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水竜の目

ハルシアの白衣は、今や、汚水をかぶった私の白衣と同じくらい汚い。

思いきりかけてしまったから。

私の嘔吐したモノを。


「いいから全部吐いちゃいなよ。その方が楽になるから」

「……ごめん。もう全部でた……」

羞恥に両手に顔をうずめて私は答える。


ついこの間、ハルシアがびしょ濡れになったばかりだというのに、今度は私が濡れ鼠のようになってる。

臭いし。最悪だ。


ハルシアは私を抱えなおして、いたわるように歩いてくれた。

「それで、なにがあってこんな状況なの、クレーツィア? 顔色もひどいよ」

「水をかけられただけよ」

「どうして?」

「んー……」

たぶんあなたが原因です。なんて、面と向かって言いづらくなってきた。


ハルシアは蒼い目で私を覗きこむ。

彼が心底心配そうにしているから、吐いて少し気分が良くなったと、嘘でもそう言おうとして私は彼と目を合わせた。

――自分の変化に気づかずに。


「クレーツィアっ……その目どうしたの?」

そう言ってハルシアは表情に驚愕を宿したではないか。


なんのことだろうと一瞬考えたけれど、すぐに思いあたった。

「あ。目……」

とっさに顔を伏せる。

生まれてこの方、それは竜の国ではあたりまえだったからすっかり失念していた。


私たち竜の国の人間は、竜の血力が働くときに瞳が変わる。


瞳孔が細くひらき、爬虫類の目になる。

治癒の力を使ったときもそうだが、水を一気にかぶったときもどうやら竜の血が反応してしまうらしい。


前世の小説にはなかった、竜の国民のささやかな特徴だ。

爪や歯が鋭い、という設定の他にいくつか付け足されていた生態の一つ。


それは今の人生で竜国の少女、クレーツィアとして生まれた私には普通のことで、常識とは違うことを忘れていた。

たった今指摘されて思い出したくらいだ。


変化がでるのは、水を大量にかぶったときや、身体を浸したとき。日常ではお風呂のときくらい。

ちょっと雨に濡れたり、洗い物をしたくらいじゃ何も起きない。

そのうえ瞳の様子がかわるだけで他には特に変化がない。


私の目は黒いおかげで、よく見ないとわからないし。


たいしたことはないと思っていたけれど、それをはっきり間近で見てしまったハルシアの表情を見て、思いを改める。

人の顔面に爬虫類の目があれば、たしかに気持ち悪いんだろう。


「これね、乾けば戻るから」

苦しまぎれにそう説明しても、ハルシアの表情は戸惑いを隠しきれていなかった。


どうやって説明しようか。

竜の国の民には特別な力なんてほとんどない。

けれど、ほんの少し特殊なのは事実だ。


そもそも竜の国自体が特殊な場所だった。

閉鎖的で、誰も外の世界に興味を持たない。

そこには、ささやかだけど人間とは違う、そんな人たちしかいない。

そういう環境では自分たちが普通の人間と違うことをたまに忘れてしまうものだ。


私は故国の人たちが竜の血を引いていることを、当然だと思っていたけれど、ハルシアはそれすら知らないのかもしれない。

竜の国の民がどんな人種なのか、外界の人はよくわかっていないんだ。


「……少し、顔を伏せていて」

ハルシアは数回呼吸をしたあと、とりあえず落ち着いた様子を見せる。私の頭を自分の肩によりかからせて、そっと私の目を隠してくれた。

このまま運んでくれるらしい。


どうやって私を抱えて、研究棟の窓を登るつもりなんだろう、と思っていると。

ハルシアはなんと研究棟の表から入ろうとした。

当然、門番の衛兵さんにつかまるわけで。


「ハルシア様、この先は部外者の立ち入りを禁じております」

「急病人なんだ。急いでいるんだけど」

「いえ、規則ですので……」


渋る門番さんを、ハルシアは睨み付けた。ほんのりだけど、怒気をあらわにした彼を初めて見た。


「僕が、僕の名において許可する。黙って扉をあけろ」


この人がこんな風に権力をふるう姿はめずらしいんじゃなかろうか。

門番さんは何も言えなくなったようで、すばやく扉をあけてくれた。


ハルシアは研究室に着くと、すぐに浴室に行きバスタブに水をためはじめる。

「顔色が真っ白だよ。やっぱりベッドでちょっと横になる?」

「ううん、お風呂が先で」

私は、今は横になってもちっとも楽にならないことを知っている。


この世界の蛇口は、前世の世界のように便利じゃない。

水を貯めるには少し時間がかかる。

でも、私の心境としてはそんなの待っていられなかった。


「バスタブはいらないわ。このままでいいから」


そういって服も脱がず、頭から勢いよくシャワーを被った。

隣にいるハルシアも一緒に被るけど、ハルシアも汚れていたし、ちょうどいいだろう。


この世界のシャワーも蛇口もちゃんとお湯が出る。でも簡単なポンプ式で、少しずつ自分で円形のハンドルを回し続けなければ出てこない仕組みだ。

お湯を出しながら、何度も深く息をする。

シャワーを浴びて、汚い水を洗い流して、私はようやく生き返った気持ちになる。


「クレーツィア……」

「ねえ、ハルシア。私の目はおかしい?」


今もまだ私の瞳孔は人のモノじゃないだろう。

傍で一緒に水を浴びるハルシアをそのまま見あげる。


「私たちの国の祖は、山麓の湖に住んでいた水竜なの。綺麗な空気と清廉で澄んだ水を好む生き物よ。ずいぶん薄まったけれど、私の身体にはまだ少しその竜の血が流れてる。おかげで普通の人と違うところもある」


これが証拠だという意味もふくめて、ハルシアの目から視線をそらさなかった。

この細いく長い瞳孔が竜の血を物語るだろう。


「私たちは水に身を浸せば、祖先の水竜と同じ瞳がよみがえる。そして、今でも祖先と同じように汚い水が苦手なの。毒にも等しいっていわれているくらいに、身体が受けつけないみたい」


冷水は我慢できても汚水は我慢できなかった、これが理由だ。


祖先の水竜の血がそれを拒絶してしまう。

あっというまに具合が悪くなるのだ。

これはかつて水竜の弱点であり、現在の私たちの弱点でもある。


「君たちが竜族と呼称されるからには、そういう伝承や事実もあるだろうと思っていた。まさか、本当にそういう特別な異種族の血筋が生き残っているとは思っていなかったけど」


ハルシアは恐る恐るというように私の瞳を覗きこんでくる。

そんな彼の頬を両手ではさみ、目をそらせないようにして私は語気を強めて言った。

ハルシアが私を恐れるなんて、許せない気すらした。


「“竜族”なんて、他の国の人たちが勝手に呼ぶだけよ。私たち竜の国の民は、自分たちを異種族だとは思っていないわ」


ちゃんと私を見て欲しかった。

だからハルシアの頬を両手ではさんだまま彼の目を見つめ続けた。


「同じ人間なの。あなたたちと少しちがうところがあるだけ」


ハルシアは池の水に浸かっても、シャワーを浴びても、人の瞳のままだ。

それに対して私は違いをあらわにしてしまった。

こういうことが受け入れられない人は、必ずいるだろう。


けれど私は、ハルシアに理解をしめしてほしかった。

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