞こえにくくなっていた。
それは10年前に自己治癒能力をすべてアニーヴに注いだ結果だった。
治癒の力とは、無限じゃない。
どうやら人に与えれば、枯渇し、自分のためには残らないみたいだ。
一度失った治癒能力は、長年をかけてまた蓄積していく他はなく。
10年前のあの日から、長い間、私は風邪に対する抵抗すら失っていた時期があったのだ。
そしてあるとき、数度目の高熱を出した際に、片耳の聴力を著しく削がれてしまった。
だからアニーヴは、私の耳に対して責任を感じている。
「そんな顔をしないの」
眉をよせて、じっと私のことを見ている弟の頬に、私は手をあてた。
左耳が少し聞こえにくくなった程度と引き換えに、弟の両足の自由を取り戻せたのだ。
本当は、「もうけたぜ!」くらいに思っている。
それに今日は、アニーヴにとってせっかくの門出だ。
祝福すべき大切な日に、こんな悩ましい表情は似合わない。
彼はこれから騎士見習いとして、寄宿舎に入る。
家を出る弟を、笑顔で見送りたかった。
「それより、私に何か言いたいことがあったんじゃないの?」
そう指摘すると、アニーヴは気をとり直したようにうなづいてくれた。
「はい。姉上と2人で写真を撮りたくて」
「もちろんいいわよ。家族写真のあとでいいかしら」
アニーヴは、姉ちゃんっ子が治らない。
まあ、私としては喜ばしいことだ。
いつまでも慕われているとついつい甘やかしてしまう。
「あと、姉上だけ写っているやつも欲しいです」
「……。どうして? 必要ないでしょう」
「必須です。持ち物リストに入っていますので」
「アニーヴ、あきらかにそれは寄宿舎へ持っていく必要はないわ」
さすがにシスコンもここまでくると、少し頭が痛くなるが。
そのとき、一台の馬車が庭先に止まった。
「アニーヴ、祝いに来てやったわよ!」
馬車から降りた少女が叫ぶ。
この、良くとおる少し大きな声は、言わずもがな、だろう。