竜と麦葡萄
もういいかい?
まぁだだよ
もういいかい?
まぁだだよ
くすくすと笑う2人は、麦葡萄の木々のどこかに隠れているのだろう。
あちこちに走り回る音がしていた。
ルーシュカは隠れるのがまだ下手だから、きっとアニーヴのあとを追いかけて一緒に隠れているのだろう。
もういいかい?
もういいよ。
私は、麦葡萄の樹林で目をあけた。
そこは木漏れ日の中だった。
麦葡萄の木を心地よい風が通り過ぎて、まだ青い芽をつけたばかりの木々を揺らす。
この麦葡萄は、竜の国でとくべつ多く栽培されている果樹だ。
私たち竜の国の民は、皆んなそろって、この麦葡萄に目がない。
それは、竜の国の人々が誰しも少なからず受け継いでいる、竜の血のせいだった。
猫にまたたび。
竜に麦葡萄。
はるか昔、まだこの世界に生粋の竜がいた頃は、唯一の弱点がこの麦葡萄だったとさえ伝えられている。
国民に受け継がれてきた竜の血筋のおかげで、香りはもとより、見た目にすらもうっとりしてしまうほど皆これが大好きだ。
あ、竜の血筋、といってもこれといってすごい力があるわけじゃない。
たいていの人は、普通より身体が丈夫だったりする程度で、特別な魔力なんてない。
けれど、王家に連なる人ほどになれば、竜の血が濃いせいもあって、ちょっと人離れしていたりする。
治癒能力が人並み外れて異様に高かったり、ちょっと丈夫な歯と爪で人を害せたり。ルーシュカもそれだ。
私は、木漏れ日のまぶしさに手で影をつりながら、ふと上を見上げた。
麦葡萄の木の高さは、だいたい15メートルくらい。
黒紅色の花は初夏に咲く。果実は球状で、秋に熟すと上品な濃紫色の薄い皮が裂ける。
すると、中から多汁性の果実の粒が無数に現れるのだ。
見た目はざくろにとても近い。
味は葡萄のようで、深い甘みがある。発酵させてお酒にすると、麦酒に似た舌触りと後味になる。
麦と葡萄はそれぞれビールとワインになるけれど、どちらの良いところも併せ持った麦葡萄酒を、私たちは愛している。
アルコール度数が極端に低いうえ、竜の体質に合うから、子供ですら飲むことを許されているしね。
面白いことに、竜の血が濃ければ濃いほどこの麦葡萄に酔いやすい。
じつはクレーツィアも竜の血がかなり濃い方だから、私は麦葡萄の実の香りだけでご機嫌になれたりする。
ルーシュカなんて、見ただだけでほろ酔い気分になるだろう。
今はまだ春先だから、麦葡萄の木の枝には葉しかついていないけれど。
実がなる秋が待ちどおしい。
そうして麦葡萄の木を眺めていると、がさがさと急にその枝が揺れたではないか。
思わず、ぎょっとして立ち止まった。
アニーヴのひそひそ声がする。
「動かないでよ、ルーシュカ!」
「だって、ドレスがひっかかったんだもん! ちょっと足どけて!」
そこに2人がいる。
麦葡萄の木の、だいぶ高い枝に上っている。
ルーシュカとアニーヴに木登りを教えたのは、失敗だった。と私は苦々しく思う。
どうしてあんなに高いところまで登ってしまうのだろう。
危ないってことが、わからないのだろうか。
「2人とも、見つけたわ。早く降りてきて」
降りてきたら、まずは説教をしなくては。
どちらも馬鹿ではないのだから、ちゃんと危険を説明すればわかってくれる。
ため息をついたときだった。
べきっと、かすかだが、嫌な音がした。
とっさに、私は音のしたところを確認する。
案の定、2人が乗っている枝の根元だった。重さに耐えかねて、折れそうになっているのだ。
「動かないで!」
私がそう言わなくとも、2人は状況を把握し、青くなってしまっている。
「クレーツィア……」
不安そうにルーシュカが私を呼ぶ。
大人を呼んでくる時間はあるだろうか。
地面に落ちたとき緩和材になるような……布でも、落ち葉でもいい、集める時間はあるだろうか。
私が息を殺し、一瞬考えを巡らせただけで、その時間は切れてしまった。
ひときわ大きな亀裂音が響く。ああ、もう枝が折れる。
2人ともなすすべもなく、すがるように私を見てる。
「アニヴァルメア! ルーシュカを守りなさい!」
私はとっさにそう叫んだ。
彼は私の大切な弟で、かけがえのない存在だ。
でも、この国の、たった一人のお姫さまと天秤にかけるものじゃない。
私はルーシュカを受け止めるべく、木の真下まで走った。
落ちる瞬間、アニーヴの黒い瞳としっかり目が合った。
彼は、青い顔で小さくうなづいたように見えた。手をのばして、ルーシュカの頭を抱えようとしたのが、見えた。
2人は真っ逆さまに落ちてくる。
ごめんね、アニーヴ。私は泣きそうになった。
アニーヴだって恐いはずだ。下手な体勢で落ちれば、簡単に死んでしまう高さだ。
それなのに混乱している頭で、信頼している姉が言えば、あの子ならとっさに従ってしまうだろう。
それでも、私は命じたのだ。
命を賭せと。
ルーシュカのために、犠牲になれと。私はなんて残酷な姉だろうか。